第202話:何もつかめないまま、六月

 五月最後の金曜日。

 黒井にファイルを渡したり、印刷物を受け取ったりするけれども、業務上の会話だけ。

 もう我慢が出来なくなって、何度も、言ってしまおうかと思った。

 そしてまた僕は、本当に呆れるけれども、五日も経って二転三転の末、ようやく、根本的なことに気がついた。いったい何度更新すれば気が済むんだ。どれだけ思考を重ねなきゃ気がつかないんだ僕は。


 それは、元をたどれば契約書騒動以前の話なんじゃないか、ということ。

 あの時、僕がどうして契約書なんか持って外へ出たかっていえば、そもそも、<ぶうん>の耳鳴りがしたからで。

 僕は、二回も病院に付き添ってもらった黒井に対しその不調を正直に告げもせず、その上、不自然な偽装工作までしてそれを隠したんだ。

 黒井が感じてるであろう違和感は、だから、契約書騒動でもなく藤井でもなく、課長でも冷たいメールの返事でもなく、そして、結局佐山さんのことを隠しているからぎくしゃくしている僕の態度、でも、ないんじゃないか。

 もちろん根拠なんかないけど、でもどうしても、あいつが、僕と藤井がいちゃつくとか、課長にそれがバレるとか、そんなことで機嫌を悪くするとは思えなかった。もちろん変にそれを隠してる僕に怒ってるかもしれないけど、もし怒るなら、佐山さんのことを隠す僕なんかじゃなく、耳鳴りのことをその場で言わなかった僕。「ん、どしたの?重い?」と、何かに気づいた黒井に、「何でもない」と即答した僕・・・。

 とにかく、藤井とアレコレしてたわけじゃない、実は佐山さんとこれこれこういうことがあって、契約書のことは本当に迷惑かけて悪かった・・・、そんな風にきちんと説明して謝ろうと思ってたわけだけど、「そんなのどうでもいいよ」って黒井の声が、容易に聞こえる気がした。

 そして、続いて聞こえたのは、「何でひとこと『おかしな耳鳴りがして怖かった』って言えないの?」「俺には言えない?頼れない?」。

 そんなせりふが、簡単に思い浮かぶけど。

 ・・・そんなに、俺のこと、心配してくれるなんて、まさか信じられないんだ。

 自分がそんな心配に値する人間だなんて。

 それに、本当にヤバイならともかく、耳鳴りもあれっきりだし、針小棒大に騒ぎ立てたってみっともないだけ。

 ・・・ああ、耳鳴りが、もっとひどくなってたら、よかったのに。

 お前に深刻な顔で「実は・・・」って相談できるくらい、やばくなればいい。

 そうだよ、まったくたった一回急に不安にさせておいてぱったり止みやがって、何なんだ。前もらった薬でも、大量に飲んでみようか。もうちょっと壊れたら、お前に心配してもらってもいいんじゃないか・・・。

 おいおい、それじゃ、薬物中毒患者だよ。

 他人にかまってほしくて自殺未遂する人みだいだよ。

 ・・・そうか。

 そんな人たちは蚊帳の外だと思ってたけど、僕は結構素質があるのかもしれない。

 僕の自傷願望は、誰かにかまってほしいってだけの、甘えん坊のわがままちゃん?

 ・・・いや、違う、違う、そんなんじゃない。

 傷はもっと純粋で、痛みはもっと、他人なんかじゃなく、違うところに繋がってるんだよ。

 みんなとの馴れ合いなんか、もう、そんな次元じゃない、渇いて清浄な場所。

 他の人は知らないけど、僕は違う。違う、みんなと同じなんかじゃない・・・。


 気づくと山手線新宿駅のホームで、白線ぎりぎりに立って、ちがう、ちがうとつぶやきながら、僕はひたすら首を横に振っていた。まるで、本当に危ない人みたいだった。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 週末。

 五月が、終わる。

 三月がアレで、四月があれで、五月が、これ、か・・・。

 良くも悪くも、ジェットコースター的人生、ってことだけは確かみたいだった。

 溜まっている家事に背を向けて、布団に寝転がった。

 黒井の気持ちを誠実になぞっていたつもりが、結局は、おぞましい自分を見てふさぎ込んでしまっただけだった。

 頑張ってはいるんだけど、ちゃんと時間をかけて考えれば洞察力もあると思うんだけど、・・・どうもその努力はまっすぐ実を結ばなくて、独りよがりなだけなんだよな。

 だって、黒井にまだ何も、言えてないし。

 っていうか、もう、だめかも。

 何も言えてないとか、そうやって僕が仕切れる立場なんかじゃないもんね。意見陳述の権利なんかなくて、正当な主張をしたからってそれが認めてもらえるわけでもなくて。

 別に、真実も何もかもをひっくるめて、「お前、めんどくさいしおもしろくない」って言われたら、はは、本当に、おっしゃるとおり。

 せめて、こうしてうちに一人でいて、いつまでもごろごろふて寝をしていられて、よかったと思う。もし一緒に住んでいたら、こんな時間さえいたたまれず、ままならない・・・。

 ・・・一緒に、住むだって?

 まったく、何の思い上がり?

 僕はもう、本当に黒井のことが好きなのかな。

 好きだったらもっと、相手のこと思いやったり、誠実に接したり、そんなの当たり前に心の奥から出てくるものじゃないのかな。

 僕のは好きって仮面の、ただの、独占欲や自己顕示欲や自己満足なんじゃないのかな。

 ・・・はあ。

 好きって気持ちだけは確かなものだって、揺るがないって思ってたけど、いや、確かに胸の奥に何かはあるんだけど、それに貼ってあるラベルは、もしかして、貼りかえられちゃうかもしれないね。<LOVE>なんかじゃなく、<エゴ>とかいう冴えない名前かもね。

 ミーハーで、本当は仲間に入れてほしくて、知的でも何でもなくて、ちょっと入れてもらったら早速後ろを向いて蚊帳の外の人をせせら笑う、そしてまた外れたら舌打ちして薄汚く罵る、そういう、大嫌いな、人種が、本当は僕の真ん中にも、いる・・・。

 そうだよね、いないんなら、それを見たとき、心に引っかかって嫌悪感なんて感じないんだ。

 だから、そんなのがなさそうな黒井が、まぶしくて、羨ましかった。

 そりゃ、ないだろうね。そんな純粋培養なら、こんな下世話なあれこれは、城下町の出来事だろう。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 土日、やはり特に連絡もないまま、週が明ける。

 まあ、別に連絡する義理もないんだから、あるはずもない。


 月曜朝礼で、新人の仮配属が発表された。

 延々と「ひとことスピーチ」が続き、三十人どころか四課の七人だって覚えきれない。

 僕は朝からため息をついて、続く課内の朝礼で繰り返されるスピーチと自己紹介を聞き流した。


 見込みのありそうな人材はこんな会社を見限ってすぐよそへ移りそうだったし、見込みのなさそうな人材は周りの足を引っ張った挙句三年以内に辞めそうだった。

 それでも、僕にとって唯一の、直接の後輩たちだ。

 僕たち以降は毎年二、三人しか採ってなかったから、ほとんどお目にかかることもなかった。すぐに消えたり、藤井のように最初から業務部へ取られたりして、だから僕たちは常に下っ端扱い・・・いや、だからこそいつまでも新人ぽい甘えが通用している面もある。

 そういうのも、通じなくなってしまう?

 変わっていってしまうのか。いつまでもぬるま湯ではいられない。

 注目されるのが嫌なくせに、すべての注目が新人に集まって、「お前は言われなくてもちゃんとやっとけ!」と冷たくあしらわれたら、さみしい自分がいた。

 何て情けない。

 踏みつけられてもそれがちょうどいいくらいに感じなくては。

 先輩風を吹かせたり、営業事務を教えるんだなんて意気込みを頭から払拭し、何一つつっこみどころのない自己紹介を済ませた。そのままの顔で存在しているのが嫌で、ここにいるときは常に眼鏡をしていようと思った。


 仮配属といってもまだここに座るわけじゃなく、ひとまず上期はセミナー集客やテレアポで四課の顧客を担当するというだけであって、自己紹介の後はみんなぞろぞろとどこかへ去っていった。下期になればもう少し本格的に営業同行や保守案件くらい出てくるだろうが、やはり同じ島にいなければ実感もわかないものだ。もう名前も顔も覚えていない。ああ、集まってる間に歓迎会改め親睦会のことを話しておけばよかった。いなくなってしまったらもう捕まえられる自信がない。

 

 そんなこんなで課長はずっとバタバタしていて、たぶん、佐山さんが落ち着いてそれを相談している時間はなさそうだった。ふと目が合うと佐山さんは曖昧に微笑み、でも、それが何を意味しているのかは分からなかった。課長さん忙しそうですね、かもしれないし、あるいは、もしかして、なにもかもが立ち消えになっている可能性も・・・。

 いや、勝手な憶測で、失礼なことを考えるんじゃない。

 ・・・でも、台風が来ても電車が止まらなかったら「ちぇっ」って思うように、不安を打ち明けられても、その後に「もう大丈夫でーす、カレとも仲直りしました!」なんて言われたら面白くない、なんて思っている自分も、いた。

 その上、課長に言ったなら、もちろん他言無用とはいえ黒井に話してもいいだなんてことも僕が勝手に決めたことで、そしてそのために僕は早く相談してもらいたがっている・・・。

 なんて薄情なんだろう。

 先週から、落っこち続けている僕を本当にまた引っ張り上げられるのか、自分でも自信がない。きっかけも足がかりもめどもない。

 内線が鳴ってまた律儀にジュラルミンが届き、僕は、「もういらないよ」とつぶやいて、黒井から目を逸らしてそそくさと裏口に向かった。



・・・・・・・・・・・・



 そのようにして、六月の第一週が過ぎた。

 結局、親睦会のことは、どうやらそもそも課長の都合がつかなくなったらしく、七月の第一週ということで落ち着いた。横田と二人で四課配属の男子一人に声をかけ(ただひょろりと背が高いというだけで記憶していた)、そこから他の六人に伝えてもらうことにした。何とも適当なことだ。

 佐山さんとは業務上いろいろ会話をしたけど、あのことは、僕からはそれ以上突っ込まないことにした。

 営業事務的なこのポジションでいえば、僕は更にいくつかの改革を進め、島津さんからも「おかげで大幅に時間が短縮されました」とわざわざお礼を言われるほどだった。会社で働いてきて、初めて、本当に誰かの役に立ったという感触を得た瞬間だった。

 また、実を言えば改革のほとんどは正式に上から許可を得たり、報告をしているわけでもなく、ほとんど僕と佐山さんと島津さんで秘密を共有してるようなものだった。三人だけの、暗黙のチームワークみたいなものが生まれたわけだが、黒井はそれに気づいているのかいないのか、しかしそこは島津さんが巧妙に舵取りをしているみたいだった。わざわざ「実は私たちでこれをこれこれこのように変えましたので・・・」などとは言わず、6月フォルダからしれっと新スタイルに誘導し、最低限だけ伝え、黒井もこういうことは深く考えず「ほーい」と従っている。

 黒井は仮配属で更に新人の世話に追われ、僕は地味な業務変革に励み、たぶんお互い、相手を少し意識しながらも、接点はあまりなかった。金曜日、外回りに出かけるエレベーターでたまたま一緒になったけど、大して話さないうちに、黒井は「それじゃ」と都庁前方向へ歩き去ってしまった。そのまま、土日も何もなく過ぎていった。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 月曜日。

 また新人たちが手帳片手に社訓を読み上げる。

 黒井は、長い朝礼にまぎれて、少し遅刻して入ってきた。

 ちょっと遅れました、すいませーん、って感じ・・・じゃなく、何か苛立った感じ。

 その背中を見ながら、でも、意味なんかなく、ただそのシャツのシルエットに、焦がれていた。その肩幅、その背筋、その姿勢。見ているだけで、何かが、あった。何かの匂いで何かが生々しく想起されるみたいに、胸に何かがこみ上げた。それが何かは、分からなかった。


 ルーチンは順調で、僕はほとんどの流れを把握し、だいたい一人で回せるようになって来た。

 もちろん佐山さんもいるけど、社員という立場で仕切っているのは僕であり、ある程度の采配を振ることが出来た。こんなのは向いてないと思ってたけど、意外と、狭い池の中で目に見えるだけの石ころを並べ替えるくらいなら、僕は自ら指揮を取って積極的にやりたいみたいだった。もちろん延々自分のルールに則って石ころを並べ替えるが好きだってことは知ってたけど、それはあくまで一人でやるのであって、上司も仲間も部下も立ち入り禁止だった。でも、佐山さんと島津さんなら、僕の池にいても苦ではなかった。まあ、派遣で、言うことを聞いてくれる秘書みたいな二人となら、そりゃ誰だってやりやすいだろって話だけど。


 火曜日。

 とうとう、朝、黒井は出社してこなかった。

 昨日ちょっと遅刻してきたから、でもそれだけで何の根拠もないのに、ああ、やっぱり、と思っている自分がいた。

 風邪で寝込んでいる、とは思わなかった。たぶんそういうのじゃない気がした。

 しかし、こういうのは重なるもので、こんなときに限って黒井宛ての至急の電話がかかってきたりする。

 しかも、今は新人が電話取りに勤しんでいるから、話が二転三転してややこしくなって、お客さんを怒らせ、ややクレーム気味。時刻は九時二十五分、黒井は来ない。

 中山課長は遅刻の理由を「聞いてない。連絡なし」と一蹴し、「誰か聞いてる?」などと聞いて回ることもなかった。捕まってしまった哀れな新人の女の子が、三課の電話で「ええ、ええ、ですから・・・」となだめているが、誰か替わろうにも、そのタイミングすらなさそうだった。うちの課長が「おい、山根何か知ってるか?」と小声で聞いてきて、その様子は、何だかちょっと可笑しかった。

 そして、僕は苦笑して、「知りませんよ」と答えた。

 一瞬でも、「途中で腹が痛くなったそうで」とか、いや、具体的な案はなくとも、せめて何か庇ってやろうみたいなことは考えなかった。

 もちろん、あいつはそういう保身のための嘘なんて望まないだろう。

 っていうかたぶん、無断遅刻を叱られることなど、何とも思ってないかもしれない。

 でも、そういう問題じゃない。全然。

 結局、黒井のあのメールの<ごめん>が、僕を庇いきれなくてごめんだったのか、本当のところはまだ分からない。

 でも、少なくとも、あいつは僕が契約書を発送部屋にほったらかした時、藤井に何かを怒鳴ったんだ。

 そして今、僕は苦笑いで「知りませんよ」と答えた。

 そういう、ことだ。

 ・・・。

 結局、本当は、何に怒鳴ったんだろう。

 ・・・藤井に、聞いてみよう。

 自分の汚さから目を逸らし、怖いけど真実を知ろうという姿勢でもって、それを隠そうとしている。正確な事実の把握の方が自分を非難する裁判より先だって、都合のいい正論。・・・まったく、勝手にやってろ!


 メールでまどろっこしく訊くより、会って話したかったけど、今度こそ本当に発送部屋に呼び出すのもためらわれたし、何とか昼時新宿に戻ってきて下で会うというのも、結局誰が近くにいるか分からないし、どうにもうまくない気がした。

 じゃあ、夜、残業が終わるまでどこかで待っててもらう?

 僕が事実を知ってすっきりしたいという、それだけのために?

 一応それは黒井と藤井の間の個人的な会話だというのに、僕が関連しているというだけで、証人喚問して宣誓書を読ませ、証言させる権利が僕にある?

 ないか。

 じゃあいいか。

 いろいろ諦めかけたころ黒井がフロアに走りこんできて、息をつきながら、「あれっ?」って顔で周りを見回した。女の子が慌てて「あ、あの、今来ま・・・いえ、ま、参りましたので」と、一刻も早く受話器を渡したいという顔で黒井を見上げる。黒井は首をひねりながらそれを受け取り、「はーいお電話替わりました」と。

 周りの全員が中山の雷を恐れつつ、自分の仕事に戻る振りをしつつ、電話の声を息を詰めて聞いていた。そして、結局、・・・黒井さんが、勝った。

「ええ?ああすいませんすいません。えーそうだったんですか。いや、僕遅刻しちゃってね、たった今来たんですよ。走って、疲れた。ははっ。いやいや、それが実はね・・・って、あ、ちょっとここでは言えないな。でもたぶん竹内さんも好きだと思いますよー。今度行ったとき話します。いや、っていうか今行きましょうか。そうですね。大丈夫です?空いてます?行ってもいいですか・・・えー、すぐですよ。十時くらい?」

 蓋を開ければこんなもんで、たぶん、「今席をはずして・・・」を繰り返され、年端も行かぬ女の子に「あの、ですから何度も・・・」と、<もう迷惑なんですけど!>って声を出され、徐々にヒートアップしたんだろう。しかも女の子は社員が無断で遅刻しているという事実を言うことは出来ず、その後ろめたさで、早く切りたくてしょうがないオーラが全開になっていた。でもそういうのは逆効果になったりして、別に何の意味もない「おたくの会社はいったいどういう・・・」みたいなせりふを呼んでしまったりする。

 そして、黒井は一分もせず電話を切って、「じゃ、行ってきまーす」と出て行った。

 中山の盛大なため息は、しかし、怒りと呆れを通り越し、もう諦めているみたいだった。

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