第259話:サナトリウムの闇
暗くて、先ほど道路から見えた建物はもう何も見えなかった。
徐行でその建物があったとおぼしき場所を通り、しかし、道路に車を置いていくわけにもいかない。
更に奥へ行くと、脇にそれた竹藪の細道。
よく、女子高生が被害にあったらしき場所として、レポーターが「昼なお暗い、ほとんど人通りのない道です・・・」と後ろ向きに歩いているような道。
車が何台も停まっていて、たぶん違法駐車、というか違法投棄。浮浪者や不良の溜まり場になっていたりしないかと心配だが、いったんここに置いて歩くしかあるまい。
黒井はもう観念しているのか、肩を落としたまま何も言わず車を降りた。エンジンを切ると、もう、暗闇。
小さいたすきがけのリュックに電源を切った携帯とビニール袋や小さなタオルなども入れて、傘と懐中電灯を持ち、かろうじて見える車道の明かりに向かって未舗装の道を歩く。黒井は手ぶらですぐ後ろをついてきた。
車道と呼べるかどうかぎりぎりの道を、五分ほど歩いただろうか。
道路の左側は一応ガードレールのような柵があり、その先は斜面になって、まあ林だか藪だか竹林みたいになっている。昼間、そんなところにぽっかり見えたあの建物だが、しかし、今は懐中電灯程度でそれが見えることもなかった。満月でも出ていれば少しは見えたかもしれない。
昼に見たとき、一応道が塞がれてはいないのを確認したから、左側をずっと注意していれば分かるだろう。傘で何とはなしにそちら側を突きながら、縦一列の行軍。何をやってるんだか、非常識はどっちだと声が聞こえるが、<サナトリウム>の響きには勝てない。いや、勝てない。
・・・・・・・・・・・・・・
湿った空気は風もなく、動かない。
気圧が低くなってきているのだろうか、急に蒸し暑くてじっとりとし、外にいるのにぐっとこもったような感覚。やがて土砂降りが来るだろうなと肌で感じた。
たまに、場違いに蝉が「ジーーーッ」と鳴いた。
黒井が、その脇道を見つけた。
昼間は、道が続いてるな、という認識だったが、今は、「え、こんなところに足を踏み出して進もうっていうの?」としか言いようのない、道というか、ただの闇。足元は低い雑草だった。
膝下から素足の黒井はきっと、足首が草の雨露で濡れるだろう。
しかし僕は、声はかけずに進んだ。
押し黙ったまま歩いてきたし、今更「足がちょっと濡れちゃうけど大丈夫?」もないだろう。
一応、車も通らず、誰にも見られていないことを確認し、懐中電灯をつける。藤井とあれこれしたあの公園で、「どんぐり拾ってましたって顔」で警備員が去った道をそそくさ歩いたように、こんなことは何でもない、いつもと同じだ、という感じを奮い起こして・・・。
そして、暗闇に慣れた目でぼんやりと建物らしき輪郭が見えてきて、一歩一歩近づくにつれ、・・・いや、ない、ない、ちょっとこういうのはさすがに、まずいっていうかやばいっていうか、ありかなしかでいえば絶対になしの部類・・・。
あの、<本番>の建物が頭にあって、だからそんなものは乗り越えてきた、制してきた、と思っていた。夜中に忍び込んで、あの、トイレなんかえらく怖かったじゃないか。半地下で変な音がした時だって、冷や汗どころかかなり嫌な汗をかいた。宇宙人がいるんじゃないかって、背筋が凍ったこともあった。あ、いや、今思い出したくはないが。
とにかく、どこか二人とも、そんなものは体験済みで、遊園地のお化け屋敷ではない本物をやってきたんだぜ、という自負が、あったんだと思う。そして、あの時はそれぞれ一人でそれをやってのけたわけで、今は二人だし、古い建物とはいえ、何の怖いことがあるか・・・。
・・・。
・・・。
建物の中に、入れない、だろうし。
また南京錠なんかかかっていて、でもまあ周りをぐるりと見るだけだって十分に刺激的で、二手に分かれて反対側で会うとかだって、立派な肝試しだって・・・。
・・・。
「・・・っ!」
後ろの黒井が、僕の左肩にやんわりと手をかけた。
そして、ゆっくりその手に力を込めた。
わ、わ、わかってる。昼間ならともかく、夜は、そして<サナトリウム>だと知っている今は、「さすがにやばいでしょ」という言葉しか出てこない。さすがにこれはやばいでしょう。
・・・だって。
・・・南京錠どころか、その、正面の入り口らしき、ところには。
ただ、・・・闇が。
頑丈に施錠され、立ち入り禁止だの肝試し禁止だの書かれていたら、よかったのに、と、僕が今切実に願ってしまうくらい、・・・その闇は、あまりに空恐ろしかった。
・・・。
扉なんて、ついていない。闇は僕たちを招いている。
全身に鳥肌が立った。
「こえーよ!こえーよ!」と騒ぎたかったが、それすらも、出てこない。
緩い傾斜の坂道を下り、僕たちはその建物の前まで来て、いったん、止まった。
杖にして、雑草をかき分けていた傘を黒井に取られ、僕は唯一の武器を手放した。懐中電灯は、正直言って、明るくて見えるから安心、なんてものは一滴ももたらしてはくれない道具だった。光の筋をそこに当てたからって、次の瞬間おそろしいものが見えるんじゃないかという恐怖しかもたらさない。でも、しかし、暗いまま入っていくという選択肢もなかった。一度赤色灯に切り替えてみたが、こちらは本当に問答無用でやばい雰囲気になってすぐやめた。
建物としては、たぶん黒井が言ったように古い学校のような、廊下があり、教室が並び、みたいな作りのようだ。しかし位置的には廊下の左右に部屋が並んでいるのかな。あの本番の建物に近いけど、大きさはこちらが小さい?どうだろう、周りがあまりに何もなさ過ぎて、そういう感覚もよく分からない。
とりあえず、入り口の周りを懐中電灯で照らしてみる。
木造で、あちこち剥げていて、しかし何か看板のようなものはなく、本当にサナトリウムだったのかは定かでない。ただ、古いことだけは確かだろう。
板張りの床が奥へ続いていることだけは分かった。板は継ぎ目がちょっと歪んでいて、しかし、こんな雨ざらしの中、荒れ果てているというほどでもない。中も、取り壊しの建設資材でいっぱいなんてこともなく、廊下の奥までは光も届かない。
・・・。
・・・さて、入ろうか。
入ろうかな、この中に。あはは。
大丈夫だって。一人で入るとかあり得ない選択肢だけど、ほら、二人いるし。
なあ、そうだろ?
「・・・」
振り返ると、黒井は表情をなくして突っ立っているようだった。
そうだよね、ごめん。
でも、申し訳ないんだけど、実は<これ以上>、なんだ。
こういう風にしたい、と思って、そして、お前が「したいことを言え」と言ったのだから、もう、これは、「したいこと」の一部なのだから、条件として必要なんだ。
あらかじめ言ってなくてごめん。
この雰囲気からいくと、屋外の墓地の方がまだ、怖くなさそうな気もするね。
きっとお盆で新しい花なんかも供えてあって、あちこち墓石も綺麗に磨かれていて、生活感さえあったかも。
でも、ここにはそれはない。
そして僕はリュックから、ここには似つかわしくはない、i-podを手探りで取り出した。
・・・・・・・・・・・・・・・
「これ半分、つけて」
つぶやいて、右のイヤホンを渡す。黒井は受け取るけど、「な、なに」としか言わない。まあそうだろう。あんまり怖いから、勇気の出るありがたいお経でも聞こうよなんて、そういうジョークも出てこない。もう、やりたいなんて気持ちは底で冷えて固まって、僕を動かすのはただ目標をクリアする、想定した条件を満たす、ということだけだ。
「かかると、怖いと思うけど、これが俺の考えた肝試しで、その条件だから、今更取り消せない。いいか、条件を反復すると、俺たちはこれを聴きながらここに入り、お札に代わる何かを持ち帰る、それで終わりだ。・・・お前もやると言ったんだから」
「・・・わかってるよ」
「それじゃ、行こう」
「・・・」
僕は本当に、最大風速何十メートルみたいなところを押し進むくらいの、そういう気持ちで、全力で後ろを向いて走り出したい気持ちを押さえ、一歩踏み出した。そして、i-podのボタンを、押した。
チーン、ポクポクポク・・・、チーン・・・。
まかーはんにゃーはらーみたーしんぎょーーーう・・・
黒井の動きが一瞬止まって、僕の肘の上あたりを強くつかみ、うん、言わなくても分かる、思いつく限りの文句と罵詈雑言を浴びせたいのだろう。片耳だけというのがまた、もう片方はこの現実の暗闇にさらされて、現実の音を聞いているわけで、何か得体の知れない音が聞こえるような気がして、でも耳を澄まそうにもよく聞き取れないから、聴覚は当てには出来ない。
い、今のは、外のカラスか?
今のは、床の軋みか?
それでも、建物の内部に入り、もう一歩、もう一歩、足を踏み出す。
ついに黒井が、僕の胴に腕を回して首を振りながら入り口に引っ張った。全身で「無理無理無理!!!」と叫んでいる。しかし僕は行かなきゃならない。それを振り切って、イヤホンが引っ張られ、耳が痛い。僕がじっとしていると黒井は戻り、「んー!」と一声うなって、僕の腕にしがみついた。肩に顔をうずめて、細かく首を振って額をなすりつける。
「・・・っ!」
バタンと音がして、床の辺りでそれが、・・・黒井がその場で飛び上がって驚き、僕が懐中電灯を向けると、それは傘だった。か、か、傘を落としただけだ。それだけだ。血の気が引いて心臓はバクバクで、やっぱり叫びながら逃げ出したいけど、黒井の手首の上あたりを強くつかんで、自分と相手を引きとめた。た、たとえ、たとえ入り口のすぐそばだろうが、何かを持って帰らなきゃ。何かを探すなら、懐中電灯を、向けなきゃ・・・。
すり足のように、僅かずつ、進んだ。
横の壁に懐中電灯をすべらせて、木の枠、引き戸、そして学校でいえば<職員室>とかのプレートの場所に、文字が、見えた。
<第一號室>
僕たちはそれを見上げて、もう、ただ、手を握り合った。
・・・ご、ご、号の字が古い。黒っぽい地に白の楷書。
懐中電灯を持つ手が震え、浮かび上がった字も揺れている気がする。
怨霊に引き込まれてその場で処置用のベッドに縛り付けられ、肺を割かれそうだ。お願いだ、このお経で成仏してくれ!入り口が遠ざかるにつれ、背中の辺りに何か気配がするような気がして、でも後ろを振り返ったら前に向き直った時やばい顔が目の前にあったりしたら本当に嫌すぎるから、あの、もう、ごめんなさい、普通の世界に帰りたい!!
そして、廊下を進むとまた部屋の扉があった。現代の建物に比べ背が低い。
・・・って、今何か音がしなかった?ガタっていわなかった??
・・・今、カチっていったよね。
般若心経が終わって、静かになり、そしてまた今度はゆっくりめの別バージョンが始まる。野太いお坊さんの声だけじゃなく尼さんの声も入った混声で、もはやなまめかしい。どうして僕はこんなに悪趣味なんだろうね。
逃げたい衝動を全部黒井の手を握るのに向けて、足を一歩踏み出す。一號室の次は、二號室なんだろうか。
そして、ドアノブを浅くつまんで引き、部屋の中に入った。
見ると、そこには切り取られてぼんやり浮かぶ窓枠。
あ、ああ、窓があるのか。明るいとまでは到底いえないが、本当の暗闇ではない。
部屋の中はがらんとして、たぶん病院の大部屋みたいな感じだったんじゃあるまいか。かつて並んでいたであろうベッドはなく、端に古めかしい机、その上にふつうのオフィスで使うような、脚に車輪がついた椅子が引っ越しの時みたいにいくつも載っている。その隣には、昔の医療用具だろうが、ガラスの大きな瓶が四つ、何かの器具に取り付けられていた。壁を照らして現れた四角は、縦にパチパチやるタイプの電気スイッチ。
僅かに明るい窓に近づいて、こちらも古いタイプだ。電車の窓みたいに上下に動かす、あるいは上が固定されていて、外に押し開ける?
窓の桟の、その下に、何か落ちていた。
細長い、タバコ一本くらいの大きさ。
僕はしゃがんでそれを拾い上げた。金属の円筒形の棒で、先端に握り、というかまあつかむところがある。反対側にはねじのような螺旋の刻み。これは、何だ、窓の鍵というか、かんぬきのような、留め具か。
黒井が僕の腕をつかんで、これでもういいだろう、と無言で告げる。僕はポケットからハンカチを出してその留め具を包み、しかしそのまままたポケットに入れるのも微妙に嫌で、リュックに押し込んだ。
そして、i-podを切ってイヤホンを外す。
黒井もそれに倣い、かろうじてお互いの顔が見える窓のそばで、こわばった顔で見つめあった。
「あの」
出した声が何だか変に響いて、自分で怖くなる。急に音がなくなったせいで、お経が恋しくすら感じた。まるで今は耳なし芳一みたいな、耳が無防備な感覚。
「・・・かえろう」
黒井がひそひそ声で言う。しかし僕は、うつむいて首を横に振った。
「・・・かえろう!」
「・・・つきあたりまで行って、引き返す」
「・・・」
僕だってもう十分だとは思うけど、でも、こんな機会はもう一生ないかもしれないし、今出てしまったらもう一度入る気にはならないし、僕は、行く決意をした。
「肝試しは終わりだ。目的は達成した。だからお前は一人で出てもいい。でも、俺は、奥まで行って、そしたらかえる・・・」
言いながら、部屋の入り口の方でぎしぎし・・・と軋む音がした。両耳でそれを聞き取り、背筋が寒くなる。あえてそちらは見ずに、「廊下を行って、帰るだけだ」と、半ば自分に言い聞かせるように言った。
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