第260話:潰れて死んだ虫の音

 黒井は僕の手首を強く両手で握って、「行くなら早く行こう・・・!」と、結局ついてきた。

 僕は何だかむやみにパニックにかられそうで、急かされるのには応えず、さっきと同じか、さらにゆっくりと廊下を進んだ。

 二人とも、何か聞こえるたびに竦み上がる。

 最初は片耳からお経が聞こえるなんて怖すぎたけど、今は、この場所の音が全部聞こえるのがどうしようもなく怖くて嫌だった。

 他の部屋は、ドアがいちいち半開きくらいで、丸いノブの横に<31>と殴り書きがあったりした。左手に部屋が並び、右手は窓だが、割れているところもある。

 早足になりそうなのをこらえながら、<初診室>でつきあたり、そして、廊下は左に折れていた。

 つきあたりの目の前に、他より更に背の低い扉のようなものがあるが、プレートはない。意を決して左に折れると、廊下はまだ続き、<第十八號室>。

 それから、少し大きな部屋があり、少し奥まったところのプレートは<配?室>。たぶん<配膳室>だろう。

 そこには入らず更に進み、今度は右折し、窓が左側になる。

 何かある、と思ったら、窓側に立てかけられているのは、車輪のついた、折りたたみのベッド、というか、ERなんかでガラガラと患者を運んでるやつが、一、二、三台。

 そしてそこが、つきあたりだった。

 つきあたりには、ドアではなく、引き戸があって、どうやら、部屋ではなく外に通じていた。

 旧家の勝手口というか、裏口みたいな感じだろうか。

 引き戸の上の三枚のすりガラスは、左上一枚がないようで、懐中電灯の光を照り返さない。右上には、箱型の、たぶん昔の電気系統の何かが据えつけられていて、コードを覆うカバーが上に繋がっていた。

 ・・・開く、だろうな。

 ここが、出口なのか?

 だとしたら何となく変な作りだけど、中庭でもあるのかな。いや、道路から見たときはそんな感じじゃなかったけど。

 しかし黒井はただ外に出られると思ったのか、一歩前に出て、「開けよう」とささやいた。僕は引き戸の取っ手に手をかけて、力を込める準備をしたが、それは、意外と、それ相応の力でふつうに開いた。暗闇に慣れた目では外の光量でさえ明るく感じられ、ほんの少しの安堵があった。


 そこは、出口、と、いうか。

 ・・・渡り廊下?

 屋根が続いていて、下は土。

 その先、目の前には、また、扉があった。

 それほどの距離はない。ほんの何メートルか。

 そのことを把握して、俯瞰図と組み合わせようとするが、どうにもよく分からない。

 しかしこの先に、今と同じような病棟が続いているようにも思えなかった。

 ・・・隔離病棟?

 いや、そもそも、サナトリウムというもの自体が隔離された施設だろう。

 ・・・手術室?

 今までのは入院の大部屋や診察室で、この奥は・・・。

 そして、カチッ、バチッ、と、上の方で小さな音がした。なに、なに?

 二人とも上を見上げる。僕は懐中電灯を屋根に向け、しかし、このぼんやりした小さな丸で分かるものなんか・・・。

 ・・・。

「な、なんかいた、今なんかいた」

 ひゅっと、黒い影が丸の中を横切った。大きさは、ええと、五百円玉くらいか・・・。

「な、なに、なに!?」

「何か黒い影が見えた。あっ」

 また、バシっというような、壁に当たる音。

 これは耳鳴りじゃない、・・・羽音?

「む、む、虫だ。でかい虫が飛んでるだけだ」

「なんの虫だよ・・・」

「でも、聞こえる。ほら、また」

 羽音が近づいて、さっきより大きい衝撃音。

「せ、セミかな。セミじゃないかな」

 僕はそう言って懐中電灯を切った。光に飛び込んで来られたらたまらない。僕は虫が嫌いなんだ。

 羽音は遠ざかり、また近づいてこちらの扉の上の壁に「ぶんっ」と羽音交じりの衝撃音、そしてまた向こうへ遠ざかる。よく聞けば、向こうでも小さな衝撃音。

 まるで閉じ込められたかのように、あっちこっちぶち当たってる?

 二人ともしばらく立ち竦んで、その規則的な音を聞いていた。

 そして。

 こちらに当たり、一定の間隔を置いて、次は向こう・・・。

 そのタイミング、という時。


 ・・・バシャっ、と潰れるような音が響いた。


 思わず黒井の手を握り、その衝撃でスイッチが入って、「あああああ」ともう、引き戸を閉めることも忘れ、足を前に出すのがもどかしく感じながら廊下を引き返し、怖いとか、見取り図を把握しなくちゃということもどうでもよくなりながら廊下を折れ、扉のない入り口を抜け、そのまま雑草だらけの坂を走った。雨粒が顔を打ったが、道路に戻るまで息も切らさず走った。



・・・・・・・・・・・・・・・



 土砂降りの雨に濡れながら、黒井は僕の前を早足で歩いた。

 来た時と比べ、ほんの数分という感じで違法投棄の竹薮に着き、無人の車の列を特に意味もなくにらみつけながらフィットの元へ。黒井が鍵を寄越せと手を出し、僕の腕や胸をばしばし叩いて運転席に乗り込んだ。


 車内灯をつけて僕は後部座席で荷物をひっくり返し、前の黒井にもタオルを手渡す。僕は服やリュックを拭くけれども、黒井はそれを頭からかぶるだけで、助手席の方を向いたまま放心していた。

 あそこは本当に手術室だったのだろうか。

 延々と周回していた大きな虫は、いったい・・・。

 っていうか、あの時雨は降っていた?屋根に雨音を聞いた?いや、そんなことはない。しかし、僕たちが足をもつれさせて廊下を引き返し、道路に走る頃にはもう、降っていた。そんなに突然に?

 テレビが見たい、天気予報が見たい。

 風呂に入りたい。あのリビングでデザートに甘いものを出してもらいながら、新聞の社会欄の下、地域の事故や事件をチェックして、不審な繋がりを想像しながら、しかし現実の布団で安全に眠りたい。

 現実に戻りたい。

「・・・帰ろう。僕のやりたい肝試しはこれで終わった。ありがとう、もういいよ。付き合わせて悪かった」

「・・・」

 まだ呆けているのか、返事はない。僕はもう一度「帰ろう」と繰り返した。

 すると、黒井は「今なんて言った?」と。

「え、だから、帰ろうって」

「その前」

「・・・付き合わせて悪かった、って」

「その前だよ」

「え、えっと、だから、もう終わったから、もういいって」

「・・・今、お前は言ったよ。『僕のやりたい肝試しは終わった』って」

「・・・え、そ、それが?」

「お前はさ、お母さんたちの前では自分のこと<僕>って言うんだ。会社でも、他の人の前ではたまに」

「・・・え?そりゃ敬語っていうか丁寧語っていうか、な、何だよ」

「昨日も、そうだった。お前は『僕が・・・』って言って、それは探偵の一人称だから、って、そのまま続けた」

「・・・探偵?あ、何か、夜に話したあれか。あれはその」

「お前は、本当に、やまねこ?」

「・・・は?」

「だってね、あの時もそうだった。お前は何だかふわふわして、自分のこと<僕>って言って、<あたし>でもいいよ、って、それがマヤちゃんだった」

「・・・」

「朝の寝言だってそうだよ、お前は、『僕は死んだの?』って、確かに二回、はっきり言ったんだ」

 僕はそのことについてどんな結論を出したらいいのかよく分からず、「たまたまじゃない?」と特に意味のないことを言った。


 それから少しの沈黙の後、黒井はチョコを食べあさり、ぽつぽつと、あれが怖かった、これが怖かった、と話し始めた。あんなところでお経を聞かせるなんて正気の沙汰じゃない、イヤホンを引きちぎって殴り倒そうかと思ったとのこと。

「お経のことは悪かったよ。でも、見えるものより、音の方が怖いってのはすごく感じた」

「うん」

「結局最後のあれだって、見えてなくて、音だけっていうのが、恐ろしい想像の余地の、可能性を広げるというか・・・」

「最後のあれって、雨のこと?」

「え、雨っていうか、その前の、虫だよ」

「ああ、あの虫、結局何だったのかな」

「うん・・・」

「こんな夜に、明かりもないのに飛ぶかなあ。うう、あのぶーんっての思い出すだけで、嫌だな」

「まったくだ」

 黒井は、ああやだやだと肩をすくめ、あいつ今も回ってんのかな、とつぶやいた。

 ・・・。

 ああ、たとえばあの虫は実は幽霊で、僕たちを怖がらせたり、追い返すためだけにあんな音を出して、また次の獲物を待ち受けてる、的な?うん、そういうのもありだね。あるいは、あの奥はあの虫の巨大な巣になっていて、一匹ずつ這い出してきて、しかし時間が止まったようなあの場所に閉じこめられたまま、また一匹、あのバシャっという音を立てて、潰れて死んでいく・・・。

「なかなか才能がある」

「・・・え?」

「あ、いや、独り言。・・・今も回ってる、っていうのは、ミステリとしてなかなかいい」

「何のこと?」

「いや、その、虫のこと。あの音も、死んでないってのも、想像力をかき立てられるよ」

「死んでないって何?」

「え、あ、まあ死んだのを確認したわけじゃないけどさ。・・・はあ、何だったのかな、あれは」

 バシャっ、という音が何度も脳内で再生される。海外ドラマで、そういう効果音を作るために挽き肉を壁に叩きつけたりするって特典映像で言ってたけど、リアルな音を作るのも大変で、でも確かに作品としては疎かにできない重要なポイントなわけだ・・・。

「ねこ、お前・・・今、何の話してる?」

「え、だから、虫が死んだ話」

「いつ死んだの?」

「あ、いや、正確に言えば、死んだように感じた音の話」

「・・・だから、なにが?それはなに?」

 ・・・。

「・・・からかってるのか?最後の、あの、音の話だよ」

「からかってるのはそっちでしょ?いつ虫が死んだんだよ、何でも死んだことにして俺を怖がらせようとしてる?」

「お、おい、こういうのやめよう。こんなおふざけ、別に面白くもないし、いらないよ」

「それは俺のせりふだよ。もう怖いのはたくさんだから、いいよ俺をはめるような真似しなくたって」

「誰がそんなことした。知らないふりして、それはなに、なんて訊いてきたのはお前だろ。二人ともそれが怖くて逃げてきたんだから、俺だって怖かったって認めてるんだから、もういいじゃないか」

「だからそれはどれのことだよ。雨の音でお前が驚いたこと?」

「あ、雨?」

「お、俺だって、別にそんなことでお前が怖がりだなんてからかったりとか、そんなつもりないよ。俺もお前が急に手をつかむからそれだけでビビったんだし、でもあれだってもしかしたら本当は俺を怖がらせたの?」

「・・・クロ、何だか、話が噛み合ってない」

「や、やめてよ、おかしなこと言い出してまた俺を怖がらせてる!」

 いい加減にしろ、とわめいて、黒井は座席をどんどんと叩いた。

「お、お前は怖いのが好きだろうけど、これ以上やめろ!そういうビビらせるのはナシで、ちゃんと、話そう」

「・・・ビビらせてなんかない」

「じゃあおかしなことを言い出すなよ!あの虫が死んだとか、何でも死ぬとか死体とかに結びつけるな。どうしてお前はそんなにそういうのが好きなんだよ!」

「待て。本当に、お前を怖がらせようなんて思ってない。虫が死んだというのも未確認情報だから正確な描写じゃなかった。俺の想像がそちらに向かいやすいのも認める。だが、雨は、・・・雨は、俺たちが、廊下を走って、正面から飛び出して、その時に降ってた。あの、虫のところでは、降ってない」

「・・・途中から、降り出したじゃんか」

「虫がこっちに来て、あっちへ行って、それで音が」

「どの音のこと?」

「お前だってそれが・・・。あ、ああ、あれはもしかして、雨が降り出した音だったのかな。そうかな、そうかもしれない。大きな雨粒が叩きつける音、だったのかも。きっと怖くて、聞き違えたんだ。もしそうなら俺が悪かった。いや、きっとそうだったんだろう。雨の音だったんだ」

「聞き違えたって、・・・お前は、何を聞いたの?」

「・・・だから、虫の、音だよ。虫が、あっちへ行って、それで・・・ばしゃっと、潰れた」

「・・・」

「きっと雨が降り出した最初の音だったんだ」

「・・・お前が俺の手をつかんで、引き返す、もっと前から、降り出してたよ」

「じゃあ恐怖で俺の耳がちょっとイカれてたんだろう。もうそれでいいじゃないか」

「まるで昨日のお前の話だ。あれは、何だったの?お前の創作?前にもそういうことがあったの?」

「違う、あれは別に、ふつうの小説だよ。記憶違いもあるかもしれないが、創作なんてしてない。・・・ああ、そういえば今朝起きたときも雨の音が聞こえなかったな。そういうことって別に、めずらしくない。まるまる死体が見えなくて、ナイフだけ見えるなんてことは、滅多にないだろうけど」

「いつ、読んだ本?」

「・・・さあ、高校の時だから、もう十年くらい前かな」

「よく覚えてるね。・・・話し方が、今見てきたような感じ、だった」

「お前の朗読みたいにはいかないよ。ただ、何だろう、印象的では、あった」

「いつからそういうの好きなの?ずっと?子どもの時から?」

「・・・そんなことも、ないと思うけど」

「ねえ、お前の話をしてよ。俺は、お前のこと意外と何も、知らないんだよ・・・」

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