第201話:誤解のはじまり

 目を赤くした佐山さんが「ちょっと甘いものでも食べて来ます」と歩き出すので、呼び止めて業務用エレベーターへ案内した。ちょうど営業が出て行く時間だし、僕も、こそこそと泣き顔の女性と発送部屋から出てくるのを見られるわけにいかないし。

「あの、しばらく、いいですよ。こっちはやっとくから」

「・・・お言葉に甘えて」

「甘いもの?」

「そう。ふふ、山根さんにも買ってきます」

「あ、いや、そんな」

「いつも差し入れ、とっても美味しくて」

「・・・に、西沢さんに、勘違いされちゃったりして、気があるのかって、変に思われても困るからやめようかと思ってたけど」

「そんな、やめないでください。西沢さんには、よく言っときますから」

「え、な、なんて?」

「・・・山根クンぴちぴちの二十代やで、三十路女に横恋慕するわけないやろ、勘違いすんなやこのドアホ!」

 ・・・。

「・・・とかね」

「は、はは」

「実は昔京都に住んでたことがあって、でも、話さないと、急に出てこないですね。西沢さんのもよく聞くとちょっとおかしいんですけど、・・・あ、やっと来はる、・・・なんて」

「は、はあ」

 ずっと上で停まっていたエレベーターが、ようやくこちらに向けて動き出した。

「山根さんには、何がいいですかね。最近ちょっと気になってるのが<大人のきのこの山>なんですけど・・・」

「お、おとなの・・・。ってことは、まさか大きい?」

「ち、違いますよ。そういう大人じゃ・・・!」

「あ、すいませんセクハラでした」

 ちょっとこのタイミングで、こんな話題まずったかな・・・と思ったが、佐山さんはしっとりと、「ふふ・・・大人は、私ですね」と。

「お、俺だって子どもってわけじゃ・・・い、いえ何でもないです。行ってらっしゃい」

 ドアが開くと、中は台車の作業服の男たちでいっぱいだったが、佐山さんはちょこんと乗り込んだ。しかし急に慌てて「あ、お財布持ってない!」と飛び出した。

 僕は財布から急いで千円札を取り出し、「こ、これ!」と渡してもう一度乗らせた。ビーー、とベルが鳴って、「すいません!」の声とともに、ドアが閉まった。



・・・・・・・・・・・・・・・



 黒井が僕を大人にしてくれないかな、なんて大馬鹿なことを考えつつフロアに戻ると、「やまねくーん?」と猫なで声の課長。嫌な予感。

「どこでおデートしてたのかな?」

「は、はあっ?」

「あのね、デートはいいのよ。仲良くしたいもんね、女の人と」

「・・・あ、あの、別にそんなんじゃ」

「あ、心当たりあるのね」

「へっ?」

「契約書」

「・・・あっ」

「女より大事な契約書なんて、俺にはないっ、・・・って?」

「・・・す、すいません!!」

 冷や汗が出た。そうだ、必要ないのに契約書持って発送部屋に飛び込んだんだった・・・。

 回れ右で走り出そうとする僕を止めて、課長が僕の机にバンと契約書を置いた。

「あ、これ、誰が・・・」

 佐山さんはこっちに来てない、っていうかそもそも一緒に出たんだし、じゃあ僕たちの直後に誰かあの部屋に入ったのか。

「新人君たちが届けてくれました。それから、こそこそ電話してる黒井君も押さえました。別にね、シュレッダーしたわけでなし、どっか別のとこへ送っちゃったわけでなし、何事もなかったからいいんだけどね。一応、新人の手前、こういうことはあってはいけませんよって絞っておかないと」

「す、すいません・・・」

「で?どうしたの?デートに夢中で落っことしちゃったの?」

「いえ、ただ、・・・置きっぱなしで、忘れました」

「・・・ふうん。何かお前さんがそうやって殊勝に謝るとさ、逆に、何か隠してるんじゃないかって、思っちゃうよね」

「な、何も、ないです」

「きみは前科があるからねえ・・・」

「ち、違います、そういうのじゃありません・・・!」

 そういうのってどういうのだよ!って自分で自分につっこみが入るけど、今回は今回で、佐山さんの事情を勝手に話すわけにはいかないし、しかもこんなことを知ったら佐山さんは「実は私が・・・!」って言わざるを得なくなるだろうし、結局また僕は口を割れないのだった。

 ・・・仕方ない、俺も男だ。腹をくくろう。

 っていうか、契約書を忘れたのが悪いんであって、佐山さんが来なくたってそれは忘れてたかもしれないしね。

「で、この契約書だけどね」

「は、はい」

 課長はもう一度僕の机の前に来ると、「ほら、ここ見て、ここ」と、契約書をボールペンの尻でカツカツ叩いた。

「・・・はい?」

「ほら、丸印でしょ、これ」

「はい」

「でも、金額見て?」

「・・・はい」

「この金額だと、丸印で、良かったんだっけ?」

「・・・あ、角印、ですか」

「そのとおり。ハイ取り直しー。何でこんなおかしなヘマしちゃうの?おかげでおれ、新人に指摘されてどんなに恥ずかしかったか!」

「す、すいません!」

「んもー、しっかりしてよ?はっはっは!」

 ドンドン、と肩を叩かれ、とりあえず解放された。いたたまれなくて、契約書をクリアファイルに入れて鞄に突っ込み、「行ってきます!」とオフィスを飛び出した。



・・・・・・・・・・・・・・



 昼前に、何となく見たくなかった携帯を見ると、メールが四通。

 うち三通は藤井で、<何かありましたか?><私何かしちゃいました?><契約書のことで、頼まれてましたっけ・・・!?>。一通は黒井で、ひとこと<ごめん>と。

 やっぱり、藤井とおデートしてたって、思われてたわけだ。

 まあ、婚約してる佐山さんとどうこう、と思われていたなら、さすがに課長もあんな風に茶化さないだろう。それなら佐山さんと部屋を出るのを見られたわけじゃなく、でもそれなら、どうして<おデート>になった・・・?

 藤井にはとりあえず、何かの手違いで、契約書も結局何の問題もないから忘れてほしいとメールした。すぐに返信が来て、<怒鳴られてしまいました。おしっこちびりそうでした。あれは、やっぱり黒井さん・・・ですよね。でも何事もないなら、とにかくよかったです>と。

 ああ、そうか、課長が勝手に藤井とおデートしてたと思ったんじゃなく、黒井が言ったのか・・・?

 そういえば、課長がこそこそ電話をしてる黒井を押さえたとか言っていた。契約書のことで、僕が持っていった相手が藤井だと思って、問い詰めた?<ごめん>っていうのは、何も知らない藤井を怒鳴ったことについて?

 すぐ黒井に電話しようかと思ったが、本当のことを、つまり佐山さんのことを電話なんかで話すわけにいかないし、っていうか黒井にだってまだそれを言ってはいけないし、結局、<いいよ、お前は気にしなくて>と送っておいた。


 夕方まで返事は来なくて、そして、帰社しても佐山さんがいる時間は話せず、ぐずぐずしていたら黒井は先に帰ってしまった。

 ・・・どうしてこうなるんだ?

 黒井と喧嘩なんかしてないのに、また会社でキスしたわけでもないのに、何で気まずくなっちゃうんだろう?

 「なに、最近浮いた話が多いやん」と西沢にからかわれながら、佐山さんが机に置いといてくれた<大人のきのこの山>を食べた。おいしかったけど、ちょっぴりほろ苦かった。



・・・・・・・・・・・・・・



 火曜日。

 佐山さんは一応ほとんど元通りになっていて、ぎくしゃくせず会話することが出来た。とりあえずそれはほっとした。懸念は一つ解消だ。

 しかし、黒井の方は、やっぱりちょっと張りつめた感じのまま、変わらずだった。たぶん僕が<おデート>的なことを暗黙で認めてしまったために、それがどこかから伝わって、勘違いしてるんだ。藤井は電話で否定しただろうけど、ジュラルミンほったらかしてそんなことしてたのかよって、怒ってるのかも・・・。

 でも、帰りになって、僕はようやく思い至った。

 たぶん黒井は、僕が藤井と何をしようと、そんなのきっとどうでもよかったんじゃないか。

 そうじゃなくて、僕がはっきり本当のことを言わないという、そこの問題なのかも。

 佐山さんとのことは何もやましいことはないのだから、僕だってもちろんこそこそしないで全部話したい。

 でも、それは、出来ないんだ。

 せめて佐山さんが課長に話すまでは、だめだ。

 まあ、それも時間の問題なのだから、せいぜい来週まで待てばいいって話だけど。

 ・・・でも、黒井にだけなら、別にいい、んじゃないか?

 自分に問うたけれども、答えは、即NOだった。

 黒井がべらべら誰かに喋るなんて思ってないし、万が一を考えてるってわけでもなくて、それは、ただ僕の矜持というか、ルールや秩序の問題だった。

 ・・・なら、僕が待てばいいだけの話か。

 どのルートを通っても、そういう答えになる。そして来週は必ずやってくるんだし、たとえ佐山さんの心が揺れても細胞分裂は止められないから、いつか必ずどこかにたどり着く話なのだ。

 お腹が大きくなれば、誰にも隠せない。

 その重さは、確かに、少し怖いかもしれないと思った。

 自分の準備や覚悟や思惑とは無関係に、刻一刻と形成されていく存在。そしてそれは、自分だけの責任でどうこうできるものじゃなく、少なくとも世界に一人、相手がいる・・・。

 うん、アトミクもきっと、始まったら最後、僕だけで方向を決めることも、終わらせることも、出来ないんだろう。どんなに思惑と違っても、こんなこと望んでないって叫んでも、後戻りは出来ないし、なかったことにも出来ない。

 ちゃんと旦那と話せよなんて、心の奥で冷たく言い放ってる場合じゃない。

 ああ、僕だって今、ちゃんと話せない真っ最中だしね。

 人に冷たくしただけ自分にもそれが返ってくるなら、そうしないのが合理的か。

 ・・・なるべく、誠実を心がけてるつもりなんだけどな。

 それから、心のどこかで、<本当は違うから、心がけるんだよね>と声がした。そしてまたどこかで、<あっそ>とそれを切り捨てた。


 ノー残も先に帰られてしまい、僕は完全に袖にされたみたいだった。来週までだって思うから頑張れるけど、そうじゃなかったら落ち込んだまま帰って来れないかも。

 そしてまた後になって、そんなの、わけもわからず、期限なんかないままわだかまりを抱えているあいつの方が嫌な思いしてるんじゃないかって、いつものように、思い至るのが半日遅れ。電話で喧嘩したときだって、隠さないではっきり言ってほしいって言われたじゃないか。



・・・・・・・・・・・・・・・



 木曜日。

 今更、月曜のことを振り返ってみることにした。

 黒井にとっては、はじめ、ジュラルミンを途中で突然任され、僕がなぜか契約書片手にいそいそ出ていった、という図になっている。その後僕はしばらく戻らず、面倒な電話をとってるうちに、たぶん発送部屋に契約書があったと新人がわめき始めた。

 ・・・電話、か。

 そういえば、ジュラルミンを取りに行く途中、電話の話なんかしてたんだ。全然関係ない可能性もあるけど、でも、僕との会話の流れで電話に出てみたのかもしれない。

 そして、契約書の営業担当者が僕だと知り、黒井は、僕がこそこそ出て行った相手は藤井だと思ったのだろう。内線をかけ、何かを怒鳴り、そして課長に見つかった。

 もしかして黒井のメールの<ごめん>は、<藤井を怒鳴ってごめん>じゃなく、<俺が電話したせいで課長に勘違いさせてごめん>、だった?

 でも僕は、佐山さんとのことがあったから、<おデート>と言われてとっさに<図星>って顔をしてしまった。それを黒井がどこかから聞き知ったなら、「え、やっぱりそうだったわけ?」というところだろう。

 電話で、何も知らない藤井から否定され、そして、僕も直接何も言わないのだから、「二人して何だよ」と思うだろう。

 ・・・。

 でも、そもそも、どうして黒井が藤井に電話したのかってことだ。

 藤井のメールにあるとおり、それは間違いなく契約書の件であって、つまり、新人が見つけたそれをどうにかしようとしてくれたんだろう。業務用エレベーター前にいた僕を探し出すことも出来なかったろうし、とりあえず思い当たる節に当たってみた・・・。

 ・・・ああ。

 黒井が、僕と藤井がアレコレしたかしないかで怒ってるわけ、ないじゃないか!

 あいつは、課長に見つかって面倒事になる前に、それを収束させようとしてくれてたんだ。でも結局そうはならず僕は怒られたわけで、じゃあつまり、あの<ごめん>は、<お前のこと庇いきれなくてごめん>だったんじゃないか。

 そして、それに対する僕の返事は、<いいよ、お前は気にしなくて>。

 的外れでもなくて、噛み合ってないこともなくて、でも、何だか傲慢でしかもそこはかとない疎外感。

 また、<冷たいところがある>が刺さり、僕は考えるのをやめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る