第15話:クリスマスイブにキスして

 目の前で次々とビールやチューハイの缶が空いていき、汚く食べ散らかしたケーキの横にはクリスマスに似つかわしくないスナックやつまみが並んでいた。

「あ、ケーキにローソク立てなかった!」

「ローソク?別にいいんじゃねえ?ってかそれ誕生日だし」

「えー、そうだっけえ?」

「クロ、お前いつ誕生日なの」

「五月」

「ふうん、じゃ俺より先に年食うんだ」

「え?いや、たぶんもっと食ってるよ」

「え、そうなの?」

「俺みんなより2こくらい寄り道してるからねー」

 ちょっと、驚いた。

 別に、社会人になって年齢がひとつやふたつ違っても気にする話でもないが、黒井が二つも年上だったなんて。

 僕が高校一年の時、三年だった人ってこと?

 しかし、理由とかは何となく突っ込んで訊けなかった。

 ああ。もしかしてみんなはそれを知っていて、それで「黒井さん」だったのかなんて、今更思い当たってみたりする。

 みんなは知っていて、僕だけ知らない、黒井のこと。

 きっとまだまだあるんだろう。少し胸がきゅっとなるが、今年のクリスマスイブはとにかくこうやって、黒井の家でふたりっきりで過ごしているんだから、もうそれで良しとしようじゃないか。みんなが知っているプロフィールを今更知ったところで、この事実には及ばないんだから。

「ほらほらねこ、もっと飲んで?」

「だから俺、寝ちゃうから」

「もー、困ったやつだなー。ほら、少しずつ強くなんなさい」

 自分が飲んでいた氷結(レモン)の缶を僕の口に押し当ててくる。急に年上の人という認識が追加されたせいで、「やめろよ酔っぱらい!」と押し退ける腕がつい出なくて、そのまま「んぐ!」と飲まされてしまう。別に、年なんか関係ないのに、癖というか、習性はおそろしいものだ。

 しかし、今後もずっと、「この人は年上なんだなあ」と思いつつ、お前だの黒犬だのクロ公だの呼んでいくのは、ちょっと、背徳的というほどでもないが、密かな優越感みたいなものを感じた。


 黒井がトイレに立ち、微かな小便の音を聞くともなく聞きながら、あ、明日ここから二人で会社に出勤するのかと気づき、思わず「うおっ」と声を上げた。

 な、何て事だ。

 このあいだは僕がほとんど記憶がないまま寝てしまって、翌日二日酔いの黒井を置いてさっさと帰ってきたわけだが、今度はちょっと事情が違う。

 まあ、たった6、7時間後のことなのだが。

 ・・・。

 何だかまずいので、これから朝までのことを頭から追いやる。また、普通に寝て、目覚ましで起きて、終わりだ。電車に乗ってしまえばいつもの出勤だ。勝手に鼓動が早くなってくるが、深呼吸で抑え込む。いけないいけない・・・。

 今日はどんなにほろ酔い気分になっても、黒井に絡むのはタブーなのだ。

 あの、坂本の言葉。

 もちろん冗談半分にからかっただけだろうが、あの酔った黒井のべたべた上戸を見れば、そう思っても仕方ないだろう。

 ・・・え、もしかして、さっきも、望月や榊原相手にアレをやってたのだろうか?

 いや、今日はそこまで酔っていないし、一杯しか飲んでいないと言っていた。そうだ、一瞬猛烈な嫉妬を覚えたが、大丈夫だ、それはない。

 まあとにかく、前後に何があったにしろ、坂本の言葉に黒井がキレたというのは本人が言うところであり、真実なのだ。

 きっと黒井も自分で少し分かっているのだろう、酔っていなくてもべたべたしたところがあるということを。それで自分でも気にしているところにそんなこと言われたもんだから、ついカッとなったのかもしれない。

 だから、今日はどんなに酔って盛り上がっても、せめて僕からは、おふざけでもそういう言動は慎むことにした。

 本人が何の気もなくやっていることを「そっちの気がある」なんて受け取られて、キレたわけだから。

 つまり、絶対そんな風には思って欲しくないというわけで。

 その上での、さっきのファミマの前での、「変な気持ちにならないで」なわけだ。自分はスキンシップが多い人間で、しかもそういう奔放な感情を抑えられないところがあるけれども、変な受け取り方はやめて、と。

 ・・・うん。

 ああ、そうか。

 こうして考えを整理してみて気づく。

 最初はただ、傷口に触れて藪から蛇を出してしまったら、黒井が僕とじゃれあうのもやめてしまうだろうと思って、気をつけようと思っただけだった。

 でもこれって、ものすごく純粋に、そして誠実に、振られてるんじゃないだろうか?

 あれ、最近多いなあ。参っちゃう。

 これで、僕が黒井の行為に興奮を覚えたりしたら、黒井の気持ちを尊重するどころか、それを知りながら無視して傷つけてるってことになるじゃないか。

 感情の振れ幅が大きくて、しかも自分でそれを抑えられないことを自覚していて、なおそれを勘違いしないで付き合ってくれる友人を、彼は欲しているのではないだろうか。

 うん。

 もしそうだとしたら、僕は失格どころか、むしろ敵だ。黒井にとって僕は悪だ。

 あの時のあれを思い出しながら、あんなことまで、したんだし。

 ・・・。

 うん。

 ただ。

 最後の希望が、ひとつだけある。

 それは、僕が絶対に自分の劣情を外に出さず、彼の理想とする友人を演じ続けることだ。半永久的に。

 人の頭の中だけは、覗けないのだから。

 僕は今後、手帳や何かのメモに黒井とのデートを記録するのも、カシミアを布団に持ち込んでいるみたいな変態行為を匂わせる言動も、一切禁止だ。

 もちろん、黒井が抱きついてきたって、たとえキスしてきたって、興奮のあまり理性を飛ばしてしまうのも禁止。

 まるで、鶴の恩返しみたいに。

 タブーを犯さなければ、鶴女房は反物を織ってくれる。

 ただ、もし見てしまった、その時は。

 僕の場合は、もし見られてしまった、その時は。

 何だよ、あんた(鶴女房の旦那)は自分が覗かなければそれで済む話なんだから簡単じゃないか、この根性なし。こっちは、刺激に対する反応だとか(「あの感覚」で腰が抜けるのも禁止)、もちろん生理的なことまで我慢しなきゃなんないんだぞ。

 ・・・。

 それさえ守れば。

 僕は黒井を裏切りながら、裏切らずに一緒にいられる。

 うん。

 毎日めまぐるしいなあ。人生の鍛錬。

 しかし、僅かな望みだってある。

 つまり、僕からのおふざけ以上の行為は禁止だが、黒井からの行為を受ける分には、セーフだってことだ。

 たとえばこないだ玄関で押し倒されたときみたいな、幸運な偶然。

 そういうのを、待っていれば、幸せになれる。

 それにもし、黒井がその「抑えらんない」感情の中で、僕に対して何がしかの「そういう」行為をしたいような気持ちになった時は。

 そこまでされたら僕だって、生理現象が起こっても、さすがに不可抗力なのだし。

 甘んじて、受けたって。

 う、どっちにしろ僕には、抱かれる側の選択肢しかないわけね。ああ、願ったり叶ったりじゃないか。やってやろうじゃん。

 そうして、黒井が部屋に戻って。

 隣に座って、体を寄せてきて。

 ものすごい試練。

 「あは、少し酔ってきたかも」、なんて。

「お、おい。クロくん、飲みすぎだよ。明日会社だよ」

「いいじゃん。一緒に休んじゃお?このまま、ずっとこうしてればいいよ」

 もたれていた体がずるりと落っこちて。

 僕の、膝の上に。

 おい、俺、もう白旗か?降参するには、まだ早いだろ!



・・・・・・・・・・・・・・・



「そーらよ。いーじゃんか。お前にかんけーねーだろっつーの!」

「うんうん」

「だろお?俺がさ、ねこの手え握っておねがいごとしたってさ、どーしてあいつに何かいわれなきゃらんねーの?」

「まったくだ」

 坂本が見たのは、あのタイムズスクエアデートの日、甥っ子のプレゼントを一緒に買うよう頼んでいる黒井の姿だった。あれだけで「そっちの気」とまで言われてしまうのは、僕としても心外だった。ただ、もしかしたら、黒井の行為ではなくて、嫌がっていないどころか悦んでいる僕のオーラがにじみ出していて、そう感じさせたのかもしれない。

 そして、上半身をベッドに突っ伏した黒井はくだを巻き続ける。

「俺がさ、ねこに抱きつこうがキスしようがさ、おれの勝手じゃん。なあ、そおれしょ?」

「おっしゃるとおり」

 そ、そんなの、うん、黒井の勝手です。はい。

 床があるのに地底に落っこちそうなほど、腹は透けるし腰は抜けるし、もう体ごと空っぽになりそうだ。

「もーほんとあいつきらい。望月もサカキもさー、全然フォローしてくんねーの。いや、そんくらいふつーじゃないすか?とか、言ってくれればいいのにさあ」

「そうだよな、普通だよ」

「なんかさあ、えーそうだったんすかーとか、きゃー俺を狙わないでーとか、茶化してきてさ、おまえなんか狙わないっつーの。ねえ?」

「うん、そーだそーだ」

「・・・あのさ、ねこはどう思ってんの」

「へっ?」

「俺のこと。そーゆーふうに見えてんの?」

「そ、そんなこと」

「そーだよねえ?ねえ、ほら、俺やっぱふつーじゃん」

「そーだよ。ふつーふつー」

 冷や汗すら出てくる。この際、もっと酔わせて、酩酊させた方がいいかもしれない。

「ほら、もう一杯。ぐっといっちゃって」

「あ、そーお?」

 渡したビールを飲み干す。大丈夫かな。

 口の端から垂れていく、液体。

「たれちゃった」

「し、しょうがないな」

 ティッシュで口をぬぐってやる。別の意味で拷問だ。

 そして、唐突に。

「ねこ、キスしよっか」

 ・・・。

 ひいいいい。

 だめだめだめ。

「クロくん、あのね、今夜はクリスマスイブなんだよ。分かる?聖夜なの。そんな夜にね、男にキスしてたら、あとできっとむなしくなっちゃうから。ね」

 もっと酔わせようとしたのが裏目に出たか。

 い、いや、ここは僕にとっては、いいことなのか?

 ああ、覚えてなければ、何をしてもいい、か?

 僕がバカになっていく頭を高速回転させても、黒井には追いつかない。

「キスくらい、いいよねえ?ねえ?」

「そ、そうかな、どうかな」

「こないだだってさ、してくんなかったじゃん」

「へ・・・?」

 くんなかった、って・・・。

「俺さ、すんのかなって、待ってたのに」

「な、何で待ってたの?」

「すんのかなーって、おもったから」

 ・・・?

 理由になってない。

「し、したら、本当にしてたら、ど、どうなったの?」

「べつに。どーもなんないよ。どーなっちゃうっていうの?ねこはどーなっちゃうの?」

 体を起こして、口をとがらせて僕を見据える。ふらつきながら、立てひざになって、こっちに、え、まずいって。どーなっちゃうのかは、見せらんないんだよ。

 何だ、こいつは、本当に、そういう行為に対しての意識レベルというか、こう、外人がハグとか軽いキスをするような感覚なんだ?

 べ、別に、そんなら、してくれていいけど・・・。

 あ、だめか。僕がそれに対して劣情を覚えては、いけないのか。

 ・・・そんなの無理だろ。

 っていうか、ん?

「おい、クロ。まさかお前、他のやつにもキス迫ったりしてんの?」

「あ、ねこもおれのことわるくいう?」

 つい、怒りが出てしまったか。

 そんな涙目で見られたら、怒れないけど。

「い、いや悪く言わないよ。そうじゃなくてさ、ほら、その、女の子とかさ、酔った勢いでキスとかしたら、セクハラだしね?」

 苦しい言い訳。

「・・・びんた食らうからやめた」

「は」

 やったのか。

「あっちから近寄ってきといてさあ。おんなってうざい」

 そうですか。はあ、おモテになることで。

 しかし、肝心のことは分からない。僕以外にも、いつも、そんななの?

「クロ、ちょっと酔ってるんだよ」

 僕は黒井の背中をさする。もう、何なんだろう。なかなか扱いに困る黒犬だ。

「なんらよ、キスしないの?イヤ?」

「え、あ、別にね、嫌とかじゃなくて、ほら、俺そーいうの慣れてないから。緊張しちゃうでしょ?お前みたいにモテないからさ、そんなことすんの、久しぶりだし」

 あ、自分で言ってちょっと寂しい。

「ふうーん。でも俺だってぜんぜんしてないよ。会社とかさ、ちゃんとしてなきゃなんないから、おれ、おとなしくしてるもん。すんごい、空気よんだりしてさ」

 え、そうだったの?

 そうだったんだ。

「やっぱりだめだった?おれ、めいわくかけてる?」

「そ、そんなこと」

「・・・もう、泣きそうなんだけど」

 本当に泣きそうな顔で僕を見る。

 ・・・。

 どうしよう。

 自分の中身が、台風の目みたいな。

 超低気圧。

 まずいよ?

 奥の方から、何か、出てきた。

 抱かれたい僕じゃなくて、襲う方の僕。そんなのいたんだ。いや、だめだめ、引っ込んで。

 目が泳ぐ。ふと、カップ酒が目に入った。

 ・・・あ、これ、かな。

 うん、これ、だろう。

 立ち上がる。

 僕は蓋を開けると、一気飲みした。なんか、熱い。

 黒井は何かきょとんとした顔で僕を見上げている。

 お前のせいだからな!

「・・・いいよ」

「え?」

「・・・キス、して」

 ゆっくり、黒井も立ち上がって。

 目の前に立つと、背が高いのが分かるんだ。

 それから、おもむろに。

 ものすごく、強引に抱かれた。

 さっき奥から出てきたやつは、一瞬で消えちまって。

 俺、やっぱり抱かれたいよ。こうやって。乱暴に。痛いほど。

 ずっと、こう、されたかったんだって。ああ、だめだ。身体が、悦んじゃった。

 鶴が、空高く飛翔する。

 僕はたぶん、唇が触れる直前に、気を失った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る