第360話:リバーサイドの痴話喧嘩
言いたいことはいっぱいあった気がして、でも一つも思い出せなくて、きつく抱かれたまま、もう一度耳元で「ねこ、ごめん」を聞いた。
力が抜けて、折り畳み傘が手からふわりと落ちる。
スーツの触り心地、黒井の首元のにおいと体温、息遣い、ぶつかった靴の先。
雨と、川からの冷たい風。どこかから聞こえる、濡れた道路を車が走る音。
ふっと、僕の頬に触れているその髪のことを思い出して、でも、やっぱりそんなことはどうでもよかった。黒井が気にしているのは知ってるし、それが不安になるのは人として当たり前だけど、それでもなお、僕にとってはどうでもよかった。自分の身体に興味が持てないのと同じで、黒井の身体の一部がどうしたこうしたなんて、それは僕が想像したり心配したりする枠外にあった。
「クロ、お前さ、お前さあ・・・!」
誰の声だ、僕か、僕が喋ってるらしい。
「お前・・・もう、もうお前の髪の毛なんて俺どうでもいいよ!そんなの完全にどうでもいいんだよ。悪いけど心配もしてないし考えてもいない。そんな、そんなことなんかより、・・・そ、そんなことより、・・・俺の方が大事だろ!?」
「・・・」
「俺、お前に会えないと、精神不安定で死にそうだ!」
・・・。
喉が、ひりっとして。
確かに僕が叫んだらしかった。
こんなシナリオは考えてない。こんな台詞は用意していない。でも、嘘でも口からでまかせでもなく、たぶんこれが僕の本音・・・。
・・・言い切った余韻はまだ漂っていて、ふと、「お前に会わないと」じゃなくわざわざ「会えないと」と言ったのは、僕が会わなかったんじゃなくお前が会ってくれなかったんだという批判を込めてるんだななんて、他人事みたいに感心した。
・・・そして。
ごめん、俺が悪かったと謝られると、思ったのに。
抱かれたままぐらぐら揺さぶられて、それから突き放されて、「勝手なこと言うな、お前こそ何やってんだ!勝手に死ね!」という声。
・・・え?
「馬鹿、バカねこ、エロねこ!何だよあの女!誰なんだよあの女は!!俺、お前がその女の手ぇ握ってるとこも見たし、一緒に歩いてるとこも見た」
「・・・っ、え、・・・え」
「知らないとか言うなよ、俺はこの目で見たんだよ!俺とキスしたミーティングルームで、お前は女とイチャついてた!」
「・・・っ、・・・あ、あれ、は」
「何だこれ、何で俺はこんな馬鹿みたいなこと言ってんだよ、いい加減にしろよ、本当にずっと俺は、バカみたい、だ・・・」
「・・・」
「ったく、お前は浮気するし、でも俺はハゲてるし・・・」
「お、・・・おい、う、うわ、浮気って、それは言い過ぎだろ」
「言い過ぎ?じゃ、ちょっとならした気があるわけ?」
「あ、いや・・・お、俺は、その気はない!けど・・・た、ただ、狙われてるだけで」
「はあ?」
「い、いや、だから・・・こ、告白もされてないのに、先に勝手にこっちから断るわけにもいかないし、・・・っていうか大半は業務であって、ぎょ、ギョームだから・・・」
「・・・だからって満更でもなかったんじゃねえの?」
「ち、ちが・・・あれは、う、腕時計を褒められて、つい・・・で、でも俺はその人じゃなくて、ずっと、ずっとお前のこと・・・」
「・・・っ、ったく、馬鹿かよお前は!」
そうして、黒井はふっと息を漏らし、それからククっと、呆れた笑い声を出した。
「・・・な、なんだよ!」
「くくくっ、お前が、女慣れしてないから、ろくにあしらうことも出来ないってわけだ」
「・・・わ、悪かったな」
「ふざけんなよ、まったく・・・」
そうして、黒井は、遊歩道側に突き飛ばされた僕を引っ張り込むように、もう一度ゆっくり抱いた。
ひゅうと、腹が透けて、僕は「ごめん・・・!」と謝った。
黒井は「一度、痴話ゲンカしてみたかった」と小さく笑った。
・・・・・・・・・・・・・・・・
それから、仲直りできるかと思ったけど、結局もう一度怒鳴られた。
「お、おま、お前っ・・・!か、髪!ちょ、さ、触れ!手ぇ出せ!触れって!!」
カツラじゃ、なかった。
ごめん。
そして、黒井はちょっとふて腐れたように、少し壁に寄りかかって話した。
「あの、土曜日、お前に見てもらうの、やっぱり怖くなって・・・。でも見ないのも怖くて、結局、美容室行って、見てもらった。そしたら、やっぱり一センチちょっとだって。でも、このくらいよくありますよって・・・そんでなるべくちゃんと隠れるように、切ってもらったけど」
「・・・そ、そうだったの、か」
「それと、色の、陰影だとかで、染めた方が目立たないって言われて。何か、いつもより高い、イルミナ・・・なんちゃらってカラーでさ。俺、その、く・・・黒犬だから、しばらく染めるのやめてて、元の色にしてたのに・・・でも、あの女もやたら黒髪だから何かムカついて、もういいやって」
「・・・そんな・・・知らなくて、ごめん」
「もっかい言うけど、だからこれはヅラじゃない。分かった?」
「は、はい、すいません・・・」
そう言って黒井はガシガシと頭を掻き、自分で確かめるように、ぐいぐいと髪を引っ張った。
「・・・でもさ、何か・・・ハゲが怖いっていうより・・・こんな怖がってる自分が、わかんなくて、そのことの方が怖くて」
「・・・う、ん」
「それで、お前が女といるの見ちゃったら、急に目の前が暗くなってさ。そんで馬鹿みたいにもっとわけわかんなくなってきて・・・」
「・・・ごめん」
聞いたら事の顛末は理解できて、カツラ疑惑も晴れて、これをもっと早く聞けてたら・・・とは思った、けど。
でもたぶん二人ともお互いに、これ以上どうにもできなかった。だからそれはもうしょうがないし、でもこうして今、話せてることの方が大事だと思った。
傘はあまり意味がなく、横風の雨に濡れながら、並んでぼんやりと川を眺める。
一度ランナーが来たけど、何となく、僕たちの手前で折り返していった。
・・・。
そうしてしばらく無言でいたら、黒井が、ふっと、僕に寄りかかってきて。
その頭が肩に乗っかって、それで僕は、傘を左手に持ち替えて、肩を抱くように右手を後ろから回して、その髪をぎこちなく、撫でた。
少し濡れた髪は、さっき言われたせいか、確かにやたら指がすべるような、綺麗な感じがした。髪を染めたことなんかないけど、感触まで変わるものなのか。
そして同時に、手のひらがその湿った頬や耳にも触れて、皮膚の表面は冷えてるけど、体温はあたたかい。
しばらく頭の上に手を置いてから・・・僕の指は、手探りでその髪の中に分け入って、黒井が僅かにびくっと震えたけど、それでも時間をかけて、その場所を、探り当てた。
互いに、緊張しながら、じっと息をしている。
僕は中指の先で、くるくると、髪のないその部分をなぞった。
感触では、あの、最初に触れた土曜日と、大きさはほとんど変わっていない。
「・・・広がってないよ」
なるべく気遣って小さくつぶやいたけど、何だか、声が湿って、熱っぽく響いた。
そして、その返事の「・・・ん」も、身体が触れている部分から直接響いて、内側にこもっていた。
「大丈夫、だよ、きっと」
「・・・」
「・・・でも俺、本当に、気にしてない。気にできない。・・・ひどいかもしれないけど、髪のこと心配してるのって、たぶん全部、フリなんだ。・・・出された課題を何とかしなきゃっていう思いだけで、本当には、分かってない。お前の頭に生えてる毛のことなんか、・・・いや、綺麗だけど、でもやっぱりどうだっていい」
言い切ると、肩から「ぐっ・・・」と声にならないうめき。そりゃそうだ。これは僕が悪い。
「ごめん、でも本当に、わかんないし、でも、それで・・・」
「・・・」
「それで今、少し分かった。俺はお前の事情なんかどうでもよくて、ろくに心配することもできなくて、そんなことよりただお前が好きなだけなんだって。俺はお前のこと、ずっと自分本位でわがままなやつだって思ってたけど、俺だって、きっとお前より、ずっとそうで・・・」
数秒、黒井は、ゆっくり息をして、でも・・・僕の肩から、心地よい重みは離れていった。
一瞬で胸が苦しく、寒くなり、何かの否定の言葉に備える。
でも黒井は僕からそのまま離れてはいかなくて、正面から、その手がスーツの上着の内側にすっと入ってきて、冷えた手のひらが、Yシャツ越しに僕の脇腹や背中の体温を求めた。
それを感じながら、顔のすぐ真横で囁かれたのは、「ね、もっかい『好き』って言って」。
「・・・っ、・・・そ、そんなの」
「・・・」
「す、・・・好き。お前が好き」
「・・・」
「好きだよ、クロ。世界でお前だけ」
・・・自分で言って、二秒後、全身に鳥肌が立って、「終わり、もう言わない」と慌てて幕を下ろした。
「・・・もう、言わないわけ?」
耳の横で、掠れた声が、吐息とともに。
「・・・うん、言い終わった」
「ふうん・・・やまねこ、おまえ、世界で俺だけ好きなの?」
「・・・っ」
からかわれて、奥歯を噛むけど、でも、・・・こんなことを耳元で囁くお前だって、鳥肌が立ちそうなくらい、まるでお前じゃないみたいで、俗っぽくて馬鹿みたいで、こんなのただエロいだけだ。
そうして、そのエロい唇が僕の頬や口元を触れるか触れないかの距離で行き来して、抑えた息が顔にかかった。僕はもう目を伏せて、唾を飲み込んで、でも、脇腹を探る手が上がってきて、脇の下を強く煽情的に押し上げたら、「ふぁっ」と息が漏れて、早くも降参した。
少し顔を上げて、容易に捕まえられるその唇をとらえ、自分から、唇を押し当てにいく。
黒井はすぐにそれに応えて、何度か唇を食んだ後、「俺も、好き。馬鹿みたい・・・」と小さく笑って、長いキスが始まった。
それが「馬鹿みたい」だったのか、「馬鹿みたいに」だったのかは、聞き取れなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・
唇が触れ合ってるのは嘘のように気持ちよくて、濡れた熱い舌はもはや夢みたいで、僕は馬鹿な黒井も好きだった。
途中で強引に唇を離し、「俺、お前に会ってないと好きって忘れるから無理」と急いで伝えた。クロは熱に浮かされた声で「じゃあやっぱ一緒に住も・・・」と返し、「俺たちこんなとこで、イチャついてる・・・」と遠い目をしてまたキスをした。まったく同感だ。
黒井の親指が僕の胸の周りをさすって乳首を探り当て、くりくりと好きに弄るので、僕は荒い息で興奮しながら、わざとその後頭部を押さえてまた指を髪の奥に差し込んだ。別に、そんなところは性感帯じゃないけど、俺だってお前の弱いところを握ってるんだって、意地の悪い仕返し。
・・・でも。
・・・それで黒井の手が胸から離れて、・・・そして。
腰、から、・・・前に、伸び、て、・・・その熱を、その大きな手のひらがやわく包んだら、もうだめだった。
「ク、ロ・・・だ、・・・だ、め・・・」
思わずその両肩に手を置いて、腰を引き、ほとんどすがりつく。
肩を強くつかんで、鎖骨におでこを擦りつけるようにして、無我夢中で首を横に振る。無理だ、全身の力が抜けて、同時におかしなところに力が入りすぎて、魂まで飛び出そう。
・・・手を、離してくれ。
・・・。
・・・俺、まだ、そこを、ちゃんとお前に触られたことないんだよ。
刺激が強すぎる。どうなるかわかんない。ぶっ飛んで頭が爆発しそう。
お願い、離して。
クロは、「わかっ・・・た」と小さくつぶやいて。
・・・互いに、気持ちを、おさめた。
それから、まるでお詫びみたいに慰めるような小さいキスがあって、そろそろと舌を出したら、その長めの舌にちろりと舐められた。
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