第132話:最低なホワイトデー
自分の両手を見て、「うわああっ」と思わず叫んだ。
何、この、ねっとりした、赤いもの。
ゆ、指で、破っちゃったの?処女膜ってやつを?
そして自分のものを見て、さっき触ったから血まみれになっていて、あっという間に下を向いた。ひい!
・・・。
俺、俺・・・そこまで、したっけ?
思案しながら無意識に手を口元に持っていき、鉄の匂いがして思わず遠ざけた。僕は、いったい何の扉を開けちゃったんだ?
とりあえず小刻みに震えている藤井が生きていることを確認し、どうしようかと思った。このまま逃げちゃう?・・・だめだろ、証拠を残しすぎだ。うん、っていうか、どうしよう。何て声をかけたらいいんだ。急に、怖くなった。寒気がして、自分の腕を抱えたくなるけど、また両手を見てやめた。何だ、この犯罪者みたいな格好の俺は?下半身丸出しで両手を血に染めて、いったい何をやってるんだ?
「・・・ふ、ふじいさん。あの、どうしよう」
乾いた声が白々しく響く。
「お、俺が、やったの?これ、おれが・・・?」
俺は、何を償わなきゃいけないの?お義父さんに謝りに行かなきゃいけないの?お嬢さんをキズモノにしてすいません、オレが一生かけて責任取りますって?まさか!
ただ、やりたかっただけなんだ。それだけなんだ。誰にも何の邪魔もされずに、やりたいように、本能のまま、解放したかったんだ。それでもいいって、そうしたっていいんだって、思っちゃったんだよ。俺だってそのくらい出来るって、ちょっとセックスするくらい、こんな俺だって・・・。
「や、山根さん・・・あの、ティッシュ、を」
「え、あ、ああ」
思わず言われるまま辺りを見回して、ベッドの上のそれを三枚、藤井の手に渡した、というか落とした。僕も自分の分を五枚くらい取って手を拭った。強くこすって、少しだけ、薬指の切った傷がヒリリと痛んだ。
・・・なぜか、心まで痛かった。何だよ、どうしたんだっけこの傷?どうして苦しくなるんだ?もう痛くないはずなのに、何でこんなに、また血がにじむように痛いんだ。
「ふ、ふじいさん。これ、どう、なってんの・・・」
「すいません、生理が、ぶり返して」
「せ、せいり?」
「終わったはずなのに、今朝も何でもなかったのに、夜になって急に・・・」
「せ、生理なの、これ?」
「・・・嫌なんですよ、来てるときにするの。本当に、ごめんなさい・・・」
「と、とにかく、何でもないわけ?これ、俺のせいじゃない?ヘンなことでもない?」
「ヘンかもしれませんが・・・山根さんのせい、かもしれませんが・・・別に、それだけです。バレンタインの時といい、何でだろう、身体が反応しちゃってる・・・」
「とにかく、だ、大丈夫?」
「大丈夫、ではないです。気持ち悪い。自分の中身まで出て行くみたい。瓶詰めが欲しい・・・」
藤井は「ひい」と泣きそうな声を上げてティッシュを当てている手に力を込め、全身を丸めた。「い、痛いの?」と訊くけど、ゆるゆると首を振るだけ。初めて会ったとき、ホッチキスの芯が刺さって、開いた穴から自分が出て行きそう、とか言ってたか。あの時はバンドエイドを貼って落ち着いたけど、・・・今は、どうしたらいいんだよ。
「・・・その、何、生理用品、みたいなやつは?」
「持ってない。もう終わったって、油断して」
「とにかく、シャワーを・・・」
「そう、です、ね・・・」
藤井がじりじりと死にそうな顔でシャワーに向かい、僕は一人、ベッドの使っていなかった部分に浅く腰掛けた。ティッシュであれの血も拭って、そのまましごいても勃つわけもなくて、こすりすぎて痛くなった。
・・・何、やってんだろ。
どうしてこんなことになったんだ。
別に、孕ませたわけでもなく、生理なら怪我や病気でもないわけだから、まあ、何も起きてはいないわけだけど。
・・・どうして、最後まで、出来ないんだ。
また勃たなくなっちゃったよ。今日はもう無理。
・・・はあ。
ただつつがなく、興奮のままに出したかっただけなのに。
相手の気持ちなんか全く無視で、やめてって言われても聞かないで、ただ自分の感情だけで動きたかった。それでもいいよねって、別にいいだろって、でもさっきからいったい誰に言い訳してるんだ。
・・・藤井に?
返事もしないまま、デートも重ねないで、突然こんなことしてごめんって?
まあ、それはそうだ。そうなんだけど。
でも、全然、悪いと思ってないな。ひどいやつ。でも、思わないんだ。謝れと言われれば謝るけど、自分に嘘をついても仕方ない。藤井の方から好きだと言って、公園であんなことしてきたんだから、別にいいと思ってる。あの時出来なかったことを今ここでしたって、多少乱暴にしたって、俺の勝手だ。うわ、こういうの、女の子にモテないね。はは。
・・・モテないのか。
そうなん、でしょうね。
ばたん、と音がして、藤井が風呂場から出てきた。上着を着て、下はバスタオルを巻いて、「上がりました」と。
「・・・藤井さん、ごめん」
心にもないくせに、でも自然と口をついた。僕が間違ってるかどうかはともかく、ひどい目に遭わせたのは確かだ。
「・・・いいんです、私も、言い出せなくて」
「とにかく、謝るよ」
「いえ、あの、山根さん・・・何だろう、今朝から何だか、別人みたい」
「・・・そう?そう、かもね。はは、これしか、考えてなくて」
思わず自分のそれを見る。ごめんな、本来の用途がさっぱり果たせない。
「・・・何か、あったんですか?」
「別に、何も。ただの・・・欲求不満」
「・・・普通、の?」
「・・・え?そう、だよ。普通の欲求不満。普通の、性欲の・・・」
「変態でも、崇高でも、なかったですね」
「・・・は?」
「愉しんでました?」
「何が?」
「すっごく嫌だったけど、謝らなくていいです。山根さんが、そういう何かを感じてたなら、それは私も嬉しい。教えてくださいよ。教えてもらってもバチは当たらないと思う」
「な、何のこと?俺はただ、その、したかっただけで」
「私と?違うでしょう」
「・・・そ、そんなこと」
藤井はゆっくり近づいてきて、僕の足の横にしゃがみこんだ。ブラウスの前ははだけたままで、上から見下ろすと、胸が見えた。
「ねえ、教えてくださいよ。何を考えてたんですか?何を求めて、あんなに激しく・・・」
そう言って、僕の足を撫でる。少し濡れた髪が膝にかかって、ぞくっとはするけど、勃起はしない。
「だから、言ってるだろ。何もないよ、やりたかっただけ」
「今日は変態なこと考えてくれなかったんですか」
「俺がいつ変態だったよ。さっきから何?うまくやれなくて、悪かったよ。ムードも何もなくて、悪かった・・・」
「そんなことじゃない。山根さん・・・、私たち、こないだみたいに分かり合えませんね。見ているところが違うみたい」
「・・・こないだ何を分かり合ったって言うんだ。最後まで出来なかっただけだ」
「怒ることないでしょ?怒ることなんか、何もない。それを感じる瞬間があったなら、それだけで・・・!」
「それって何だよ」
「なかったんだ。それなら、私としたってしょうがない・・・」
「何を言ってるんだよ!意味わかんねえよ気持ち悪りいな!」
僕は立ち上がって、思わず右手を上げて、そしてその場でおろした。・・・叩こうとした?僕が?
「ご、ごめん。大きい声出して、悪かった」
「・・・ふふ、男の人って大変だ。きっとプライドが高くて、自分にも言えないんですね。それでやりたかったり、怒ったりしてる」
「・・・もういいよ。勝手にどうとでも、言えば」
「許せないんでしょ。満ち足りてない。想うだけで震えちゃうような何かがない。・・・だめですよ怒ったら。図星って意味になっちゃうから。私に知られたくなかったら、怒らないでください」
僕は開きかけた口を閉じて、藤井に背中を向けてどかっとベッドに倒れこんだ。頭が跳ねて、思考と感情が一瞬飛ぶ。やがてまた戻ってきて、理不尽を嘆く。藤井さん、あんたに何が分かるっていうんだ。ただみじめなだけの俺の、何が分かるっていうんだよ。
藤井がそっとベッドに横たわり、身体は触れないまま、隣に寝た。
「・・・山根さん。私、振られちゃいましたか?」
「・・・俺に?」
「そうです」
「別に、好きでも嫌いでもないよ。ただ、俺のことこれ以上困らせないでほしいだけ。言えば言うほど、すればするほどみじめになるから」
「・・・出て行きましょうか?」
「・・・いいよ、こんな、夜中に。出て行くなら俺の方だ」
「私はそれでも、山根さんのこと好きです」
「・・・それおかしいよ。好きになる要素は皆無だし、っていうかマイナスだし、足を踏まれるくらいじゃ済まないと思うけど」
「普通ならそうかもしれないけど、私、普通は嫌いなので」
「ああ、そう、だったね」
「残業疲れましたね。もう、寝ましょう」
「・・・疲れた」
「好き合ってもいないし、同じものを見てもいないけど、それでも、誰かと寝たら寂しくない・・・」
僕は体を起こして、半分眠りかけた頭を落っことさないように歩き、トランクスを履いた。それから下に落っこちた布団を引っ張り上げて藤井に掛け、自分も中に入った。
・・・人肌であたたかいのに、ねえ、どうして?
藤井さん、俺は全然、さみしいままだよ。
何でだろう。何でこんなに、さみしくて、眠れない・・・。
すう、と死んだように寝てしまった藤井を抱いて、その髪を撫で、背中を撫で、ぎゅうと抱きしめても、さみしさは大きくなるばかりだった。・・・嘘つき。猫を抱いたら寂しくないって、言ったじゃないか。・・・ねこを、抱いたら。藤井はねこじゃないんだな。それじゃ、誰がねこなんだろう。誰だっけ、そんな人、いたような、気がするんだけど・・・。
・・・・・・・・・・・・・
少しだけうとうとして、でも眠れずに、左の薬指が切れるイメージが何度も去来した。右手で押さえながら、夜明け前に、起きた。
散らかって皺になったスーツを着て、静かに外に出た。三月も半ばだけど、明け方は冷え込む。まだ誰もいない道路を歩き、コンビニでお金を下ろし、適当におにぎりやサンドイッチを買った。この時間のこの場所で、親切で丁寧なレジのお姉さんに当たって、驚いた。
「あ、あの」
「はい?何でしょう」
「す、すいません、ついでにちょっと教えてほしいんですけど」
「はい?」
「・・・実は、彼女が急にその、生理が、来ちゃって。あの、何を買えばいいのかさっぱりわかんなくて」
「あ、ああ、そうですか。えっと・・・ナプキンか、タンポンかとか、聞いてます?」
「え・・・あ、あの、寝ちゃってて。全然」
「ショーツとかは・・・」
「・・・え?」
「ええと、とりあえず・・・これ、かな。あの、彼女さん、痩せてます?普通?Mでいいかな」
「痩せてる、方だと」
「じゃあひとまず、これとこれで、大丈夫と思います。お買い上げで、いいですか?」
「はい、お願いします」
「・・・買いにくいですよね、男の人は。お優しいですね」
「いや、全然、そんなんじゃ」
「お会計、二千と八十九円です」
・・・高っ!
下ろした分、またなくなった!
「ど、どうも、ありがとうございました。助かります」
「いいえ、その、お大事に」
こんな僕のために微笑んでくれるなんて、何て心が広くて、人間が出来てるんだろう。こんなとこでバイトなんか、もったいない。きっと素敵な彼氏がいて、心に余裕があるんだろうな。僕みたいのじゃない、まともで、しっかりした彼氏だろう。
<603>に戻り、一人で熱い缶コーヒーを飲んだ。
別に、生理用品を買ったのだって、優しくもないし、親切でもなかった。ただ、後から「これとこれを買って来て下さい」とか言われるのが面倒だったし、時間が遅くなると客が増えて買いにくくなるからだ。
まともでもないし、しっかりもしてない、そして、彼氏なんかじゃない。
寝ている藤井に、ごめんね、とつぶやいた。
ただ、はけ口にしてただけだ。その上八つ当たりして、ひどいこと言って、最低だ。
最低なのは分かってるけど、止められなくて。
だから、ごめん。謝るしかない。謝ってほしいんじゃなくて、反省して、心を入れ替えて、態度を改めてほしいんだろうって、そりゃそうだろうけどさ。さっきのお姉さんみたいな余裕がなくて、出来ないんだ。ただ笑って、「昨日はごめんね」で済む話だってあるだろうに、うん、深刻ぶって、理屈をつけて、大騒ぎしてるのは僕の方だな。そうか、あのお客さんも、余裕がなくて笑えなかっただけか。こんな時でも綺麗に微笑むことが出来たら、溶けていく問題もあるんだろう。
・・・。
誰かの顔が頭をよぎったような気がしたけど、藤井が寝返りを打って「ううん・・・」と目をこするので、思わずじっとして、見守った。・・・まだ寝てたらいいよ。俺の顔なんか見たくないだろうし、もうちょっとしたら、出て行くからさ。
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