32章:お盆旅行と、告白

(1日目:ついにお母様とのご挨拶を果たす)

第245話:空港で大はしゃぎ

 八月十四日、木曜日。

 とうとう昨日のスクワットはサボってしまった。最終日だけズルをして朝にやり、およそ二ヶ月のエクササイズを終了した。だって、まあ、短パン姿で恥ずかしくないようにって目的は一つ達せられそうだし、何だか、どれだけやってもこれ以上にはならなさそうだし。馬鹿みたいに早く起きたからネットで調べてみると、腹筋背筋等々毎日五十回やって筋肉がつかないと嘆いているスレに、その程度でつくわけないだろとの冷ややかなコメント。・・・いや、僕、ほんの何週間かでつきましたけど。

 反証を順序立てて練っていたが、読んでいくうちに、ちょっと分かった。

 ああ、この人たちは、1あるものを、2にしようとしてるんだな。

 0を1にするのは大層簡単で、っていうかふつう1であることが前提であって、そこから先が大変だということなんだ。

 なるほどね。

 納得して、自分の立ち位置をきちんと把握すれば憤慨することもなくて、薄曇りの中家を出た。鍵をかけ、鍵を開け、エアコンやガスなんかをもう一度一つずつ確認し、ようやく家を出た。


 デパートで買ったYシャツと、一番マシなデニムのズボンと、履き慣れたスニーカー。一番マシな革靴は鞄の底に入っている。お土産のおかきがかさばって、鞄がパンパン過ぎるのがかっこ悪いけど。

 駅前の美容室のガラス窓で服装をチェックし、財布に五万入っていることを確かめた。黒井がものすごいびしっとした服で来たら、もう、空港だか向こうのどこかで買うしかない。とりあえずカードもあるし、何はなくとも、お金さえあれば事足りるだろう。

 存在自体が否定されたら、泣きながら帰って来ればいいし!


 始発に乗って、大胆に二席ほど占領して足を組み、ぼうっとした。

 そういえば、今日はどんな夢を見たっけ。

 思い出せない。まあ、少なくとも脂汗をかいて飛び起きたわけじゃない。

 ・・・別に、僕の夢なんて。

 長く生きてりゃ、死ぬ夢くらい見るだろうよ。

 それに、たとえ、それが何がしかの意味を持って、僕にとって重要なことだったとして。

 それがお前と、何の関係がある?

 俺はお前とアトミクをやって、<それ>を取り戻すだけだよ。

 そのことが、同時に僕の<向こう側>への準備にもなってるってことは、確信できるんだから。

 

 いつの間にかうとうとしてしまい、はっとして起きた時には明大前のホームで、ドアが閉まるところだった。

 ・・・しまった、寝過ごした・・・。

 まずい、どうしよう、携帯、えっと。

 どうしよう、飛行機、間に合わないのか?始発でないと無理?どこか、ルート的に間に合う行き方は!?

 何で寝ちゃったんだ、馬鹿、落ち着け、どっちにしても次の駅までは停まらないんだから、それまでに連絡を入れて、どうするか決めるしかないだろう。

 次の駅でいったん降りるべき?

 いや、新宿まで出るに越したことはないだろう。

 ・・・うん、とりあえずそれで間違いはないはずだ。おかしい結論ではない。大丈夫、とにかく僕は始発に乗ってるんだから、えっと、そうか、遅刻したわけじゃなくて、合流し損ねたのか。だとしたらもしかして、この電車のどこかに乗ってたりする?あるいは次の電車に乗ってくれれば、別に間に合うんじゃないか?

 とにかく携帯を出して、もどかしく黒井にメールする。えっと、何て打ったらいいんだ。寝過ごした、じゃないし、遅れた、じゃなくて、ええと・・・。


<すいません、電車で寝てた。始発には乗ったけど、そのまま乗ってるけど、新宿で待ってる。ごめん>


 とにかく一秒でも早く送った。次の電車が桜上水に着いて、それに乗ってくれればいいんだ。ほら見ろ、タイムリミットがいつだか分からないと、こうして無闇に焦りまくることになる・・・。

 ・・・。

 ・・・な、なに?

 隣の人が「くっくっく」って肩を揺らしてる。え、泣いてる?いや、笑ってる?

 僕は自分の鞄を隔てて笑っている人の、サンダルの足を見て、すね毛とごつごつした膝を見て、それからその手元のスマホを見て、・・・拳を握り、盛大に熱くなった。

「こ・・・このやろ!」

「あはは、はっはっは・・・!ウケる!マジウケる!」

「お、起こしてくれればいいだろ!」

「見て、見てこれ。ね、このメール!」

「う、うるさいな、ちゃんと書いたじゃないか、ちゃんと謝った!」

「おま、お前、俺のこと見もしないで、起きて、立って、座ってさあ・・・」

「う、うるさいうるさい!」

「俺、お前のことこんな近くで見てんのに、お前、気づかないで、青い顔で携帯打っちゃってさ・・・」

「し、しずかに、しろって!ひい、おかしい、うるさいよ・・・」

「はははは!」

 笑い転げて、黒井が鞄の向こうから寝転んでくるけど、「来んな!こっち来んな!」と押し返してやった。それでもやめないから、嬉しいんだけど。っていうか、こんな時間なのに意外ともう人が乗ってたんだ。どうも騒がしくして、すいません。



・・・・・・・・・・・・



 新宿で降りて、JRで浜松町へ。ああ、モノレールか。最近は担当が違うけど、前はたまにこっちまで来てて、都下じゃないのにやたら時間かかるから日に何件もまわれませんって苦い顔してみせたっけ。

 さすがお盆だから、モノレールもこんな時間から人がいた。家族連れもカップルもグループもキャリーバッグを引いている。

 ホームで列に並んで、ようやくさっきのことをからかい終わった黒井が、「何かわくわくすんね!」と僕に屈託なく笑いかけた。グレーのグラデーションっぽいシャツに下は黒のTシャツ、紺色で、六部丈くらいのポケットだらけのズボン。ブランドものっぽい革のショルダーバッグはそれほど膨らんでもなくて、まあ、着替えや私物は向こうにあるんだろう。

「しかし、曇ってるね。雨が降りそうだ」

 僕は、その笑顔がちょっとこそばゆくて、自分に言い聞かせるみたいに言った。

「うん、曇ってる」

「それで?その・・・昨日一人で帰って、こうして始発に乗って、よかったわけ?」

「え?・・・だからさあ、そうやって途中採点しなくていいんだって。俺が気分がいい時が気分のいい時!見てりゃ分かるでしょ!」

「・・・あー、はいはい、左様でございますか。分かりました」

 モノレールが来て、まあ座れないこともなかったけど何となく立って、窓から空を眺めた。最初から大笑いしたおかげで、何とか緊張せず隣に立てている。いや、意識したらだめだよ。寄りかかって、抱きつきたくなっちゃう。

「あの、それで・・・」

「え?」

「・・・っ、だから、その」

「なに?」

「一つだけ訊くけどさ、飛行機の時間だけ教えといてよ。結局、これでないと間に合わなかったの?別に、それはもういいけど、あとどれくらい余裕があるの?」

「・・・何で知りたいの?」

「・・・えーとね、それは、空港でテロリストに出くわして、身元が分かる証拠がそこに落ちてたとして、拾って分析してる暇がどれくらいあるか知りたいから」

「ふふ、そんなら教えてあげる。答えは<結構ある>。飛行機の時間は十一時過ぎ」

「十一時!?」

「そ」

「十一時?それって午前十一時?はあ?いったい何時間空港でうろうろする気?こんな早く起きて、無駄な体力使って、向こう着いたら疲れちゃうだろ?何でそ・・・」

「・・・」

「・・・いい、もう来ちゃったし、もういいよ。いや、いいとか悪いとか採点もしない、しません。流れのままに生きます。これでいい?・・・ああ、くそっ」

「ははっ」

「何だこれ、俺の修行?」

「ちょうどいいじゃん」

「もう、いい。今後一切俺は予定を気にしない。飛行機に乗り遅れようが、間違って新幹線に乗ろうが、お前に全部任せる」

「え、それは困るよ。俺だって、飛行機の時間知ってるだけで、搭乗口とか、わかんないもん。空港って広すぎて、絶対迷子になる」

「・・・そこんとこは俺頼みなの?」

「うん」

「・・・ふうん、よく出来てるね」

「俺とお前は、似合いなんだよ」

「あ、そ、そう。うん、そりゃよかった。とっても、よかった・・・」

 空港に着いて、人がぞろぞろ降りたから一緒に降りようとしたけど、あれ、第一ターミナル?第一があるなら第二があるの?え、どっち?どうしよう、どこ行き、何便?搭乗口は?

 ・・・。

 ああ、フルマラソンとはいわないけど、十キロくらいなら走れるだけの(走れないけど)暇な時間があるんだから、どっちでもいいか。端から端まで歩いたらいいんだ。そんで、疲れて飛行機で爆睡したらいいんだ。

「降りよう、クロ」

「うん」

 黒井は僕におとなしくついてきて、何だかもう、紐でもつけて歩きたかった。この場の誰にも引けを取らない素晴らしい犬を連れて歩いて、鼻が高かった。



・・・・・・・・・・・・



 空港は、天井が高く、広く、人がいっぱいで、わくわくした。

 天井が高くてだだっ広い建物というのは、それだけで人に何かを感じさせると思う。安心感なのか、逆に少しのスパイスみたいな不安なのか、快適さと文化の象徴なのか、人の驕りを思い出させるのか・・・。

 それでも、みんなが旅行に出発するという華やいだ雰囲気は否が応にも伝染して、モノレールから段階的にそれは上昇した。しかも、隣にクロがいるのだから、これから二人で飛行機に乗るというのだから、これはもう!

「うわ、すっごい、お店いっぱいあるね」

「そういえば、何かリニューアルしたとか言ってたっけ」

「俺、お土産買おう!」

「な、何だよ、土産はいらないんだとか言ったじゃないか」

「ええ?誰が?」

「いや、だって、手ぶらで来いとか」

「何言ってんの、お土産って、俺のだよ!」

「じ、自分用?」

「あったりまえじゃん。っていうか腹も減ってこない?モーニングとか、食べたくない?」

「いや、それは、その」

「うわあ、すっげえ楽しい!」

「おいおい」

「ね、モーニングはいくらまで?二千円?」

「ば、バカだな、何でランチが千円でモーニングが倍になるんだ」

「じゃあ五百円・・・?」

「・・・二人で、二千円」

「何だ、やっぱ千円か」

「俺、そんなに食えないから、いいよお前が千五百円で・・・っていうかそんなの別に関係ないだろ。それこそ俺の基準なんて関係ないんだから、好きなものを食えよ!」

「いーの、こういうのは制限があった方が選ぶのが楽しいの!」

 黒井は上の階の、端から順にああだこうだと見て回った。僕は待てよと言いながらこっそりその手首をつかんで、つかんだまま、離されない関係でいることを、噛みしめた。

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