第330話:交際遍歴

 携帯を充電器に繋いで寝たのに、そもそもコンセントが入ってなくて、電池切れで目覚ましが鳴らなかったという。

 黒井は「こんなつもりじゃなかった」「空いてる電車で朝から行きたかった」とふて腐れた声を出した。その後も話せば話すほど黒井はイライラを募らせて、結局、「夜行く」と言って電話を切ってしまった。


 21時過ぎ、<もうすぐ駅着く。来て>とメールがあり、駅まで急いだ。いつ来るか、来ないかも分からなかったので結局買い物も行けず、ろくに何も食べていない。しかもギリギリのメールだから、脇腹が痛くなりながら走ってきたのに、スウェット姿のクロは両手をズボンのポケットに突っ込み、駅前でむすっとうつむいていた。

「・・・クロ」

 声をかけると、唇を結んだまま顔を背ける。・・・今まで、黒井の姿が視界に入ると自動的に焦がれていた僕だけど、今日は、まだ、半々。

 そしてしばらく、閑散とした駅前で、向き合ってはいるものの別々の方向を見ながら、黙って立ち尽くした。ケンカしてるわけでもないのに、空気は硬いまま。

「・・・ねこ」

 ようやく、黒井が絞り出したようにつぶやいた。

「うん、なに?」

 つい、義務的な返事。でも、だって、僕が悪いわけじゃない。一日中準備して、気を揉んで、出かけることもできず待ってたんだ。

「あのさ・・・お前んち、何か食いもんある?」

「・・・まあ、一応。大したものはないけど」

 じゃあ行こう、と黒井は一人で歩きだした。僕はそれを追って、斜め後ろを歩いた。



・・・・・・・・・・・・・・



 結局、黙ったまま歩いて、黙ったままうちに着き、温め直した食事を出した。

 何度か「何かあったの」と訊いてはみたが、具体的な返事は来ない。ぽつぽつとつぶやいたのは、どうやら洗濯機が故障したらしく、無理やり直そうとして何かの部品が折れたこと、そして出がけにゴミを出そうとしたのに置き場が閉まっていて出直したこと。寝坊とともにそんなことが重なって、すっかり機嫌が悪くなってしまったようだ。

 ・・・せめて、不満でも愚痴でもこぼしてくれたら、何か言いようもあるのに。

 黙って食べるご飯は、ほとんど味がしないも同然だった。

「・・・洗濯機、結局、どうしたの」

「・・・」

 しばらく後に「なんかいじってたら直った」と、ぽつり。

 僕だって洗濯機が壊れたら焦るし、修理や買い替えだってかなり面倒だし、それは気分だって沈むだろう。でも、直ったならもう問題はないんじゃないの?寝坊にしたってゴミにしたって、別に、今具体的に困っている事象はなくないか?

「・・・お替わり、ある?」

「ああ、ちょっと待って」

 ご飯をよそいつつ、しかしこんな状況でも、作ったものを食べてもらえるのはちょっと嬉しかった。茶碗を渡しても無言だけど、それでも少しだけ胸が軽くなる。

 ・・・まあ、僕だって、いろいろ話を振ったり、なだめたりとかも出来てないし。

 って、いうか・・・色々とうまくいかなくてイライラするのは分かるけど、昨夜は会いたいと言ってくれたのに、実際会った今、僕の存在はそのイライラを吹き飛ばすようなものでもなかった、ってことで。

 僕はそのことにちょっとだけ、落胆したのかもしれない。



・・・・・・・・・・・・・



 逃げ出すみたいにキッチンに引っ込み、皿を洗う。

 黒井は一度トイレに立ったが、無言のまま部屋に戻って、勝手に電気まで消してしまった。もう寝てしまったんだろうか。夕方まで寝ていたというのに、まだ寝れるのか。

 ・・・しかし、そうして黒井の気配がなくなってしまうと肩の力も抜けて、残ったご飯を冷凍したり、明日の分の炊飯タイマーをかけたり、調味料を補充したりとこまごました作業をし、やることがなくなると歯を磨いた。


 部屋に入ると、常夜灯だけついていて、抑えたオレンジの光の下、黒井は背を向けて布団で横になっていた。

 しばらく様子をうかがうけど、何も起こらない。声をかけられることもない・・・けど、寝息も聞こえない。

 ごそごそと寝間着に着替え、隣に座って、僕の布団なのに誰かがいるという違和感。

 それは僕の好きな人のはずだけど、ケンカをしているわけでもないのに、どうしてこんなにギスギスしたまま背中合わせで寝ることになってるんだろう。

 何か言い合うなら主張も出来るけど、黙っているとつい、「何だよ、俺だって・・・」と文句や文句未満の何かをつらつらと考え続けてしまう。そんなのやめて、せっかく来てくれたんだから、普通に話したいと思っても・・・きっかけがつかめない。


 しばらくつんと尖った時間が流れて、ふと、動く気配。

 黒井がごそごそとこちらを向き、「・・・ねえ」とつぶやいた。

 その声は、まるで僕にすがるみたいに、頭の後ろから響いた。

「・・・うん?」

「・・・俺のこと、めんどくさいと思ってる?」

 恐る恐る放たれたその言葉に、僕はもう、今まで考えていたものをざーっと全部捨て去って、文句も不満も何もなかった。・・・面倒かもしれないけど、めんどくさいなんて思ってないよ。

 黒井の方を向こうとすると、その顔が僕の背中に押しつけられて、身体も後ろからぴったり重なった。そのまま、背中から声が続く。

「ねこ、あの・・・俺のこと好き?」

 ぎゅっと腕をつかまれる。僕は前を向いたまま「好きだよ」と言った。好きだよ、それは、間違いない。こんな風に、うまくお前の気分に対応できないとしても・・・やっぱり好きだ。

「ねえ、あの、・・・あのさあ」

「うん?」

「あのさあねこ、俺さ、お前が好きって言ってくれて、嬉しいんだけど、・・・けど、・・・でも」

 腕を握る力が強くなる。僕はその様子に緊張しながら、「・・・でも?」と促した。

「だって、でも、・・・でもお前さ、・・・あの」

「・・・うん?」

「だってさ、俺が・・・初めてじゃ、ないんでしょ?」

「・・・」

「お前が好きだって言った相手、これまでも、いるんでしょ?・・・その相手と付き合って、エッチもしたんでしょ?お前、話してくんないけど」

「・・・」

「お前が、その相手に、乗っかったり・・・好きだって言いながら出したり、してた、わけで・・・」

「・・・」

「分かってるよ、別に、そんなの、当たり前だって。そりゃ、俺だってそういうことしてきたし、好きだの愛してるだの言わないだけで、してきたけどさ・・・」

「・・・」

 それから黒井は、絞り出すような声で、「でも、だって、お前が俺以外にそんなの、やなんだもん!」と、背中におでこをこすりつけた。

「寝過ごして落ち込んでたらふいに、それ思って、考え始めちゃって、そしたらなんかすげえそれが嫌になっちゃって・・・。お前が・・・昨日、電話で好きだって・・・、でもそれ言ってた相手が、俺の他にもいたんだって思ったら、・・・許せなくて」

「・・・」

 じっと前を見つめて、でも何も見えていなくて、ただ歯を食いしばっていた。

 どう思ったらいいか、分からない。

 もしやり直せるなら、告白だってキスだって、クロが初めてがいい。

 でも、もしもクロに会うまで童貞だったら、僕はもっといじけていて嫌なヤツで、こうはなってなかったんじゃないかとも思う。

「クロ・・・その、・・・ごめん」

「話してよ。なんもわかんないから、嫌になる。もしも、もしかして・・・って、お前のこと嫌いになりそうになる」

 僕は、背中にすがりつく黒井を気にもせず、反射的にがばっと起き上がった。

「クロ、やだよ俺、そんなの」

「・・・じゃ、教えてよ」

「・・・分かった、話す。・・・話す、けど」

 何か、いろいろな感情がないまぜになり、隣で身体を起こしたクロの両肩をつかんで、強く揺さぶった。どの単語を発していいのか分からず、とりあえず、「お前、この・・・バカ!」と声が出た。



・・・・・・・・・・・・・・



 ・・・クロ以前の、僕の、恋人。

 僕のこれまでの交際経験はたったの一人であり、キスも、セックスも、その人だけだ(藤井との未遂はあるが)。

 そんな僕が偉そうに言えたことではないけれども、普通、自分以前の交際相手のことを根掘り葉掘り訊かないのがマナーというか、暗黙の配慮だと思う。ましてや、勝手に想像したそれで相手を「嫌いになりそう」だなんて、心の中だけで思うことがあったとしても、言わないものだ。

 一般的な感覚として、それで合っていると思う。たぶん僕はおかしくない。

 でも、だから黒井がおかしかったのだとしても、間違っているとしても、しかしもうそれは仕方がない。こういう人間なんだ、クロは。自分が初めて告白した相手に、高校の時の初体験の話を身振り手振りを交えて嬉しそうに聞かせ、あまつさえそれで「自分のことをもっとよく知ってほしいから」なんて悪びれもせず言うようなやつなんだ。仕方がないだろう。

「・・・えっと、だから」

 仕方が、ない。

 分かってはいるけど、でも、どこから何を、どうやって話していいか言葉に詰まる。

 ただでさえ思い出したい内容じゃないのに、どうして、それを、クロに話さなきゃならないんだ。

「前に飲みに行った時、お前、言ってたじゃん。・・・初体験の、相手。自分から、告白したって」

「・・・う、ん」

「いつ、なの?」

「・・・大学」

「同じ、大学の、人?」

「・・・うん」

 布団の上に並んで座り、黒井が薄手の毛布を僕の背中にもまわした。薄暗いオレンジの光の下、まるで救助を待つ山小屋の二人だ。

 ・・・しかし、訊かれたことに何とか返答はするけど、口は重かった。別にどうしても隠したいというわけじゃないし、大した交際内容でもないけど・・・わざわざ言葉を選んで、自分の喉から声を出して話したくはない。勝手に記憶を覗いて納得してくれればいいのに。

「大学、何年のとき?」

「・・・え、さあ、二年・・・か、一年」

 渋り続ける僕の手に、黒井の手が重なった。

「ねえ、話したくない?」

「・・・それは、まあ」

「でもさあ、それも、含めて、・・・お前の人生じゃん?・・・俺、お前の人生、ちゃんと知りたい」

「・・・」

「それじゃ、だめ?」

「・・・だめじゃ、ないよ」

「つらい経験だったの?」

「・・・別に、つらくもない」

「こないだの続きから聞かせて」

「・・・続きって?」

「高校の、・・・生徒会長の話。あれから、どうやって大学行って、それで、・・・どうやって」

 黒井はしばらく言葉を止め、すうと息を吸って「どうやって、ヤマネヒロフミに彼女が出来たの?」と訊いた。

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