第331話:ヒロくんの彼女

 クロから「ヤマネヒロフミ」の名前を聞いて、一瞬、頭が真っ白になり、裸足でどこかへ逃げ出したくなった。でも、元「ヤマネヒロフミ」である人間はこの僕であって、どこへ逃げたって逃げられるものじゃない。

 自分の拒否反応ぶりに自分で少し驚き、そして、ぎゅっと握られた手で、こちらに戻ってきた。

 クロと会う前、会社に入る前の自分。

 切り捨ててしまいたい自分。

 そして切り捨てたいと思うたび、それほど悲惨な目に遭ったわけでもなく、むしろ環境としては恵まれていただろと、自分への「甘えるな」が顔を出す。

 クロの手を、強く握り返した。

 こんなもの、誰が聞きたいもんか。世界中の、誰だって。

 ・・・それなのに、一人、いる。


 ・・・「ヒロくん」だった頃の、僕の、話。


「大学は、指定校の推薦で決めた。学年で数人だったけど、あの、内申点とかいうやつで枠に入れた。ちょうど法学部があったから、ろくに試験もなく、大学受験もしないで俺はそこに入った。あの生徒会長も推薦で、もっといいとこに入ったけど」

 うつむき気味に、独白のように話し始めると、クロが「・・・お前、受験、してないの」と、自分の足をさすりながら訊いた。

「うん。まあ、途中からはそのためだけにずっとテスト勉強を頑張ってたし、卒業式では何か、知事の奨励賞みたいなのももらった。都内の大学も目指せるとか言われたけど、あの頃はミステリに夢中だったし、塾に通ってまで受験する気はなかった」

「都内の、って、お前はどこに住んでたの?」

「・・・はは、そうか、言ってなかったのか。・・・俺は大学まで千葉に住んでた。佐倉市」

「・・・そ、うなんだ」

「生まれたのは埼玉の浦和。中学に上がるときに引っ越した。それで、区立だったから、周りの誰も知らなくて、転校生みたいな感じで、・・・だから幼馴染みみたいなのもいないし、浦和も佐倉も、別に、地元とも思えない」

「そっか、俺たち、地元がないんだ」

 そう言われて、初めて、そんなことを嬉しく思えた。<俺たち>なんて言葉で、何かが溶けていく。クロに受け入れてもらうことで、僕が溶けていく。

「それで、大学は・・・法学を学ぶのと、ミス研のためだけに入った。けど入ったら全然違った・・・ミステリ仲間が出来るわけでもなかった」

「え、あのさ、そもそもミス研って何する部なの?」

「・・・そう言えば、何するんだろう」

「え?」

「本の中では大体、合宿で事件に巻き込まれたり、あとは校内のちょっとした謎を解いたりしてて・・・でもまあ実際は、特に何するわけじゃなく、文化祭で研究内容を展示するってだけ。しかも任意だから、まあ特に意味はない」

「それじゃ意味ないじゃん。でも、やっぱり、ミス研に入ったの?」

「まあ、何も迷うことなかったし、初日から届けを出したよ。それに部活じゃなくサークル扱いなのに単独の部室があったから、そこに六法とか置いてロッカー代わりにして、いつも入り浸ってた。幽霊部員も多かったし、誰も来ないから、授業がない時はずっとそこで本読んでた」

「・・・ひとりで?」

「・・・はは、また、・・・友達が、出来なかったからね。大学に入ったら友達がたくさん出来るなんて思っちゃいなかったけど、入学前にミス研があるって知ったから、ミステリ仲間が出来るもんだと思って心配してなかったんだ」

「・・・」

「まあ、学部でたまに話すやつはいたけど、教室で会ったらちょっと隣に座るくらいで・・・まあ、知り合い程度。・・・でも、授業終わってすぐ家に帰るのも嫌で、・・・それで部室に」

「・・・家が、嫌だった?」

「・・・まあ、ね。・・・大学の選び方も、何だか良く思われなかったみたいだし」

「何で、だよ。成績良くて、指定校って、それってすごいんじゃないの?」

「さあ・・・成績が悪いと何か言われたけど、良くてどうっていうのはなかった」

「褒められたこと・・・ない?」

「・・・記憶の限りでは、ない」

 はみ出せば叱られて、はみ出したのかどうか明確でなくても疎まれて、いい点を取るのは当然だから(なのか?)褒められない。僕の世界観からは褒めるという項目がすっぽり抜け落ちているようだ。


 肩からずり落ちてきた毛布を、黒井がかけてくれた。僕なんかに優しくすることないのに、背中をさすって、「・・・それで?」なんて言ってくれる。

「・・・だから、えっと、・・・部室で、ずっとミステリを読んでた。薄暗い部屋で、汚いテーブルと棚があって、何かの匂いがして、たぶん元々美術部の部屋で、絵の具の匂いだったんだと思う」

「・・・ふうん」

「そこで・・・俺と同じく、部室をロッカー代わりにしてる・・・一つ上の先輩が、いて、よく会った」

「・・・」

「夕方、いつも何かを置きにきて、・・・新入生の俺に、いろいろ、声をかけてくれて、学食がどうとか、単位がどうとか、教えてくれた。その人はミス研と文芸部を掛け持ちしてて、古典ミステリを少しかじるくらいで、ミステリの趣味が合ったわけじゃないけど」

「・・・女の、先輩」

「・・・うん」

「その人が・・・」

 彼女、になる、わけだけど。

 僕はその言葉を遮って、時系列を元に戻した。

「最初は本当に世間話くらいで、ただ親切で明るい人って印象だった。よく考えたら後輩の俺の方がすっかり部室を独占してたのに、まあ、兼部だからか、まったく嫌な顔もしないで、必ずいつも話しかけてくれた」

「・・・それで、仲良くなった?」

「まあ、ふつうくらいには。・・・それから文化祭になって、でもその人は文芸部の方が忙しくて、・・・そっちでいろいろ、ああだこうだあるみたいで、・・・その相談を、された」

「・・・」

 黒井は少し、鼻で笑った。

 自分の、演劇部のことを思い出したのかもしれない。一人で本を読むのじゃない部活動には、きっと付きものなんだろう、部員同士の揉め事が。

「俺は出来る限りそれを真剣に聞いて、誰がどうすべきなのか、習ったばかりの民法とかで考えてみたりもしたけど、・・・文化祭が終わって、その人はこっちの打ち上げに遅れて来て、・・・結局その相談は、色恋沙汰だったんだって後から分かった。よく分からないけど誰かと誰かが誰かを取り合って・・・まあ」

「・・・まあ?」

「とにかくその辺から、部室で話すのは世間話じゃなくて、文芸部の恋愛模様の相談になった」

 黒井は小さく「めんどくせ・・・」とつぶやいた。僕だってそう思う。

「でもその時は、頼られて悪い気はしなくて・・・」

「・・・お人好し」

「・・・それから、・・・バレンタインに、なって」

「チョコをもらった?」

「・・・いや。期待してなかったわけじゃないけど、でもその翌日に呼び出されて、急に泣きながら、・・・寄りかかられて、さみしい、みたいなことを言われて、・・・それで、俺は、・・・もし俺でよかったらって、言った。好きだから、付き合ってほしい、って」

「・・・」

 今考えると、ただ若かったとも思う。

 ずっと女子なんかに注目されたり、気さくに話したりもしない人生だったから、とうとう自分の番が来たと、そんな気持ちだった気がする。その人個人に熱烈に惹かれていたというより、今がその時だと思って、勢いで告白したような・・・。

「・・・少し時間が欲しいって言われて、しばらく、春休みだったから、会わなかった。まあ、だめだったのかなって思ってたけど、大学が始まったら、付き合うことになって、何だかべったりで、・・・授業以外はキャンパスでもずっと一緒で、まあ、・・・カップルになった」

「・・・ふうん」

 黒井はあからさまに不機嫌な声を出したけど、僕だって、隣の部室のやつらから「ミス研のラブラブカップル」なんてあだ名されたのを自慢してやるような、そんな心持ちでいたかったものだ。

「これはだいぶ後から知ったことだけど、実は、その人は、バレンタインにミス研の部長に告白して振られてて、それで俺が翌日に呼び出されたんだ。そして、部長の方は結局文芸部の誰かとくっついてて、・・・俺はどうやら、彼らに見せつけるための<年下のカレシ>だったんだ」

「・・・はあ?」

「いや、本当のところは分からない。ただ、いろんな断片をくっつけると、たぶん、大体そんなことだったんだと思う」

「それ、え、でも知らないで・・・付き合ったの?」

「最初は何も分からなかったし、俺も・・・まあ、浮かれてたし、舞い上がってた。自分にも彼女が出来たんだって」

「・・・う、ん」

「それに、ただ校内で連れ回されるだけのお飾りじゃなく、・・・その、・・・ホテルにも、行ったし」

「・・・」

「その後は、まあ、・・・夏休みに会ったりもしたけど、結局・・・その人の就活が忙しくなったりで、そのまま、一年も経たないで・・・何となく終わった」



・・・・・・・・・・・・・・・・



「・・・でも、その人のこと、好きだったんでしょ?」

 僕の話が終わったので、黒井がぽつりと訊いた。まあ、今となっては思い出せないようなことだ。

「・・・とにかく、最初は本当に明るくていつも笑顔で、こんな俺に声をかけてくれたっていうのが、嬉しかったよ。会うたび緊張してたのが、だんだん、今日はまだかって、待つようになったりして」

「・・・なんて、呼んでたわけ?」

 そういえば、何て呼んでいたんだろう。最初は確か「岩原先輩」で、途中からは「岩原さん」。しかし、「彼女」として何て呼んでいたのか、下の名前すら、本当に思い出せなかった。

「岩原さん、かな。ろくに呼んでなかったと思う」

「・・・じゃあ、・・・お前は、なんて呼ばれてた」

「・・・」

 僕はため息の後、「・・・ヒロくん」とつぶやいた。


 今考えれば、僕は実家で母親から「ヒロくん」と呼ばれ、彼女からもそう呼ばれていて、しかしそこにはどこかしら支配的な響きが含まれていた気がする。「ヒロくん」としての僕はいつも、相手の期待がどこにあるのか顔色を窺いつつ、そして窺っているのを悟られないよう懸命に理屈で計算して、正解を割り出そうとしていた。まあ、正解してもしなくても理不尽なことは多くて、割り切れないことだらけだった・・・けど、だからこそ逆に、もっと細かく小数点以下まで計算するようになったのかもしれない。

 ・・・こんな風に当時のことを客観的に考えられたのも、僕が今「ヤマネコウジ」になれたから、だろう。


 そして黒井は「で、初体験、どうだったわけ?」とやや投げやりに訊いた。何だか、隣にいるのが恋人なのか、男友達なのか、変な感じがする。

 そして僕はもう、そのまま、正直に答えた。

「ああ、初めてホテルに行ったときは、うまくいかなくて、・・・出来なかった。俺が初めてで、相手は・・・まあ経験者だったけど、いろいろやってもうまく入らなくて、それで、帰った。・・・落ち込んだけど、でも自分が下手とかいうよりは、告白して返事を待ってた時みたいに、だめだったらだめなもんなんだと思って諦めてた。・・・でも、また次の時、行こうって言われて、無理だろうと思ってたのに、・・・出来た時は、・・・」

「・・・」

「・・・正直言って、・・・何が起きたんだか、記憶がない」

「・・・は」

「き、気づいたら、終わってた。でもとにかく、・・・とにかく童貞じゃない、二十歳の前に童貞じゃなくなった、とだけ、思った」

 一瞬間をあけて、黒井が「くっ」と吹き出し、それから声を出さずに身体を震わせて笑うので、僕は「訊かれたから答えたんだろ」と文句を言った。すると黒井はもう遠慮もなく笑い、拳で布団を叩いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る