第123話:ぶつけた本音と、流れた涙

「・・・もしもし、聞いてる?」

 少し、心配と苛立ちが入り混じった声。「ああ、聞いてる」と返した声はもう、あまりに冷たかった。

「そういう、わけだから」

「どういうわけ?」

「だから・・・。もう、いいよ別に。何でもない」

「・・・何だよ。何なんだよお前。急に無視したかと思えば、あっさり謝って、そんで逆ギレ?別にいいけどさ、何の説明もしないのは、俺に対する嫌がらせ?」

「・・・嫌がらせ?何で俺がそんなこと」

「知らねえよ!わかんないんだからしょうがないだろ!ないアタマ絞って、それしか出てこないのを馬鹿にしてんの?」

「・・・してないって」

 黒井が少しキレたけれども、鼻息混じりの笑いで返した。・・・本気で言ってんの?隠しといてなんだけどさ、本当に何も気づいてないの?興味があるとか言っといて、お前こそ、どんな上辺で俺を見てたの?

「あーあ、中のお前は何でも喋ってくれんのにさ。お前はいつも、素直じゃないね」

「・・・何それ、何のこと言ってんの?」

「お前の中の、いろんなお前」

「あのさ、俺が知らない俺のこと言うのやめてくれる?その上そっちの方がいいみたいなこと、それこそ、俺に対する侮辱?」

「・・・かもね。だって、あんときのお前だって、マヤちゃんだって、何か、近いもん」

「・・・近い?」

「そう。俺が思う、ふつうの距離感。溝も壁もなくて、遠慮も建前も上辺もない、立場も、ルールも、常識もない、そういう世界!お前みたいに、出来ないとかするわけないとかしなきゃだめだとか、そんなのない世界!」

「・・・あっそう!それは素敵だね、良かったね!いつも俺は文句ばっかでごめんね。頑張らなきゃ何も出来なくて悪かったね。歯を磨かなきゃ寝ることも出来なくて、申し訳ないね!!」

「じゃあいい加減言ってみろ!どうして俺を無視してた?本当は何かあるんだろ?・・・遠慮すんな、言われたって直しもしないし反省もしないから!」

「はっ、殊勝なこと言っといて、何だ、教えてもらって反省もしないのか。じゃあ何のために訊く?状況を改善する気がないなら、いったい何がしたいんだ?」

「だから、それは」

「知りたいだけ?ただ自分の周りの出来事を把握したいだけ?自分以外の他人の感情が正しく認識できるなんて、おい、ただの思い上がりだぞ!」

「ああ、そうやって思い込んでお前は何も訊かないんだな?正しくなきゃ何もしたくないんだ。あのね、正しさなんかどこにもないって俺だって知ってるよ。でもいいんだよ、そんなの、俺の気が済めばそれで!!」

「へえ!そうやって自分ばっかだから嫌われたんだろ!」

「・・・」

「・・・ごめん言い過ぎた」

「ははっ、謝るの早すぎ。言ったじゃん、傷つきゃしないよ。それが真実かどうかなんてどうでもいい。問題は、それでお前が俺のこと嫌ったのかってことだ。答えろよ」

「・・・嫌ってなんかいないって、最初から言ってる」

「言い訳だ。ちゃんと答えろ」

「・・・」

 少し強くため息をついた。あとからあとからわきあがってくるこれが、怒りなのか興奮なのか、もどかしさと苛立ちばかりが募ってもうさっぱり分からない。急に静まり返った部屋で、耳鳴りがした。

 仕方ない、何も分かってないお前に教えてやるよ。ただし嫉妬のことは隠したまま、それでも、嘘だけはつかずに。

「・・・その」

「何?」

「その前に、一つだけ訊きたいことがある」

「何だよ」

「・・・ゲージ対称性っていうのは、結局何の対称性なんだ」

「・・・は?」

「ゲージ場ってどんな空間のこと?歪んでるって、重力?」

「な、なに?」

「お前は分かってるの?理解出来てるの?ねえ先生、先にそれを教えてよ」

「は、はあ?な、何だ急にゲージ場の話って、いや、確かに難しいし、本当の理解は、出来てないけど」

「あっそう。まあ、そんなもんか」

「どういうことだよ」

「あのね、俺は、大それたことを考えたんだよ。領域拡張もいいとこだ。ゲージ理論を、素粒子を、理解して、お前に教えようなんて」

「・・・え?」

「理解するまでお前と口を利かないって、まあ、勝手に決めた。本当は、今も喋っちゃだめなんだ。だって理解なんか出来てない。到底追いついてない。たぶん数学の基礎が欠けてて、認識できない部分が大きすぎる。・・・まあ、ブラックホールに比べたらミステリのにおいもしないけどさ、でも、嫌いじゃないよ」

「・・・よ、よく、わかんないんだけど。え、口利かないって、何で?何でそうなるの?」

「そこまでの説明責任はない」

「はあ?それは言わないわけ?」

「とにかく、不愉快な思いをさせたなら謝る。誰だって、理由も分からず無視されたら気持ち悪いもんな。余計な気も回させた。すまん」

「・・・何回言わせんだ。そんなのは、どうでもいいって」

「でもそれ以外に俺が謝る点なんかない。これ以上、言う必要はないと思う」

「・・・いい加減にしろよこの石頭!その頭蓋骨叩き割ってやろうか」

「1400グラムの脳味噌を見たって、説明はしてくれないよ。でもまあ、俺も見てみたいから割ってくれていい」

「何なんだお前、俺を馬鹿にして楽しんでんの?それならもっと楽しそうにしろよ!」

「心外だな。そんなこと言われる筋合いない」

「また筋か。・・・不思議だね。お前さ、どうしてそんなんで俺と付き合ってこれたの?」

 ・・・。

「・・・付き合って?」

 ・・・つきあって、なんか。

 つきあってなんかないだろ。告白もしてないし、されてないし、恋人でもないままずるずる一緒にいるだけだ。でも、ちょっと、もう、それじゃあ満足できない。ここ最近の欲求不満は結局それだ。思わせぶりで、焦らすようなことばかりされて、だからってそれ以上は踏み込めなくて、どうすることも出来ないまま自分を慰めるばかりだ。

 ・・・俺と、つきあってよ。

 ちゃんと、本当の意味で、つきあってよ。そう、言っちゃおうか。

 ・・・。

 でも、本当の意味って何だろう。黒井が言う<付き合う>と僕の言おうとしてる<つきあう>は違う。・・・本当の<つきあう>って、何だ?告白して、両想いになって、デートして「愛してる」ってささやきあうこと?ラブホでエッチして朝帰りすること?毎晩必ず電話して、メールにハートマークをつけること?・・・そんなことを、黒井としたいのか?

 もちろん、そうなったらなったで舞い上がるんだろうけど、どうしても、違和感。そんなのは黒井じゃないし、僕でもない。でもじゃあ、僕は<つきあう>に何を望んでるんだ?どんな定義でそれを想起してる?

「・・・まさか、付き合ってもないって言うわけ?あんとき、友達になろうって言ったの、お前じゃん。なに、お前の中では、友達にはこれ以上言うべきじゃないって範囲でも決まってんの?それでも義理で、ここまでは一緒にいるべきとか、そういう動き方なの?え、俺がすごい馬鹿みたいってこと?今まで、ずっとカンチガイしてたってこと?」

 ・・・くそ、もうスイッチは押されてるのに、言えないのか。その通りだ、お前のカンチガイだよ。僕はお前が思うような<友達>じゃない。だって俺は、お前のこと・・・。だから、やっぱりお前が正しいよ。

 ・・・この期に及んで、また正しさなのか。はは、僕はいつまでも僕だ。そう、だから言わないんだよ。このままでいたくないのに、このままでいたい。友達との喧嘩の先には仲直りがあるだろうけど、それを告げて、友達じゃなくなったら、仲直りとかなくて全てが終わるかもしれないんだ。そんなのは嫌だ。絶対嫌だ。お前がどんなに怒ったって、僕のことを嫌ったって、それでも、それでもなお、嫌なんだ。お前に「それは無理」って顔でサヨナラされる人生より、お前に嫌われて、罵られる人生の方が百倍、千倍いい。僕を僕でいさせてくれ、お願いだ。涙が出てきて、喉が熱い。唇を噛んだ後、震える声を搾り出した。

「お、お前は、お前で、動けよ。その意味不明な理屈で、一緒にいたけりゃいて、嫌ならどっか行け。友達ならこうすべきとか、ないんだろ?だったら、それで、いいじゃんか。勝手にしろ、何も問題なんかない。したいことして、生きていけよ」

「・・・泣きながらそういうこと言うわけ?馬鹿じゃない?」

「馬鹿で結構」

「あのさあ、お前、そんなに壁作って面白い?ねえ、俺ってそんなに、・・・つまんない?」

「・・・は?」

「物理をやり直したって、だめなわけ?やっぱり中身がないから?お前は、素粒子は好きになっても、やっぱり俺に興味ないんだ。あのね、あの流れ星を見たときみたいな、何でも出来る感覚が、もう俺の中にないんだよ。表向き何でも出来たって、本当には何にも出来ないんだ。だんだんなくなっていって、あの時<コペンハーゲン>を降ろされて、ついに消えたんだよ。俺は何も特別じゃなくなって、何にもない、つまんない人間になってる。今お前が言ったみたいな、勝手に、したいことして生きてる俺は、本当はいないんだよ。またそうなりたいって、失った理想を貼り付けてるだけだ。それがあった頃の中身を思い出して、一生懸命掲げてるだけなんだよ!」

 ・・・。

 沈黙が流れて、電話の向こうで、涙も流れたみたいだった。

 そこまで言わせてごめん、と思った。そして、流れ星を見て、宝石みたいな記憶だって微笑んだお前の顔を、ちゃんと思い出した。

 でも、雪の中で綺麗な唄を歌った俺の魔法の石は、もう、光ってなかったってこと?

 怒りや憤りがすうと引いて、今すぐ黒井のことを抱きしめたくなった。何だよ、あの写真の中で「したいことするだけじゃん!」ってウインクするお前は、ただそうしたくてしてたんじゃないの?頑張ってそういう仮面をかぶって、今日の僕を励ましてくれたの?・・・でも、たとえ中身のない主張だったとしたって、僕は確かにその、お前の奔放で綺麗な中身を感じて、そこに惹かれてるんだ。だったら、それって本物じゃないか。相互作用して、実験の記録に残ったなら、計算上の仮想粒子だって現実の理論に組み込まれるんだ。

 大丈夫だ、その大切な何かはなくなったんじゃない。そうであってほしいという願いも確かにあるけど、でもきっとそれだけじゃない。炎が消えたんじゃなくて、きっと部屋が狭いだけだ。酸素がなくなって、消えそうになってるだけだ。お前にこの世界は狭すぎるんだよ。帆船に乗って、錨を上げて、冒険の海に漕ぎ出すべきなんだ。僕がどこにも行けないのとは、ちょっと違う。お前は間違った場所に生まれただけだ。僕とは、違うんだ。

 すっかり息も落ち着いた黒井の声が「・・・ねえ」と僕を引き戻した。

「・・・うん?」

「だから、さ。お前が何にも言わないで、俺を避けて、離れていくんなら、・・・やっぱり俺は戻れないってことなんだよ」

「だから、そんなこと」

「ようやく見つけた友達一人繋ぎとめておけなくて、お前もみんなと同じになるなら、俺はもう誰とも関係を築けないんだ。一緒にやってって言ったのに結局いつもお前は一人でやって、俺のこと、分かってないくせに見透かしてるんだよ。中身がないって、本気になったって失ったものは戻らないって、離れていくことでそれを俺に思い知らせてるんだよ!」

「誰がそんなこと言った!一人でやって悪かったよ。何も話さなくて悪かった。でも、お前は・・・、なくなってない。きっと、・・・出来るよ」

「何で?どうしてそんなこと言えるの?」

「分かるから。感じる、から」

 それ以上の具体性は何もなかった。たとえ今は輝きを失っていたとしても、お前は俺の魔法の石だから、なんて、言ってもしょうがないし言えるわけもない。しばらく返事がないからいろいろ言葉を探したけど出てこなくて、でも、なぜか黒井は納得したような声を出した。

「そうか。それなら、そうなのかも」

「・・・ごめん、うまく言えなくて」

「反対だよ。お前が理屈じゃないこと言ったからさ、きっとそれは合ってる」

「・・・ひどい言われようだ」

「自業自得だよ」

 ・・・。

 少し笑って、黒井も笑った。

 たぶん僕は僕で勝手な理想を押し付け、黒井も同じように、僕の行動に勝手な解釈を施している。噛み合っていないのに、でも結局は、同じことのような気がした。二人とも、得られない何かを夢想して、自分にそれが出来るのか、出来ないのかと、一喜一憂して生きている。どこへ行けるのか、何が出来るのか、ともすれば単なる現実逃避のそれを、ホログラムのように現実に映し出して、でも手を伸ばしても触れないから、苛立ちと、焦燥。僕たちはもう未来を自由に思い描く少年じゃないし、将来何になるかを夢想するような歳でもない。それでも、<本番>をやったり雪の上で寝たりして、日常からはみ出せば期待してしまう。たぶん僕は、黒井のその何がしかの期待から外れた行動をしたんだろう。それだけのことだったんだ。だから僕側の理由も関係ないし、その理由で黒井が傷つくわけでもなくて、うん、やっぱりお前は自分ばっかりだ。僕の恋心なんて関係なくて、俺様なだけじゃないか。・・・どうかそのままでいてくれ。僕の気持ちに気づかないまま、好きなときに好きなように、僕を振り回してくれ。

「あのさあ、・・・本当に腹が立つけど、どうしてかは訊かないからさ。教えてよ、ゲージ理論」

「・・・だから、人の話聞けよ。理解できてないって」

「いいよもう、俺だって難しくてわかんないんだよ。とにかく相互作用の場だってことでしょ?っていうかさ、そこ考えなくたって、ファインマンダイアグラムだけでよくない?」

「おい、場の概念を理解しないで、そこで起こったことだけなぞったってしょうがないだろ?」

「そんなことより、結局、非可換関数だから対称性が破れるってこと?」

「何か乱暴なまとめだな。それって弱い力の場に限った話をしてる?」

「あはは、通じてないよ。通じてるけど、通じてない!」

「し、仕方ないだろ。虫食いだらけの理解で、階層がぐちゃぐちゃなんだから」

 ・・・ああ。

 本当だ。僕たち、通じてるけど通じてないね。

 完全に理解して、階層が整理される日なんて来るんだろうか。そうなりたいけど、ならなくてもいいか。だって、理解していく過程が楽しいんだ。昨日分からなかったことが、今日分かっていくのが、嬉しくてしょうがないんだ。

「ねえ、やっぱりお前の方が向いてるのかもね。もう、俺がやるべきこともやりたいことも全部代わりにやってよ。そんで、俺お前を食っちゃうからさ、そしたら素敵な中身が手に入る」

「・・・く、食うのかよ。ああ、肉を切るときは、繊維に沿ってだな、刃を引くときに・・・」

「ばーか。お前、ばーか!」

「うるさい、ちゃんと聞け!」

 突然ピーピーと音が鳴って、携帯が死ぬ合図。「あ、切れる」「おい、切るなって、急げ!」「わ、分かってるって!」僕は慌てて充電器を突っ込んだ。いつの間にか、夜が明けそうだった。

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