第136話:お局様と異動の話
連休二日目。
少しだけ落ち着いた。でもくすぶっている何かがそのまま横たわっているのは分かっていたから、テレビでごまかそうとしたけど、くだらなすぎて消した。
ツタヤまで行って、強引に、海外ドラマを1シーズン借りた。途中が抜けてないやつならどれでもよかった。それでも、クオリティが低くて見続けられないと困るから、旬の監督J.J.エイブラムスとやらを選ぶ。<LOST>は見てないんだけど、この<FRINGE>ってのはどうだろうか。
とにかくもう、どれにしようか迷う愉しみなんてのもないから、カゴに突っ込んだ。連休にドラマをイッキ見なんて、言葉だけ聞くと悪くないね。発狂しそうな自分を抑えたくて、画面に釘付けにしておこうって、もう抗鬱剤みたいなもんだけど。
そういえば、確か正月もそんな状態になって、まあならなくたって帰省する気はなかったけど、ツタヤに来てDVDを借りるという行動が出来るだけ、マシなのかな。・・・僕ってこんなに弱かった?どうして今まで生きて来れたんだろうね。
買ってきたプレーンヨーグルトを味なしのまま食べながら、2リットルの烏龍茶とライ麦のサンドイッチを横に置いて、DVDを見始めた。ラーメンやポテチを食べ過ぎて気持ち悪くなるのは分かってたから、せいぜい体に良さそうなものを食べ過ぎればいい。ヨーグルトなんて三つまとめ買いした。とにかくお金ばかりがかかる。生きていくために稼いで、稼ぐために何とか生きている。
ドラマは、最初のうちは事件に主人公が巻き込まれていく必然性が不明瞭で、死んだ恋人のこともうやむやで、ちょっと冗長だったけど、だんだんとその事件の奇異さに引き込まれていった。しかし、いつまでも恋人のことを引きずってるけど、いったいあの男のどこが好きだったんだ。<恋人>っていうのがラベルでしかなくて、ちっとも共感できない。まあ、僕に恋心の機微なんて、分かるはずもないか。
6話ほどぶっ通しで見て、ちょっと面白くなってきた。いくら死体とはいえ目ん玉を取り出すのは少しグロかったけど、大体シリーズものは、2話目でグロくして刺激的にするって相場が決まってるんだ。
ほんの少し残っていたウイスキーをちびちびやって、だんだんと気持ちも落ち着いた。そうだ、僕にはミステリがあったじゃないか。こうして謎解きしてる間が一番好きだ。そうだ、それが足りなかったに違いない。これ、シーズンいくつまで出てるんだろう。残業後に1話見るのはきついけど、これなら三月を乗り越えられるんじゃないか?
明け方まで見続けて、いったん寝て、昼に起きて、また続きを見た。
見てる間は集中していて、でも、1ディスク見終わると目と頭が痛くてぐらぐらした。だからまたディスクを入れるわけだけど、ああ、もう最後になってしまう。次のシーズンを借りに行く元気もないから、これが終わったらもう寝て、そしたら月曜から金曜まで会社に行かなくちゃ。
・・・。
すっごくだるくて嫌になった。もう、寝るか。
会社のためだけに生きてるみたいで腹が立つけど、今寝ておかないとたぶんまた火曜から、いや火曜といわず月曜から、眠気と頭痛で仕事にならない。
ポータブルDVDプレイヤーでも買おうかな。
通勤電車で見れたら、何とかこの体を新宿まで引っ張っていけるかも。そういえばツタヤに売ってたっけ。・・・もう、本当にお金ばかりかかるな。残業代が全部消えそうだ。
それでも、何かを買おうとか、これがあれば良さそうだとか、思えるうちは大丈夫だと思った。まだ地に足が着いている。本当に落ちてはいない。繋ぎとめてくれたJ.J.エイブラムスに感謝しながら歯を磨いた。感謝という概念を覚えているうちは大丈夫だ。うん、大丈夫が重なって、もう少し大丈夫になった。細い糸だけど、切れてない。まだいける。今週、くらいは。そしてもう一日、来週の月曜日、三月の最終日くらいまでは、ぎりぎり、きっと。
・・・・・・・・・・・・・
月曜は朝から調布に舞い戻って、検収書を取って一件終了。電車での間が持たなくて、本当にDVDプレイヤーを買えばよかった。滅多に読まない日経なんか読んだりして、別に背伸びして大人ぶる年でもなし、おっさんくさいだけ。
それでも目で字面を追うだけでも時間が潰せたから、まあ助かった。時間は今、潰すためだけにある。早く、帰って、ドラマの続きを見るんだ。もうそれだけ。今月の目標はもう、それだけだ。
さっさと二件目の検収書を取るべく、次は都心へ向かう。一件目があっさりしてたから昼前に終わっちゃうかなと思ったけど、そうはいかなかった。
・・・今更、そこをごねるわけ?
何だか前と違う担当者、っていうか誰?みたいな女性がしゃしゃり出てきて、矢継ぎ早に文句をつけられ、たじろいだ。こんなにあからさまに責め立てられるのもめずらしい。そういう驚きが先に立ったから、ヘコまなくて済んだ。妙に冷めた目でそのちょっと古臭いセンスの服の、襟や腕なんかを見ながら、「左様でございましたか・・・」。もう、デパートのおもちゃ売り場とかにある、百円入れてジャンケンかなんかするマシーンみたい。「左様でございましたか・・・」「それは、至らずに・・・」「具体的なお話は、この間の方に・・・」。うん、この三つのどれかしか出ないのに、よく頑張るねえ。はは、どうやっても「申し訳ない」「こちらの不手際で」とは言わないぞ。何をまくし立ててるのかよくわかんないけど、わかんない時こそ謝るなって課長から言われてるし。・・・ガキの使いだな。でもこなせないよりましだ。
しばらく押し問答が続き、お互い上司と相談して、水曜にまた参ります、というところで終わった。この三十分、いや、小一時間、いったい何をする時間だったんだ。あんたにあれこれ言われるより、後ろの女子社員に哀れみの視線を向けられる方が余程つらかったんですけど。
お昼をだいぶ過ぎたせいで、逆に周りの定食屋やファーストフード店の混雑に巻き込まれなくて済んだ。そんなに食欲はなかったけど、ここで蕎麦くらいすすっとかないと、帰宅は十二時間後なのだ。
午後はまた鹿島と関口に合流して、導入とネットワーク繋ぎ。正直僕がいなくてもいいっぽいけど、じゃあ抜けて何をするって頭も働かなくて、ずるずると客先の応接スペースに居座った。少し時間が取れそうだったので、ざっくりとまたふせん整理を始め、今週の予定を立て直す。水曜の午前は納品、午後は展示会のヘルプが入ってるけど、検収書の方が優先だしな。まあ、あの担当者でもない女性がすぐに判をついてくれれば問題なく行けるけど、どうだろう。ちょっと押すかもしれないな。ま、展示会なんかどうでもいいか。検収書という杖をかざせば海でも割れる時期だ。
・・・・・・・・・・・・・・・
帰り、今さっきの件を二人に振ると、二人が同時に顔を見合わせた。
「それ、池袋の?」
「いえ、日本橋」
「ああ、日本橋にもクライアントあった」
「あのお局様、そっちにもお出ましたか」
どうやら別件でも何かあったらしい。相当な要注意人物のようだ。でもまあ、これで僕が悪いんじゃなく、トラブルメーカーに当たっただけだと分かったから、とりあえずよかった。
「だって、同席してる向こうのマネージャーも黙っちゃってさ、何も言えないんだよあれ。いやあ、健在だったかあ」
首をかしげながら、「あれ、きつかった」と関口。
「きつかったって、あのね、この人知らん顔で見てるだけよ。俺らがこってり絞られてんのに、我関せずでくつろいじゃって」
「いや、十分ストレス受けた。あのオバさん来ると読み込みまで遅くなってさ」
電車で三人並んで座り、間に挟まった僕は左右を見ながら「へえ、なるほど」「そうだったんですか」と相槌を打った。二人とも、疲れてはいるけど基本的にはいつも通りだ。僕も調子を合わせて何とか平静を保ってるけど、うん、相槌のバリエーションも見る間に減って、風前の灯だな。決算期だろうが増税直前だろうが、世界は普通に動いてる。なぜか僕だけが取り残されて、一人わき腹を抱えて走っているんだ。しかも、これといった理由もなく。ただ、磨り減っただけなのかな。これが本来の寿命だった?
「おい、ついたよ」
手首を引っ張られて、強引に立たされた。うとうとしていたらしい。新宿だ。
思わず、その引っ張っている腕をつかもうとして、でも一瞬違和感を感じて手を引っ込めた。・・・何か、低い。黒い塊が、いつもより、低い。
動悸がした。戸惑い。何だ、いったい何の違和感だ。
「おい、あんた、まだ寝てんの?」
「へっ?」
「目ぇ開けたまま寝んの怖いから。・・・ってか、何か、あった」
語尾を下げての疑問形。鹿島はもう改札を抜けている。僕は焦ってパスモが出せない。
「い、いえ、何も。すいません」
「そうか?」
「・・・たぶん」
ポケットをあちこち探っていると関口がおもむろに僕の胸に手を当ててきて、僕は「え、ちょっと」とよけた。
「ま、時期的なもんじゃない?俺も、あんたくらいの時、いろいろ、あったから」
「へっ・・・?ああ、そういえば体、壊したとか・・・」
そして、上着の中まで探られたら、Yシャツの胸ポケットから会社支給のパスモが出てきた。
「あ、あの、ど、どうも・・・」
「それが分かるとは言わんけど、まあ、分からんわけでもないんじゃないかね」
「え、あの、何のこと・・・」
「・・・何のことって、さっきの、覚えてないの」
「え、さっきって?な、何かしましたか俺」
「・・・いいよいいよ、じゃあ寝ぼけてたんだろ。気にすんな」
「ちょ、ちょっと、何ですかそれ!」
僕は慌てて関口を追いかけて改札を通るけれども、なぜかピンポンと閉じてしまい、「係員にお知らせください・・・」。関口はまたちらと二秒こちらを見て、何も言わず歩き去った。
一瞬、左手に、熱を感じた気がした。
まさか、関口の手を握るとか、膝を触るとか、してたんだろうか?
いや、いくら欲求不満だって、男相手はないだろう。
・・・気になってふと手を顔のあたりにやってみると、タバコのにおい。
そのにおいで何かの記憶が刺激されたような気がしたけど、・・・すぐ消えてしまった。
帰社してから関口に声をかけても、「仕事の話しかしない」と、こちらを見もしなかった。まったく、僕は何をしてしまったんだ?まあ、本人が気にするなと言うならそれでいいんだろうけど・・・。
・・・・・・・・・・・・・
例のお局様のことは課長も知っているようで、「お前、よりによって今捕まってくれるなよー!」となじられた。
「そんなこと言われても、ちゃんと担当者呼んだのに、急に出てきて・・・」
「だめだめ。うわー、面倒持って来てくれたなあ・・・。もう俺知らない。もういっか。この検収諦めるか」
「そ、そうですか。いいんですか?」
「いいわけないでしょ。何とかするんだよ」
「何とかするっつっても、ひひ、手強いぞー」
鹿島が苦笑いで話に加わる。何となく共通の敵に向かって団結する感じになって、僕としてはむしろお局様に救われた形になった。四課内でも有名だったらしく、「ああ、あれですか」「そうそう、あん時の」と、何となく和み、この話題のおかげで別件もすんなり報告できて、ミスもちょっと大目に見られた感じになった。
佐山さんがちょっとしたお菓子を配ってすっかり団欒ムードになっていると、急に後ろから怒鳴り声がして、全員が一瞬固まった。
「お前なあ、もうちょっとやりようがあるだろ」
「・・・でも」
「やる気あんのか。最後までちゃんとやれ!」
「・・・すいません」
「もういい。・・・さっき言ったとこまでだけまとめて。オーケー?」
「・・・はい」
「じゃあ戻って。はあ、もうちょっとだろ。気を抜くなよ」
「・・・はい」
久しぶりに三課の中山の雷が落ちた。固まっていたみんなが、何となく気まずくなりながら仕事に戻る。怒られていたのは、よく聞こえなかったが、黒井か?あいつが?
課長が「お局様のがマシかな」と肩をすくめ、鹿島が「どっちもどっちかねえー」と茶化した。それでも四課の和やかムードは戻っては来ず、何となく縮こまったまま残業が続いた。
菅野と佐山さんが先に帰されて、後ろから島津さんの「お先です」も聞こえ、女性陣がいなくなると少しはフロアが落ち着きを取り戻した。中山はその後も何度かあからさまに舌打ちしたり机を叩いたりし、横田が前を向いたまま「山根くん怖いよう」とささやいた。
「僕も怖いよう」
「何で荒れてんの」
「知らないよ」
「あれかな、異動の話?」
「何それ」
「四月から、経営企画に行くとか行かないとか」
「でも何で荒れるの。それって、その、降格なの?」
「さあ。でも、さいたまあたりで支社長って話もあったらしい」
「そうなんだ。そんで、その後こっちの支社長なるって話?」
「ゆくゆくは?」
「ふうん」
はあ、四月か。そんな時期か。やり手で数字の鬼の中山の下には入りたくないなと思っていたが、本社に行くならその可能性もなくなるから、ちょっと安心だ。どちらかと言えば人情派の道重課長でお願いしたい・・・といっても、四月のことなんか今は何も考えられないし、総括面談とやらからも逃げたくて仕方ないけど。
お局様と中山のおかげで、何とか自分を保ったまま月曜を終え、深夜に帰宅した。DVDをつける余裕なんかなくて、ヨーグルトを食べ、シャツと靴下を洗濯カゴに入れ、歯を磨くのが精一杯だった。
寝る前に、関口が言っていたのは何のことだったのか、そしてあの時感じた、関口の背が「誰かと違う」というような違和感、そしてはタバコのにおいから連想したのは何だったのかを思案したが、その違和感がどんな感じだったのか思いだす前に、眠りに落ちていた。
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