第309話:僕を好きなお前、が好きな僕

 十月十三日、月曜日。祝日。

 久しぶりに夢にクロが出てきて、しかもものすごいディープなキスをして、あいつは舌が長いからこんなに上手いんだ、僕は舌が短いから下手で、だからこんなに気道が苦しいんだ・・・と思って起きた。実際は手か枕で喉が締めつけられてたみたいだけど、こんな夢が見られるなら毎日だって締めつける。まあ、そううまくはいかないだろうけど。

 

 携帯をチラチラ見つつ、落ち着かないまま昼過ぎ。

 待ち合わせの約束をしたわけじゃないから僕の行動は自由なんだけど、あんなことを言われて、まあ、無視することも出来ないから、いつものパーカーとジーパンでスーパーに行くしかない。

 もしかしたらうちに寄るかもしれないと多めの残り物チャーハンを仕上げながら、ふと、手が止まった。

 ・・・僕に、会いたいのか、黒井は。

 夢のせいもあるだろうけど、急に、クロが好きだという思いが込み上げてきた。

 服が選べないなんて情けない僕を笑うでもなく、無理に服を買いに連れ出すでもなく、一緒にいたいからと、こっちのスーパーまで来るなんて言う。

 ・・・お前もう、馬鹿じゃないか?

 あの告白から約二ヶ月、そろそろふいに盛り上がった気持ちは冷めたっておかしくないのに、まだお前は、僕が好きだなんて言い続けるの?

 そして僕は、自分勝手に僕を振り回す、あの<魔法の石>みたいな存在のクロだけじゃなく、・・・僕のことを気遣って添い寝を申し出て、妬いてほしいなんて言う人間的なクロも、好き、なのだろうか。

 雪や星を見上げて、夢みたいなことを言う黒井だけじゃなく。

 新人の飲み会ではしゃいでごめんだなんて交際相手に報告する黒井も。

 ・・・新人にちやほやされたら、嬉しいのは当たり前だ。

 だったら、クロに好きだと言われて嬉しいのも、当たり前?

 それなら今、この胸の内にわいているのは、誰かに好かれたから嬉しいという気持ちなんだろうか。

 それとも、僕がお前を好きという、自発的な気持ちなんだろうか。


 ・・・僕を好きなってくれた、お前が、好き。


 ・・・。

 僕はもう何だか居たたまれなくなり、玉子スープをかきまぜるおたまを放り出し、火だけ消して部屋に駆け込んだ。

 見れば携帯が光っていて、<今日は俺、スーパーに買い物いこうかな。まあお前に関係ないけど>なんてメールが来ている。

 ・・・手が、震えていた。

 たぶん、きっと、よく分からないけれど、あのセミのうるさい公園で「俺、お前が、好きだ」と言われてから、今になって僕はようやく、その好意を、受け取った。

 約二ヶ月も、半ば好きだ好きだと言い寄られて、言われれば言われるほど保留ボックスを引き出しの奥へ奥へと押し込んできたけど、そこに、ようやく、届いた・・・いや、押し込みすぎて反対側から落っこちたのか。

 ずっと隠したまま自分勝手に好きでいつづけた、その相手に突然「好きだ」と言われて、でもたぶん、これまでの僕の想いの方が強すぎて重すぎて、まったく濃度が噛み合わなかったんだろう。僕はそれらを、同じ思考の領域で比べたり考えたりすることすらできなかった。

 ・・・でも。

 その濃度は今だって噛み合わないけど、そうじゃなくて。

 これまで僕がどれだけお前を好きだったかは横に置いて、今、僕は、僕が好きだと言って笑うお前が、ただ好きだ。助けようと伸ばされる手が嬉しいし・・・僕のことを好きなお前が好きで、たぶん、お前に好かれている僕自身のことも、・・・好きだ、とは言わないが、認められたというか、容認できたというか、・・・いてもいいか、と思えた。

 こんなみっともないパーカー姿で、残り物チャーハンを作ってる僕でも・・・まあ、世界に存在することくらいは許されるんじゃないか。だって、お前が好きな相手なら。



・・・・・・・・・・・・・・



 何だかもう涙さえ出そうになりながら時間ギリギリになって、スーパーまで走る間で立て直そうと、思っていた・・・のに。

 エレベーターを降りて、駆け出そうとしたその曇り空の下、トレーナーにスウェットのズボン姿の黒井がいた。

「あ、いた!」

「・・・え」

「はは、良かった。もう出ちゃってたらさ、・・・だって俺、お前が行ってるスーパーなんて知らなかったんだもん」

「・・・」

 ズボンのポケットに両手を突っ込んで、手ぶらで、何が楽しいのか、屈託なく笑う。

 僕の顔をまっすぐに見て、少しにやけたりはにかんだりして、ゆっくり、近づいてくる。

 ・・・何で俺のこと好きなんだよ。お前が俺のこと好きなせいで、俺はお前が好きでいる俺のことも許してやって、そんな俺がお前を好きだというのはもう間違った恋でも何でもなくなって、いけないことでも高望みなことでも、迷惑なことでも、気持ち悪いこと・・・でも、なくなって、だったら僕はもう、お前のことが本当に好きでもいいんじゃないか・・・。

「・・・ねこ?」

「・・・ん」

「どしたの・・・服見られるの、そんなにやだった?」

「・・・いや」

「何だよ、やっぱり一人が良かった?」

 ・・・こんな恋は間違っていて、成就しなくて、しかも僕にキスしてくるお前はふいの衝動と恋愛の区別がなくて、でもそんな中だからこそ「もしかしたら・・・」という僅かな希望はとても眩しくて、だから僕はずっとそれに向かって全力で走り続けてきた。

 でも今は、ただここに、光があって。

 それはこうやって、惜しげもなく降り注いでいて。

 僕はもう、走らなくてもいいのか。

 ただそれを、受け取るだけで。

「・・・クロ」

「うん?」

「・・・来てくれて、ありがとう」

「・・・な、何だよ、だから俺はただ、スーパーに・・・」

 顔を、上げた。

 マンションの前の、住宅街の道路。

 目の前に、クロがいる。網膜に映っているし、そこで息をしている。

 僕は一歩踏み出して、クロが戸惑って両手をポケットから出す前に、その腕ごと抱きしめた。「ありがとう」ともう一度言って、肩に顔をうずめると、黒井の首元と服のにおいがして、ゆっくり吸い込んだ。黒井は「え、あっ・・・」と固まって、じっとしている。うん、俺、お前が好きなんだよ。

 僕はそっと手を離し、「・・・買い物、行こうか」とつぶやいた。出そうだった涙は引っ込んでいた。

「・・・ちょ、・・・なに」

「俺、・・・お前のにおい、好きだよ」

「・・・っ」


 黒井を置いて歩き始めるのは、ちょっと、気持ちがよかった。

 そして、「待てってば!」と追いつかれ、肩を抱かれるのは、もっと気持ちがよかった。

 


・・・・・・・・・・・・・・



「へえ、お前いつも、ここで買い物してんの?」

「・・・そうだよ」

「ねえ何買うの?いつもどんなもの買ってるの?」

「えー、野菜とか、豆腐とか、カレーのルーとか・・・」

 訊かれたなら<いつも買う>ものをきちんと最後まで列挙したいのに、黒井は「ふうーん」と少し口をとがらせてうなずき、僕の「缶詰とか」とそれ以後のすべてを遮った。右手はカートを押し、左手は僕の腕をつかんで、「ねえねえこれは?」と面白そうなものに目を光らせる。黒井にかかれば、野菜売り場だって動物園みたいだ。

「じゃがいも買うの?これなに?」

「キタアカリ。黄色くて、ちょっと固いから煮崩れしにくい」

「それがいいの?」

「・・・お買い得だから」

 98円って大きく書いてあるんだから、察してよ。僕の料理のレパートリーや知識を左右するのは<本日の特売品>なんだから。

 しかし黒井は別にじゃがいもの種類に興味があるわけではないようで、今度は迷路ごっこ。

「じゃあさ、野菜終わったら、こっちから見る?それともこっち?」

 麺のコーナーと、豆腐や納豆のコーナーを指差し、うむ、これは微妙だ。うどんや生麺タイプのラーメンに半額シールが貼られていれば迷わずチェックするが、おつとめ品がなさそうなら豆腐を見る・・・いややっぱり野菜の続きの順路どおり麺へ進むだろうか・・・。

「・・・どっち、とも、言えない」 

 黒井は呆れたようにうひひと笑い、僕の腕をぶらぶらと揺らした。子連れの主婦が何なのという顔で僕たちを見るが、黒井は気にせず僕の手を自分の手の横に置いて一緒にカートを押させ、「いつもこれ押す?」と。

「カゴしか持たないよ。・・・一人で押せって」

 引っ込めようとしたら上からその手を重ねられて、スーパーで男二人は場違いな上に、もう恥ずかしいったらない。そして、目に入るお前の手は、少し骨ばっていて指が長く、乾いていて、僕の手より、若干、大きいだろうか・・・。

「ね、比べてみよっか」

 同じことを考えたのだろう黒井が、手をパーにしてみせた。僕は「こんなとこでやるか」とそっぽを向き、手が離れた隙にカートを任せ、でも、拒否したわけじゃない、あとでって意味・・・。


 

・・・・・・・・・・・・・・



 黒井は自分用のカゴを持ってきてカートの下段にセットし、目についたものを適当に入れていった。ご当地ふりかけに信州のなめ茸、青の洞窟のパスタソースにやたら高い輸入物のブルーチーズ・・・うん、自炊に力を入れる気はないみたいだし、そして同じ商品なら必ず高くて本格的な方を選ぶのは、見栄じゃなければやはり美味しさ重視なのか?それともまさかパッケージの彩り重視?

 僕はといえば、野菜のほかに鶏の挽き肉とかいりゴマとか中華調味料とか、トマト缶とか冷凍ほうれん草とか、グレードアップもあまり出来ない、切らしたものの買い足し。ほうれん草は塩ゆでが面倒なのでつい冷凍を買ってしまうけど、本当に同じだけ栄養価があるんだろうかと疑問ではある。もしほとんどないならサプリでも飲んだ方が合理的だ。


 黒井は一応、別々に買い物に来て偶然会ったという体を崩さず、自分のカゴは自分で会計をした。ちらりと金額が聞こえたが、買ったものの量は半分以下なのに値段は僕の分を超えていて、おいおい、こいつに任せていてはエンゲル係数が・・・いや、っていうかそれは食材というよりむしろ嗜好品なんじゃないか?僕が食費を抑えた分、全部そのお取り寄せグルメみたいな食べ物に消えるんじゃ・・・。

 ・・・ん?

 あ、別に、一緒に住んでるんじゃないんだった・・・。

「ねえ、それそんな入れるの?」

「えっ?」

 会計が終わった黒井がやってきて、僕の隣の台の上にカゴを置く。一足先に袋詰めをしていた僕は食材をいちいち半透明のポリ袋に入れていて、カゴの中は個別包装であふれていた。ああ、一人で詰めてたからついうっかりいつものクセで。

「あ、これはその、すごく、色々便利だから、買った商品の分だけはいいと思って・・・」

 言った途端、隣の台で偏屈そうな爺さんがガラガラガラとすごい勢いでポリ袋のロールを引っ張り、ごっそりとそれをマイバッグに突っ込んだ。・・・ああ、だから、本当は僕のだってあれと同じ行為だけど、一応自分で枚数制限してるのと、挽き肉の汁漏れ防止とか本当に必要なものもあるんです・・・という、まあ、自分への言い訳だ。

「便利って、何が?」

「あ、いや、だから、・・・三角コーナーに引っかけたり、触りたくないものとかあったら手袋代わりにしたり、すごく重宝して、本当は百均で買えばいいんだけどなかなか行けないから、・・・まあ、ここでいただくのが手っ取り早くて」

「ふうん、じゃあ俺ももらう」

 そう言って黒井はポリ袋を引っ張り、しかしうまくミシン目で破れず、結局数枚分引き出して切った。しかし今度は端を擦ってもなかなか開かず、僕は濡らしたスポンジを指さしたが、黒井はビニールをぱくっと口にくわえて舐めた。

「・・・やめろって」

「ん?」

「どうして口に持っていくんだ。お前は幼児か」

「別に、汚くないよ。それにさ、指舐める方がオッサンくさいじゃん?」

 ・・・いや、まあ、それはそうかもしれないが、指を舐めろとも言ってない。しかし、黒井はポリ袋は絶対必要ないであろうパスタソースの箱やなめ茸の瓶をそれに入れ、楽しそうに袋詰めをした。何だか、僕は自分の貧乏性やセンスのなさを取り繕いたくて必死だが、黒井はそんなことお構いなしに、ただ目の前の楽しそうなことに夢中で、それは僕にとって居心地がいいことなのだった。



・・・・・・・・・・・・・・



 二人してスーパーの袋を提げて、駅前。

「雨降るかもだから、気をつけろよ」

「・・・ちっこい袋にも入れたし、平気じゃん?」

 いや、嗜好品のパッケージの心配じゃなくて、お前の身体の心配だよ・・・と思うけど、何となく立ち止まって向かい合って、その顔や髪に大きな雨粒がぽたりぽたりと降りかかり、やがては全身を濡らしていく・・・なんて、どうにもえろい想像をしてしまった。

「あ、そうだ。ねえ」

「へっ?」

 無言で、黒井が右手を差し出してくる。胸の前でパーにして、ああ、「比べてみよっか」ってやつ・・・。

 ちらりと辺りをうかがって、別に賑わっているわけでもない小さな駅だし、誰も、見ていない。

 僕は袋を持ち替えて左手を出し、おずおずと、その右手に合わせた。

 手のひらが、触れあって。

 熱を感じた。

 黒井は何度かそれを上下に動かして、それは大きさを比べるために位置を調整しているだけだけど、僕はいろいろ違うことまで感じてしまいそうで、大きく顔を背けた。

「・・・んー、ちょっとだけ、俺の方が大きい」

「あ、そう」

「でも指の長さはそんなに変わんなくて、だから、俺の手のひらが、ちょっとでかいってこと」

「・・・ふうん」

 そうして、しかしなおも数秒合わさっていた僕たちの手は、ゆっくりとずれて、黒井の指の腹が僕の手のひらの真ん中をすうっと撫でていき、まるで秘部に触れられたかのようなひやりとするくすぐったさが残った。

「それじゃ・・・またね。やまねこ」

「・・・あ、うん。また」

 一度だけ振り返って、少し微笑むと、黒井は駅に消えていった。

 僕は無意識に左手をパーカーのポケットに入れて、その熱を持ち帰った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る