第27話:電話と告白未遂
2014年、1月4日の早朝だった。
僕は27日の夜から丸一週間、寝たり起きたりのアリジゴクにいたらしい。
・・・帰って来た。
京王線の始発に乗って、朝日を見ながら、そう思った。
アリジゴクも、ましてや、その前の会社員生活も、すべてが遠い。
今ここにいる、この電車の中の、この足元のヒーターの暖かみを確かに感じる、これが僕のまともな「現在」で。
そのあと何をするとか、また同じ状態に戻るんだとかも、考えずにいられた。過去も未来も見えていない。現在があるだけだ。それってすごく、楽でいい。
タバコくさいベンチコートのポケットに、固いもの。
カロリーメイト(メープル味)の箱だった。さっき落としちゃったから、一つしか入ってないけど。
電車の中で包装を開け、しばらく眺めてから、かじった。
・・・うまい。
メープル味も、いけるじゃないか。
一気に食べた。
喉が渇いて、何かないかと別のポケットを探ったら、なんと小さな銀色の、香水の瓶のようなやつが出てきた。スキットル、とかいうんだっけ。
開けて、くいっと一口。苦いんだか甘いんだかわかんないけど、とにかくこれもうまかった。あの地下で飲んだウイスキーと同じなんだろうけど、今のほうがよほど美味しい。
明大前で、高尾山にでも行くのか、リュック姿のカップルが入ってきた。僕を見て、すぐに目をそらし、隣の車両に移動する。いや、怪しいものじゃないんです。新宿に通ってる普通のサラリーマンなんです。そう、ちょっとこじらせちゃっただけで、でももう、帰ってきたんです。ベンチコートの中に見えるYシャツのボタンが取れてるし、手ぶらで、スキットルとカロリーメイトで朝食中ですけど、気にしないで下さい。大丈夫、ちゃんと、現実を生きてますから。
桜上水では降りなかった。さすがにこんな姿で会えない。それくらいの感覚は取り戻していた。待ったなしの極限状態は過ぎ去って、今はもう、ふつうに、友達をやり直したいのだ。
自分の駅で降りて、コンビニで千円分食料を買い込んで、家に帰った。
薄暗い部屋。でももう、立ち止まらない。歩ける。
カーテンを開け、窓も開け放って、空気を入れ替える。洗濯をし、皿を洗い、風呂も洗って沸かした。今から大掃除まではしたくないが、腕まくりして日常の家事をどんどんこなす。鼻歌まで、歌ったりして。クロゼットも片付ける。ここに立ちすくんでいたのは、何時間前?同じ人間が立っているとは思えない。もう、大丈夫だ。
掃除が終わって、風呂に入り、髭も剃って、髪も乾かした。
まだ、昼過ぎ。何だか、笑っちゃうね。
まとめたゴミを玄関に置いて、ふと、鞄を見た。
・・・何だっけ。
ここに何かあるという気がして。
おそるおそる、中を開ける。
ああ。
なんということはない、電池切れの携帯が横たわっていた。
・・・電源を、入れる、か。
何となく過去に引き戻される感じがして見たくなかったが、何があっても、なくても、それはそれだ。今は地面がしっかりあるから、きっと踏ん張れる。
充電器に、繋ぐ。電源を、長押し。
しばらく立ち上がりの画面を見つめるのがもどかしかったが、やがて、メール7件というところで落ち着いた。着信はなし。うん、まあ、そんなもんだろう。
メールを開く。2件が広告メールで、あとは4件が同僚から、1件が大学の友人からの定型「あけおめーる」。
黒井からの連絡は、なし。
うん。
これでいい。
定型メールに返信しようか、今更必要ないかと迷っていると、急に暗かった画面が明るくなった。
バイブがグー、グーと震える。
あれ、今、何もいじってないのに。何か、番号の表示と、え、黒井、の文字。
あ、やばい。俺、電話かけちゃってる?
しかし、切ボタンを連打する一瞬前に、バイブが鳴ってるなら、これって、着信なんじゃない?と気づいて、更に慌てる。
・・・これって、電話が、今まさに、かかってきてるってこと?
何のボタンを押せばいいのか混乱しているうちに留守電に切り替わってしまったが、ようやっと通話ボタンを押して、画面を見つめる。通話中、の文字。
「あれ、もしもし?」
携帯から、声が聞こえてくる。繋がって、いる。
「もしもし?もしもーし」
携帯を耳に、あてて。
「もしもし」
「あ、もしもし?あけおめー!俺だけど」
「・・・」
「え?ねこ、聞こえてるー?」
「・・・うん」
「あれ、今なんかまずい?かけ直す?何かしてるとこだった?」
「・・・いや、なんも、してない。うちにいるだけ」
「あ、そうなの?何かさ、てっきり、帰省とかしてるんだと思ってた」
沈黙。
なに、何て言ったらいいの?
「ずっとこっちにいた?」
「え、ああ」
こっち?
「・・・さあ、どうだろ」
「何それ、どっか出掛けてたの?」
「うん、まあ」
「あ、そうそう、俺さあ、実家帰ってて、ほんとは明日帰るはずだったんだけど、今日帰ってきちゃったんだー。ああ疲れた、今ついたとこ」
「ふ、ふうん」
じゃあ、もし行っても、いなかったんだ。行かなくてよかった。
「聞いてよ、あの、例の甥っ子のことだよ。姉貴がさ、ほら、贈った絵本、何だかんだ言ってぶーたれるから嫌になっちゃって。あの子も全然なつかないし。だからもういいやって」
「え、そうなんだ」
絵本。
一緒に、買いに行ったんだっけ。
「何、買ったんだっけ、その、絵本?」
「うん?不思議の国のアリスだよ」
「あ、そう」
「何か、男の子なのにこんなの読ませないとか言って、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンがロリコンだって言いたかったのかな」
「え、ああ、アリスのモデルはお隣の女の子って話・・・」
「でも数学者でもあったんだし、幼児がロリコンになるはずないのにね」
「それは、・・・まあ、うん、大変だったね」
「・・・うん。ねこ、どうしたの?やっぱ何か、まずい?」
「いや、大丈夫。何でも、ないんだ。それで?」
それで、何の用、なんだろう。
黒井と、電話で、話しちゃってるけど。
「え?別に、特に用事なんかないけど」
「・・・そうなの?」
「うん。ただ、どうしてるかなって」
「どうって・・・」
「話したかっただけ」
「・・・そう、なんだ」
ふうん。
今なら、その言葉、そのまんま、信じていい、って。
いや、まだ、怖いけどさ。
「実は俺もさ、うん、さっき帰ってきて。ええと」
「うん?」
ちょっとなら、言っちゃおうか。
「・・・人に、会ったんだけど。その、何だろう、友達に、なったりして」
「へえ?」
「うん。まあ、そんだけなんだけど」
「・・・何か、羨ましい」
「え?」
「知り合い?紹介されたりとか?」
「・・・いや、そうじゃないけど。偶然、会って」
「それで、その場で気が合ったの?」
「うん、まあ、そんなとこ」
「いいなあ・・・」
「・・・お前だって、友達、いっぱいいるじゃん」
「えーでも俺年賀状なんか全然来ないでやんの」
「・・・そう、なんだ」
「でもすごくない?そんな、その場でさ。お前と友達になれるなんて」
「・・・うん?」
「俺だってずいぶんかかったじゃん。だから、羨ましい」
「・・・え?」
「・・・まあ、何でもない。いろいろさ、俺も、頑張ってたってわけ」
「へ?・・・何が?」
「いいよ、ねこ鈍いから。全くさ、俺のこと全然分かってないんだもん。そうだよ、会社でのことだってさ、俺に悪いことしたとか思ってんじゃないの?」
「・・・いや、それは、そうだよ」
「ほらね。黒井さんがあんぐらいでどーにかなるわけないじゃん。大丈夫なんだって」
「え?」
「そういやさ、何、支社長とかに別の部屋連れてかれた時さ、もう俺ぶちまけちゃったんだもん」
「・・・は?」
「人に言えないことしてました、これ以上は勘弁してください!ってさ、もう、写真撮って見せたかったあんときの課長たちの顔」
「はあ!?」
「固まったまま何も言ってこないから、俺、じゃあお先にって帰ってやった。超気分良かった」
「お・・・おま」
そ、あ・・・え?
し、思考すらうまく、言葉が。
「やっぱさあ、俺、演技下手。お前みたいに、うまく出来なくってさ」
「いや、それは・・・」
「これでも演劇部だったんだけど」
「そ、そうなの?」
「追い出されて辞めたんだけど」
「は、はあ」
「結構、痛かったからさ。それから、おとなしくしてんの。俺のふつうって、周りに迷惑みたい」
「あ、ああ」
「ねこも、迷惑?」
「い、いや」
「だよね。こないだ、迷惑じゃないって言ったもんね。だから、いいよね?」
「う、うん。いいよ。あの、俺、お前のこと、す・・・」
・・・な。何を。
「・・・ん?」
「あ、いや、その、す、好きにしてくれて、いいよ。その方が、お前らしいし」
「やっぱそう?はは、だから俺、お前のこと好き」
「え?あ、そう?そりゃ、良かったね」
「うんうん」
ピー、ピー、ピー!
なに、何か、鳴ってる。何か、鳴ってるよ?ぼ、僕の中でも、何か、鳴り響いちゃってる。
「あれ、電話?誰か来たりした?」
「え・・・何だろ、あ、洗濯機だ」
「洗濯してたわけ?」
「ま、そうだね」
「あ、そういえばさ、ねこ、うちにコート置いてったじゃん」
「ああ、そうだった」
「着ちゃったよ?」
「うん?」
「俺のよりあったかそうだったから、着て帰っちゃった」
「そ、そう。あ、俺も」
「ん?」
「ネクタイ。借りてたじゃん」
「あ、そうだっけ」
「えっと、その・・・」
「ん?」
「あ、やっぱ、・・・どうしよ。ちょっと、皺になったかも。返さなくても、いい?」
「別にいいけど。じゃあ何か代わりにちょうだい?」
「・・・いい、けど。何か、マフラーとか、いろいろ、取っ替えっこになっちゃってるな」
「いいじゃん。何か、楽しいし。そういや、俺、お前んちにも行ってみたいよ。今度そっちで飲も?」
「へっ?・・・ま、まあ、いいけど。でも、遠いから」
「ま、こないだみたいに遅刻出来ないもんね。だから、ちゃんと休みの日に」
「あ、ああ」
「これから行く?」
「え、いや・・・」
「あ、だめだ。俺これから大掃除しなきゃ」
「ああ、そう」
「うわ!」
「え?」
「忘れてた。カップヌードル。もう三分経った?」
「・・・知らないよ」
「うわ、伸びすぎ」
「いつお湯入れたんだよ」
「電話する前」
「は?三分で終わるつもりだったの」
「考えてなかった」
「・・・ま、腐ったわけじゃなし、まずくても食え」
「あーあ、ねこのせいだよ」
「俺じゃないだろ」
「新しい友達とか作っちゃってさ、浮かれてるから」
「はあ?」
「俺には連絡のひとつも寄越さないでさ」
「そ、そんなの、お前だって」
「俺はいっぱい電話したよ」
「・・・え?」
「やっとスマホに買い替えてるのかって、思ってたけど」
「あ、いや・・・」
「だから、今だって、まさか出るって思わないし」
「そう、なの?」
「でもまあいいや。話せたから。じゃ、またね」
「え、うん」
「ばいばい」
「・・・じゃあ、また・・・」
ツー、ツー、ツー。
いったい、何だったんだ?
・・・・・・・・・・
通話時間、17分36秒。
放心して画面を見つめていると、留守電のお知らせが入った。電源が入ってなかった時の分、来るの、遅いんだよね。っていうか、これって、全部、黒井から?だったら僕は、やっぱりあの時携帯の充電を、もししていたら・・・。
いや、まあ、きっと、これはこれで良かったんだ。携帯を持つ手が震えてるけど、いろいろ一気にいろんなことがありすぎて混乱してるけど、とにかく、これで、良かったんだ。
僕は携帯を握ったまま布団に入った。留守電は、聞かない。過去のことは、もういいんだ。
そして、明るい日差しの中、羊を数えることなく、幸せな気持ちで六日ぶりの安眠を貪った。夢も見ないで、眠った。
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