第138話:情緒不安定は続く
お局様が、どこかから来た男性に僕のことを尋ねられ、「ああ、データがないって仰るのでね、探してもらってます」と事もなげに話していた。「だって、団体のフォルダになければうちとしてもあるはずないって申し上げてるんですけどね」・・・っていうか、そういうの、僕に聞こえるところでわざわざと言わないでくれる?あの人の性格からして悪気もないんだろうけど、気まずいったらない。
その後はしーんとしてしまったオフィスでひたすら資料をあたり、関口が全部見たのであろうフォルダを変にいじらないよう注意して一つずつ確認した。・・・ここにないとしたら、ここだけミスで抜け落ちるなんてこと、運用上あるはずないんだから、最初からないんだよ。詳しくない僕でもそれくらいは分かる。余程おかしなことしない限り、勝手になくなったりはしない。
針のむしろみたいな場所でひたすらPCを睨んで、それでも自分の目で絶対ないことを確認し、最後のフォルダを閉じた。もう、18時を回っている。こうする以外の頭は回らなかったのか。客先で絶対にないファイルとフォルダを、よりによって関口が見たあとのそれを全部見返して、ここで今判をもらえなければ本当に枠外だ。関口だけじゃなく、四課の枠外になる。
もう、ぶつかるしかない。
何だろう、こんなの馬鹿らしいって、思ったのに。
たかが検収書一枚、紙切れ一枚に、何を振り回されてるんだ。
見栄とか意地とか、体面とかプライドとか、本来はいらないものをどっさりと背負って、こうして唇を噛み締めてみじめな顔で、マウスを持つ手も小刻みに震えている。情けない。もういいやって、そんなものないって思ったはずの<自分>ってやつを、それでも守ろうとしている。少しずつ手を加えてきた粘土細工もどこかへやってしまったはずなのに、三末以降のことは考えないって思ったのに、・・・やっぱり、怖かった。
四課の枠外になるのは、怖い。
三課の中山が経営企画へ行くのであれば、道重課長だってどこへ行くか分からない。隣の横田だってどこかへ行くかも。関口ももうフォローしてはくれないかも。会社なんか、会社の人なんか、ってずっと思ってきたのに、いざとなると、「どうでもいっか」だなんて思えなかった。だって会社の他に、何も、ないんだ。四課のあの机以外に僕の居場所なんかない。こんなもの抱えて、自分でも見たくもない本音なんか、客先の相手に言えるか!誰だよ、本音で話してくれれば協力する気にもなるのにねとか言ったのは!
・・・。
ここでわめいてても、しょうがないか。
もう、意地でも判をもらうだけだ。
・・・その意地が、話を余計ややこしくするって、自分で批判したくせにね。ああ、しょうがないよ。人間、追い詰められたらもうそれしかなくなるんだ。ここでぎりぎりと睨むような目つきをやめて、何事もなかったように微笑んだら、本当に深刻なことなんかなくなるだろうか。でもだって、そもそも深刻な問題なんて何ひとつ起こってないんだよ。っていうか判を押されないほどの事態なんかどこにもないんだよ!あの人が昔のこと蒸し返して、つつかなくてもいい重箱をほじくりかえしてるだけで、現場の事務のお姉さんたちなら「あら、ないわ」「じゃ、作っちゃいましょうか」で終わる、そんだけのデータなんだよ!
「あの、少しお話、よろしいでしょうか。ちょっと時間も遅くなってしまいましたが」
「あ、私は構いませんよ。どうですか、ありましたか」
「いえ・・・見つかりませんでした。やはり、ないようです」
「そう、ですか。でも何度も申し上げているとおり、うちとしてももう全てお渡ししましたのでね。失礼な言い方ですけど、もう少し、上の方に来ていただいて、探していただいたら・・・」
「・・・ありません。僕はともかくですね、さっき来たのがうちでも一番の人間ですから、彼がやってないなら弊社ではどうすることも出来ません」
「・・・出来ませんと言われれば、どうにかしてもらうか、白紙に戻すしかなくなりますね」
「しかし、今現在運用はスタートできる状態まで持って来てあります。そのデータの部分がいつ必要になって、どれだけの頻度なんですか。どれだけの支障になるんですか」
「それはそちらには関係ないでしょう。10%だろうが0.1%だろうが、完璧でないのなら同じじゃないですか」
「では本当に、データの渡し漏れではないんですね。万が一にも、そちらから出てくることは100%ないんですね」
「だからですね、もしそうだとしても、その時点でのそちらのチェック漏れだと申し上げてるんですよ。どういう管理をなさってるんですかと。今更こういう問題が持ち上がってくること自体、どうなってるんですかということです」
「だからどうもなってないんですよ。データを見つけたいんですか、そうじゃないんですか。見つかって運用が100%になっても納得していただけないならこんなところでこんなことをしていても無駄です。お互い時間の無駄ですから、はっきりしましょう。どちらですか」
オフィスの全員が、僕たちのやりとりの成り行きを、息をひそめてうかがっていた。
何となく、向こうのフロアの「鬼の小野寺」を思い出して、雰囲気は似ているけど小野寺の方が全然頭がいいなと思った。時間をかけずに落としどころにきっちり持っていく。通す筋は通し、妥協できるところは前向きに水に流す。あくまで未来の目標志向の小野寺に対し、こちらの女性は過去しか見ていない。本当に、過去を検証する仕事に就けばいいのに。
誰かになりきりでもしなければ、自分の考えや意志でこんなところに立てはしなかった。なんたって、僕の粘土はもうぐにゃぐにゃで、崩壊寸前、風化寸前なんだから。
その時、フロアの電話が鳴り響いて張り詰めた空気を破り、止まりかけていた時間が動き出した。そして、事務のお姉さんが二人連れ立って、おずおずと女性の元にやって来た。
「・・・あの、たぶんそのデータ、年末で辞めた栗山さんの、引継ぎ漏れかと・・・」
「年明けで整理したときに、何だろうってなったんですけど、そのまま、宙に浮いちゃった感じで・・・」
・・・。
やっぱり、そっちが持ってたんだ。
関口が見たんだ、あるはずがない。こっちで消しちゃったはずもない。
・・・勝ち誇った気持ちは、わいてこなかった。女性に対し、ほれ見たことかと罵る気持ちもなかった。お願いだから判だけついて、無事に持ち帰らせてほしい。人助けだと思って、頼みます。もうただただ、紙切れが欲しい僕だった。
データのあるなしの問題ではないと言いつつも、「データのリカバリが済んで、運用が完璧なら判を押すと先ほど仰いました」とつきつけた。「押すとは言ってません」と言われるかと思ったけど、何だかあっさり、「分かりました」と素直に認めた。
「ではデータを組んでいただけますか」
「もちろんそのつもりです。もう少し、お時間大丈夫ですか」
「はい、ここは八時半には消灯してしまいますけども、それまでならおりますから」
「そんなにかからないと思います」
はは、言ってはみたものの、ほとんどやったことないんだよね。どうしよう。
また関口に電話で聞く?課長にヘルプ?・・・こんなときのためにマニュアル持ち歩いてるんだ、ちょっとくらい、出来るだろ!
たぶん、突っ込むフォルダさえ間違わなければ、五分もかからない。見てみれば、本当に大したデータ量じゃないのだ。展開の階層を間違わなければ、何ともないはず。
・・・ここ、以外ない、と、思うけど。
どうしよう、心配になってきた。でもこれを口頭で説明するのも大変そうだし、思いっきりここの人たちに見守られながら、電話で指示を仰ぐのもかっこ悪い。
もう、やっちゃうか。えい!
ドラッグアンドドロップで突っ込むと、何事もなく拡張子がつけられ、そこに収まった。それだけの話だった。今度は安心で、また手が震えた。
「はい、どうも、ご足労戴いてありがとうございました」
「いえ、こちらこそいろいろと。今後とも宜しくお願いいたします」
「はい、それでは失礼致します」
丁寧に見送られて、外に出た。
これだけ振り回されて、結局何だったんだこのやろう!と毒づきたくもなるが、もらうものをもらってしまえば挨拶以上の言葉も出なかった。ああ、何かを搾取されている人の気分。
最初は、帰社したらくす玉割ってよくらいの勢いだったが、だんだん、別に本来取るはずだった検収書を取ってきただけで、特別な手柄など何もなく、っていうかむしろ手際が悪くて展示会にも行けなかったってだけの話かもしれないと思った。
帰社したら案の定、別に総出で出迎えてくれるわけもなく、残業真っ盛りの通常営業だった。課長に「遅くなりました、取って来ました」と言うと、「おう、ご苦労!」で終わり。な、何だよ、あれだけ電話で切羽詰まった感じだったくせに。
いじけて関口のところへ行き、「また最下位からお願いします」と言うと、「あっそ」でこちらも終わり。何だよ、ここのフロアでは僕に優しくしない決まり?
席につくと何となくみんなぴりぴりしていて、僕がいない間に何かあったのかもしれなかった。まさか何かの人事通達?慌ててメールを見るけど、特に何もなし。それとなく横田を見ても、新着情報は何もないみたいだった。
そしたら課長に「ちょい、山根」と呼ばれ、行くと展示会の話だった。
「あのね、明日だけど」
「ああ、午後行きますよ」
「あのね、一日行ってきていいから。直行直帰で」
「・・・へ?で、でも、午前中は納品が」
「うん、あれね。ほら、今日の件で、また明日もどうなるかわかんなかったから、ちょっと別に頼んどいたんだわ。だから、お前さんは一日羽根伸ばしていいから」
「・・・そ、そうなん、ですか。あ、もっと途中報告すれば・・・」
「いいからいいから。もう、無事取って来たわけだからね、それでいいのよ。今はもう、計上を積み上げるのみ!」
「は、はあ・・・」
「以上!」
「は、はい・・・」
僕は机に戻り、明日の段取りを羅列していたPCのメモ帳を保存せず閉じた。
・・・ねぎらわれてるのか、枠外通告なのか、さっぱり分からない。
とりあえず、耕うん機の卓上カレンダーを手元に取って、三月の営業日があと何日か数えた。水、木、金、そして月曜で終わりだ。あと四日。あと、四日。
とにもかくにも三月を終えるという僕の目標に対し、四日というのは短いのか、長いのか。そして明日は直行直帰の展示会なのだから、正味三日か。それなら、短いか。
もう、どうでもいいやと思ってガムを口に入れ、何だかまずくてすぐに吐き出した。・・・あの、誰も僕の武勇伝とか聞いてこないんですけど。あんだけ頑張ったのに、何にもないんですけど。・・・うざい、死ね、という関口の罵倒が聞こえるようだった。うん、まあ、うざいよね。客先であったちょっと大変なことを十倍に盛って話してくるやつ、うん、うざい。ずっとそう思ってきたし、だから自分でも言わなかった。言いたいなんて、まあゼロとはいわないけど、こんなに切実には思わなかった。誰でもいいから、言いたくて、聞いてほしくて、認めてほしい。どうしちゃったんだろう、自分。<嫌だな、こんなやつ>と思ってた、まさに嫌なやつになりつつある。自分という粘土細工を見失ったどころか、どんどん改悪されている。
おいおい、また、情緒不安定?
・・・トイレに逃げる?いや、逃げたらたぶん帰って来れない。
何でだろう、少なくとも検収書は持ち帰ったし、頑張ったはずなのに、誰からも賞賛されないし、そして、自分でさえ「よくやったよな、自分」と言ってくれない。それどころか、また、危うい綱渡りでキレるか泣くかしそうになって、落っこちそうになっている。仕事をうまくやってもだめなのか?自分を取り戻さないとだめなのか?・・・何だよそのお題目のようなせりふは!だめだ、だめだ、落ち着けって!!
・・・。
あと四日だ。それだけだ。
僕は、今やってもどうせあとで全部書き換えるだろうなっていう見積もりを、丁寧に作りはじめた。
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