第359話:雨、ぶり返す懊悩
十一月十九日、水曜日。
昨夜、決死の覚悟でメールした<明日、帰りに話せないかな>に対し、朝、返信なし。出勤、返信なし。昼、返信なし。夕方、返信なし。
そしてノー残、おかしな用事を押しつけられる前に会社を出て、辺りをぶらぶらしながら19時、返信なし。
うん。
つまりは振られたってこと?
黒井の予定を三課のTODOリストで確認したけど、遠方の客先から直帰とか、グループ会議とかでもないはずなのに、まるで避けられてるみたいに、社内でも会えなかった。
本当に、避けられてるんだろうか。
・・・何度目だろう、携帯を開けて、新着メールを確認して、閉じて、また開けて。
一瞬鳴ったような気がして開けて、一瞬光ったような気がしてまた開けて。
・・・何もない。
他のメールも見返して、もしかして実は僕が大事な約束をすっぽかしていて、それで黒井が怒ってるんじゃないかとか考えてみるけど、・・・ふと、昨日、給茶機で真木が僕に訊いてきた「怒ってる?」がよみがえった。
黒井も、何かに怒っているけど、それは厳密には僕に対してではない・・・とか?
あるいは、僕の方が、怒っているように見える?
土曜の約束を黒井が断ったから、それで僕が怒っていると思って、気まずくて僕を避けている?
帰宅して、今日がダメならもう土曜日に家に押しかけてみるしかないと、その理屈は頭では分かっていた。
でも、掃除や洗濯で気を紛らわせてみても胸や腹がキリキリするのは変わらなくて、結局何度も何度も携帯を見てしまう。
思考は、「もしかして・・・」という不安と、「いや、でもそれは・・・」というフォローを交互に繰り返すばかりで、まるでトランプをめくったら赤い札か黒い札が出るみたいにただひたすらどっちかで、フォローにもあまり意味がない気がした。
やがてそれも出し尽くしてしまうと、今度は不安の奥の、本音なのか妄念なのか分からない領域へ入っていく。
・・・黒井はもう、僕のことが好きじゃない?
いや、あるいは僕の方こそ、もう黒井のことが好きじゃない・・・?
・・・。
・・・そうなの?
そんなの、そうじゃないって思いたいけど、本当のところはどうなんだ。
結局僕は<土曜の約束>が破られたことに対し、その穴を埋めるべく奔走しているだけで、それは黒井が好きだからというより、物事を円滑に進めようとしているだけ。
真木に言い寄られた時に、心の中で、僕には別の相手がいてその人とはうまくいっていると思いたいという、そんなお飾りの<恋人>・・・?
もう十日以上もずっと会わないでいるうちに、黒井の姿はぼんやりとしてしまって、好きだとか恋人だとか一緒に住むだとか、そんな熱も薄れていくようだった。
そんなのは嫌だとか、せっかく両想いになれたのにこんなことくらいで・・・と思うけど、それも自己満足や言い訳みたいで、そこに「好き」が入っているのか分からない。
本当に好きなら、夜中だろうが今すぐ電話したっていいだろうに、・・・でも、さっきまで壊れるかと思うほど開け閉めしていた携帯を、今は見たくなかった。
・・・・・・・・・・・・・・
十一月二十日、木曜日。
朝から小雨がパラついて、やたらに寒かった。そりゃそうか、もうすぐ十二月だ。
相変わらず鳴らない携帯はもう鞄の奥底に追いやって、なるべく平静を装って仕事をする。クセでつい腕時計を見るけど、何となく目を逸らした。
気を抜くとすぐにまた不安とフォローの繰り返しが始まりそうになるけど、でもそこから離れて諦観しすぎても、あの三月の、黒井を好きではない状態に立ち戻ってしまいそうな気もする。
どこにも、心の置き場がない。
これって何だかまるで、雨の屋上で濡れながら<ぶり返して>いるクロみたいだ。
告白されて、黒井が僕のことを好きなのか好きじゃないのかって悩みもなくなったはずだし、そしてあの肝試しの後に救われた僕は少しずつ過去の自分と向き合ってもきたわけで、だからもうあの三月の状態に戻る必要なんかないのに、・・・なぜか身体が勝手に、そっちへ引っ張られていくようだった。
クロ、どうしよう、俺を助けて。
いや、今は頼れない。自分で何とかしないと。
・・・。
そうじゃない、そうじゃない、でもどうしたらいいか分からない!
行き場のない何かが爆発しそうで、あるいは、内臓に結ばれたロープが別々の方向に引っ張られるみたいで、どこにも落ち着けなかった。
深呼吸したり、お茶を飲んだり、気がつくと腕時計を手のひらで覆うように撫でていたりしながら、とりあえず正気で仕事をすることだけ考えた。
・・・・・・・・・・・・・・・
営業先の業務フローの矛盾点を指摘したら「いったん確認させて下さい」ということで商談は進まず、早めに帰社。この「いったん」がいつまでなのかは誰にも分からないんだよね。
しかし、帰社してよくよく考えたら僕の指摘もやや的外れだったことが判明し、その旨急いでメールを打ったけど、でもどっちにしろ矛盾点が解消されれば自ずと消えることに思い至って、書き途中のメールを消した。やっぱり、物事は静観しているのが一番だという説・・・は、まあ僕が唱えている説だけど。
そして残業で何とかやるはずだった明日の新人研修の準備も早めに着手できて、また真木に人数分の資料コピーと部屋の予約をお願いし(今度は社内メールで)、気づいたら仕事がひととおり済んでしまったらしい。
終わらなかったら終わらなかったでキリキリするはずだけど、・・・予想外にスムーズに終わっても、その分、余計に胸の重さが浮き彫りになる。
でも、仕事をするには危うい精神状態だというのは分かっていたから、明日やれることは明日のままで、さっさと帰ることにした。こういう、体調管理というより精神管理は、一年前より出来るようになったんだろうな。いや、必要になっただけか。
三課は振り返らずにオフィスを出て、地下通路を歩いて、京王線改札前。
ふと、何だか気になって、一日中見ていなかった携帯をおそるおそる取り出す。
メールの着信の光。
一気に心拍数が上がって、とにかく壁際に寄って、目を閉じてゆっくり画面を開いた。
薄目を開けて表示を見ると・・・それは二課の望月からで、一課の鈴木の結婚式の二次会についてのお知らせ。・・・あ、ああ、そういうのあったんだっけ、今週末は連休で、そういうイベントがあっただなんてすっかり忘れてた。
もう、そんなもの、行っても行かなくてもどっちでもいいし、結婚するなんてもはやお目出たいし、でもそれと同時に一ミリも興味がないし、そしてクロが行かないなら行く意味もないし・・・。
・・・くそっ。
クロ、お前がいなきゃ何にも意味ないよ、俺の人生、何にも意味がないよ。
そして、携帯が震えてちょうどもう一通メールが来て、二次会の案内地図だと思って開いたら、<両国 JR駅前のサンマルクにいる>とあった。うん?さっき場所は汐留のホテルって書いてあったと思うけど、両国なんかに集合してみんなでぞろぞろ行くのか?だったら新宿にすればいいのに・・・と思ってさっきのメールに戻ろうとして、そこで差出人が<黒井彰彦>であることに気がついた。
・・・・・・・・・・・・・・・
とにかく総武線に乗ってしまって、各駅で両国にどんどん近づいているけど、しかし結局、どんな顔をして会えばいいのか、何て言ったらいいのか、・・・そして、その髪を見るのを避けてどこを見ればいいのか、実際的なところは分からなかった。
途中の駅、ドアが、開いて、閉じて、発車するのが、長く感じる。
その間に、一体どうして突然両国なのか、用件も何もない唐突なメールに憤ってきたりもして、だんだんとその火種がくすぶって、付き合うって何だ、好きって何だ、どうしてこんなことひとつどうにも出来ないんだと、苛立ちが胸から上へと込み上げてきた。
ごくりと唾を飲み込んで、何とか抑える。
これなら、快速に乗って乗り換えで迷ってあたふたしていた方がマシだったかも。また次の駅に着いて、ホームに入って、ドアが開いて、発車メロディが鳴って、閉じて・・・。
ようやく両国に着いて、外に出たら、結構雨が強い。
駅前をウロウロしたらすぐにサンマルクが見つかって、でも入る前に一応携帯を見たら、メールが二通。
一通目は、<やっぱり、帰る>。
そして二通目はついさっきで、<やっぱり、川にいる>。
・・・は?
何だよ、川って。
ふいに渦巻くごちゃまぜの感情をいったん横に置いて、まずは冷静に折り畳み傘を差し、看板の地図を見る。
現在地を確認し、すぐそこに太い水色があって、それは隅田川だった。
・・・ああ、これね。
川ってだけで分かるか、意味不明すぎるだろ、お前はいつもそうやって・・・と色々思いかけたけど、まあ、分かった(静観で物事が解決することもある)。たぶん駅から一番近い川岸にいるってことだろう。
この辺のお客さんは担当していないから来たことがなかったけど、雰囲気は何となく浅草っぽくて、周りは相撲のモチーフであふれていて、小さめの雑居ビルが多かった。
とりあえず川方面に向けて細い道を歩くけど、すぐそこのはずなのに川は見えないし、土手みたいなものが広がっている雰囲気もない。この向こうが川、というところで道はぐにゃりと曲がってしまい、いやいやこれじゃ川と並行に歩いてしまう・・・と思ったら、暗がりに<隅田川テラス>の表示と、向こう側へ行ける階段。
階段を上って下ると薄暗くなり、上を首都高みたいなものが走っていた。多摩川みたいな開けた風景ではなく、雨のせいで景色はけぶっていて、水面も見えず、霧がかかったようになっている。
川岸は、遊歩道というには幅広の道になっていて、どうも整備されたジョギングコースになっているらしく、一人、二人、雨の中を走っている人がいた。
辺りを見回すけど、ランナーが行ってしまってからは、僕の他には誰もいない。
もう一度携帯を見るけど、メールもなかった。
何だかもう、すべてがどうでもよくなってきて、でもこのまま電車に乗って帰る気もしなくて、適当に川沿いを進んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
一人ランナーとすれ違ってからは、一直線で見通せる道に、やはり人影はない。
もう少しだけ行ったら帰ろうと思って、少し奥まっているところへふと目をやって、そこには、首都高の下で雨宿りしながら、横風で濡れている黒井がいた。
・・・。
立ち止まって、じっと、そちらを見る。
そのスーツ姿が、たとえ見知らぬどこかのサラリーマンでもおかしくはない。眼鏡をかけていないし、薄暗いし、顔まではほとんど見えない。
それでも、ただその立ち方だけで、それが黒井彰彦だと分かった。
そこにいる。
そこに存在してる。
網膜に映っただけで、同じ空間にいるだけで、ただ、それだけで。
僕は、ゆっくりそちらに歩き出して、勝手に涙がにじんで、唇はわなわなと震えながら、顔は伏せたまま、その人物に傘を差しかけた。
「・・・ねこ、ごめん」
・・・。
黒井の声。聴きたかった声。
傘ごと、強く抱きしめられて、嗚咽を噛み殺しながら、何も言えなかった。
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