第179話:No Logic

 とにかく、全てをいったん白紙に戻すためにも、写経を続けた。菩提薩婆呵般若心経、まできて、今度は最初から通して書く。途中で気がついて、玄関の鍵だけ開けた。

 一文字ずつ丁寧に、般若心経バラードを聴きながら、ひたすら書いた。

 意図して、何も考えないように、無心、無心・・・。

 黒井の声が、「親父が死んだんだ」と、それもひと呼吸でシャットアウトした。死ぬも生きるも関係ない、今は、この今の今は、手を動かすだけ・・・。

 それはただの先送りだとか、傷ついている風を装って、言われるまま、慰めてもらいたいんだとか、そんなものも締め出した。書くだけ。書くだけ。座禅と同じ、坐るだけ。

 今に集中した。過去も未来も関係ない。自分に言い訳する暇もない。思考はなしだ。書くだけ・・・。

 ・・・いつの間にか、手が止まっている。

 目に、涙が溜まっている。何で?

 手が、震えて、字が、歪んだ。

 何やってるんだ、ここまで綺麗に書いてきたのに、台無しだ。

 何で、何で・・・だめだ、考えるな。書いてる間はそれだけで完結していられる。書いている俺は、この体の主体として、世界の一端でいられる。二千年の叡智を唱える人間の一人として、掲諦掲諦波羅掲諦・・・と、彼岸に呼んでもらえる・・・。

 

 書き終わって、それでも悟りには至らなくて、そろそろ、来るなら、黒井が来るかも、と、もう一周目に入れずに手は止まった。それでも何かを考えないように、ひたすら仮想少女の読経を聴いた。

 それを一緒につぶやきながら、どん、と空気が揺れて、玄関で物音。

 だめだ、考えるな。何もかも、後でちゃんと、整理するから。

 本当は一人で全部考えるんだけど、クロに「来ないでくれ」って言えなかったのは、結局僕が弱いからだ。甘えているし、いや、こんなのただの下心。デリケートな話題で共通の何かを得ようなんて、それで、地図と人生とプレゼントをまだどうにも出来てないことを、うやむやにしようなんて。

「ねこ、・・・な、何してんの」

「・・・写経」

 イヤホンを外して、微かな音が漏れる。歌詞としてはあり得ない、ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー・・・。

 僕は写経ドリルの表紙を上にして、それを見せた。・・・人が一人死ぬって、どういうことなんだろう?

 黒井は隣に座ってドリルを手に取った。ようやく、ジーパンの膝だけが目に入る。ああ、それ、もしかして僕のじゃない?履いて帰ったの、返しにきたの?でも、じゃあ今度はどうやって帰るつもり?

「これ・・・お前、これ、買って、書いてたの?」

「別に、今じゃない。前から、やってるんだ」

「前からって?」

「お前が帰ってくる、前」

「な、・・・何で?」

「・・・えっと、煩悩が、多すぎて」

 腕をつかまれて揺すぶられるけど、目を上げることもなかった。誰のせいでこんなに混乱してると思ってるんだ。色々、考えたくないことが山積み。全部、自分の不甲斐なさゆえ。そんなの見たくないから、もう目をつぶってしまう。カズおじさんをダシにして、悲しんでるからちょっといいでしょなんて、本当、写経ってその瞬間しか意味ないみたい、全然悟れてないよ。

「おい、こっち向けって。ちゃんと、俺見て・・・」

「別に、いいから。大丈夫、ごめん」

 ようやく、腹の辺りを見た。白っぽいYシャツ、何かプリントしてある。つい好奇心で胸まで見てしまった。・・・<No Logic>?はは、お前にぴったりだ。そして、僕に見せるにも、ぴったりの標語かも。

「・・・泣いてたの?」

「え・・・ちがう、よ」

「嘘、つくなよ」

「違うって。泣いてるとか、そんなんじゃない。泣いて、なんか」

「だって」

 黒井が僕の頬を、指で乱暴に拭った。違う。故人を偲んで涙を流してたとか、そんなことじゃないんだ。

 頬への刺激が、じんわりと内側に響いた。

 どうしよう、僕は何を思ったらいいんだ?

「わかんないよ・・・」

 いや、分かってる。分かってる。お前に優しくされて、心配されて、ただただ、いや、タダで、抱きしめてほしいんだ。こんな風にしてれば、僕から「抱いてくれ」って言うリスクを冒さずに、それが容易に達せられるって、そんな、魂胆・・・。

「帰ってくれない?」

「・・・ねこ、俺」

「ごめん。一人になりたいんだ」

「・・・誰のために?」

「・・・え?」

 言ってる意味が分からなくて、今度は黒井の顔を見上げた。無精ひげが更に伸びて、初めて見る黒井がいた。

「・・・あの」

「うん?」

「意外と、・・・似合わない」

「え、そう?せっかくここまで生やしたのに?」

「うん。何か、変だ。やるならもっと、無人島の人みたいにならないと」

「そう、か、な」

 黒井が笑うので、僕も少し、笑った。

 その後急に、泣いた。

 本当に、何が悲しいのか、嬉しいのか、ちっとも分からなかった。

 だから黒井の胸をひたすら指さし、撫で、叩いて、<No Logic>なんだと伝えた。でも一つだけ確かに感じたのは、頑張らないと何も出来ないくせに、頑張りきれなかったってことだった。

 つまりは僕は、何も出来ない人間なんだ。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 抱きしめられて、背中を撫でてもらうのを、とうとう、拒否し切れなかった。

 こんなことで甘えるわけにいかないんだと、切実に、伝えたのに。

「今俺がいなくていいんなら、俺なんて、いなくてもいいってことだ」

「・・・だ、誰も、そんなこと」

「じゃあ何で?」

「だから、だから、違うんだ。そういう、あれじゃ、ないんだ・・・」

 親戚が死んで悲しいとか、そんなの全然違うんだって。父親が死んだなんて、お前と一緒にしなくていいんだ。慰める必要なんて、本当は何もない・・・。

「どういうあれでも一緒だよ。お前が泣いてるんだから」

「そうじゃ、ない、こんなの・・・」

 こんなの、涙じゃない。ただのぐちゃぐちゃの感情のなれの果てだ。頭で処理できなくて出てきちゃっただけの、廃液だ。

「お願い、タオルを、取ってくれ。そこの、引き出しに・・・」

 お前にそんなもの触れさせたくないよ。どうして来たんだ。・・・来てほしかったよ、会いたかったし、それに・・・。

「ねえ、頼むから・・・いや、ごめん、自分で取る」

「・・・大人しく泣いてればいいのに。途中で止めると、おかしくなる」

「タオルで拭きたいだけだ。大人しく拭かせてくれ」

「お前、何を我慢してるんだよ。俺の前で泣くのが恥ずかしい?」

「ああ、そうだね、みっともなくて、恥ずかしいよ。分かったら早く、・・・出てって」

「・・・本当にそうしてほしい?」

「・・・本当にそうしてほしいよ。泣いてるの見られるのは恥ずかしいし、もう、・・・もう、一人になりたいよ。お願いだから、俺に構わないで。ここから出て行ってほしい」

「分かった」

「・・・」

「お前の言ってること、全部嘘だって、分かった。本気でそう思ってるなら、俺の目を見てもう一度言ってみろよ、言えないから」

「・・・言えるよ。言ってやるよ。本当に、そうして、ほしいって・・・」

 涙目の、震えた声で、歯を食いしばる。

 ほとんどぼやけた視界で、睨みつけて。

「うん。どうして、ほしいって?」

「だから、・・・だから」

「・・・言えよ。言ったら、してやる」

「・・・だから」

 ・・・わかんないよ。

 わかんないんだってば!

 行ってほしくない。本当は、お前に、もう、胎児のように、100パーセント、完全に、甘えたい・・・。

 しゃくりあげて、胸が詰まる。言えないのは、そのせいだ。声が、詰まってるだけ・・・。

「ねこ」

 黒井が僕を強く抱いた。そんなにされたら、胸が、苦しい・・・。

「言えよ。俺に」

「・・・いえ、ない」

「言えって」

「だめだ、言っても、おれがくるしくなる、だけ」

「そんなもの乗り越えろよ。俺のために言え」

「・・・っ、なんてやつだ、おまえ」

「うん、それで?」

「・・・べつに、なにもない。ただ」

「ただ?」

「・・・こうして」

「うん?」

「・・・泣きたかった、みたい、なんだ」

 思い出した。お前の部屋で、一度こうして泣いてしまいたくなって、でも何とかこらえて、ラグの上で眠った。それからもずっと張りつめてたものが、お前と映画を観た後溢れそうになったけど、結局嗚咽をかみ殺した。

「それは恥ずかしいこと?」

「・・・わかんない。わかんないよ」

「わかんないままでいいよ。泣いていい。俺がいいって言ったらいいんだ」

「・・・なんで」

「俺が強くなったから。俺だって泣きたかったけど、大丈夫だったから」

「なに、それ」

「いいんだよ。また後で考えて?ほら、途中で止めたらおかしくなるんだ。早く泣かないと、俺が泣かす」

「ひっ、・・・どう、やって?」

「・・・いろいろだよ」

 ・・・クロ、お前は、強くなったのか。

 そうか。

 それなら、・・・いい?

 いいのかな。

 <No Logic>。・・・危ないな、そのシャツ。もしかして、わざと着てきた?

「・・・じゃ、遠慮、なく」

 泣かせて、もらうから・・・。

 黒井に泣かされる前に涙が溢れてきて、僕は黒井の胸で泣いた。体温が、匂いが、強く抱かれた肩が、・・・ああ、クロ、お前だ。お前がいる。俺がお前に抱かれてる。こんなの、あり得ない。いい匂いがする、あったかい。こんな自分を見せるのが、どうしようもなく恥ずかしくて、気持ちがいい・・・。

 息苦しくなって、どんどん頭の中がどこかへ吸い込まれていって、現実の感覚が遠ざかった。泣き疲れて、いつの間にか握っていたタオルを目に当てたまま、布団に横たわって、そのうち寝てしまったみたいだった。



・・・・・・・・・・・・・・・



 夢を、見た。

 僕はどこかの街で、先に行ったクロとはぐれてしまい、クロを探している。

「クロ、クロー!」

 呼びかけるけど、返事はない。建物の裏側まで探す。あいつは、こういう変なところに入って行っちゃったりするからさ。

 そして、ようやくクロに追いついた。

「これ、美味しいんだよね」

 僕はうん、とか、そうだね、とか言った。ようやく追いついたというのに、大した感慨もなく、二人でギョーザをつまんでいる。何個入りを買うのか、ええと、18ヶ入りの箱を指さして、いや、真ん中から綺麗に石庭みたいに並んでるけど、四角い箱にそうやって入ってるはずないと思うけど・・・。

 ・・・。

 そして目が覚めた。

 大体、夢での探し物は見つからないのに、今日は見つかったなあ、と思った。

 誰もいない建物の裏で、「クロー!」と何度も叫んだのが、その喉を絞る感じが、妙にはっきり思い出された。まさか寝言で本当に叫んだのかな。

 そしてふと、隣に、体温を感じた。

 誰か、いる。

 最初に思ったのは、あれ、夢から連れてきちゃった?ということ。まさかギョーザまで持ってきた?その匂いでそんな夢を見た?うん、それじゃ本末転倒か。

 ゆっくり首をそちらに向けると、クロと目が合った。

「・・・起きた?」

「・・・」

 びっくりして、凍りついた。

 心臓がぎゅるぎゅる音を立てる。いや、違うか。これは、僕の腹が鳴ってる?

「ねこ、お腹へった?」

 笑って、僕の腹を撫でる。あ、その辺ちょっと、触られても、まずいんだけど・・・。

「ね、何か食べに行こうよ」

 うん、と言おうとして、声は出なかった。ただうなずいて、一瞬、まだ夢かなと思った。でも、いつものどうしようもない妄想ではここから致しちゃうんだけど、そうはならなくて、じゃあ現実なんだ。

 ちょっとがっかりした後、でも、夢でも妄想でもないクロが本当にそこにいて、動いたり喋ったりして、そのことが、どんなことよりすごいことのような気がした。ホログラムでも人形でもない、生きている人間。



・・・・・・・・・・・・・・・



 外は明るいけど、もう夕方だった。

 二人で交替にトイレに入り、僕は適当な服に着替えた。体も頭もふわふわして、まだちょっとよく、分からなかった。

「じゃ、行こう?」

「え、あ・・・うん」

 どこに、何しに行くんだ?

 分からないけど、とにかく財布と携帯と鍵と、それから玄関に用意してあった黒井のかっこいいスーツの紙袋を持って家を出た。早くクリーニングに出さなくては。店は駅前なわけで、どこ行くの、と喉まで出かかるけど、まあよく考えたら、別にどこだっていいんだ。

「・・・ああ」

「うん?」

 どこに行くにしたって、とりあえず財布と携帯があれば何とかなるかって、でもお前は、それも持ってなかったんだ。しかも、鍵まで。

「・・・ははっ」

「何だよ?」

「いや、クロ、お前さ、・・・ごめん、ひどい目遭わせたね」

「え?」

「財布も携帯も鍵もなくて二日もうろうろするなんて、ひどい」

 そりゃ、スーツもこうなるか。そしてついでに、足も臭くなろうというものだ。

「ああ。・・・うん、でも、よかったよ。だって、・・・あの時とは違う」

「・・・え」

「もっとちゃんと追い込まれて、もっとちゃんと、自分で出来た」

 ああ、あの時って、演劇部の時のそれか。孤立して、同棲してた女の子も出て行って、なぜか家にいられなくなり野宿した話。

 急に遠い目をして空を見上げるから、僕はふいに、不安になった。

「あのさ、お前・・・支社に、戻ってきて、くれるんだよね?」

 黒井は空を見たままふふんと笑い、「・・・来てほしい?」と言った。

「・・・そ、それは、そうだ、けど」

「俺の席、まだ残ってる?」

「・・・あるよ、ちゃんと」

「そう。・・・まだ何日か本社に行くけど、基本的には、三課だ」

「基本的、に?」

「新人の世話に駆り出される、かも」

「うっ、そうなの?」

「営業戦力としてカウントされてないっぽいね。はは、別に全然、いいんだけど」

「そ、そんなこと・・・」

「中山さん、どう?」

「ああ、何かずっと、ピリピリしてるよ」

「へえ・・・」

 駅に着いてクリーニングを出し、新宿行きの空いた電車に乗った。そうやって、少しずつ、話をした。

 何ということはない、会社の話。

 クロと会社の話をするのは嫌だったんだけど、ちょっとちくりとしながらも、それをすることが出来た。僕と黒井が、友達で、親友で、ただの同僚で、でも結局のところ黒犬と山猫だって、お前もそう思ってくれてるって、今は信じられたからかもしれない。

「え、誰なのその西沢って人?」

「あ、ああ、四月から入ったんだ。大阪支社から来たって」

「ふうん、お前の隣?」

「う、うん」

「菅野ちゃんがいたとこ?」

「そう、だけど」

「へえ」

 桜上水を過ぎて、日曜の夕方から新宿に出る。まるで全てが逆回し。

「・・・それで、どこ行く?」

 ああ、つい訊いちゃった。でも答えは「さあね」じゃなくて、もう決まっていたみたいだった。

「うん、半年前、行ったとこ。お前と二人では、行けなかったとこ」

「・・・え?」

「みつの、しずくだよ」

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