第203話:魔法の石

 夜。

 何だか複雑な心持ちで、やっぱり藤井にメールしようかと携帯を見ながら地下通路に出ると、「おい!」と声をかけられた。

 先に帰ったはずの、黒井、だった。

 ・・・。

「・・・あ、ああ」

「待ってたんだって」

「・・・え」

 慣性の法則で歩き続けるけど、どんな顔をして、どんな声を出していいか、さっぱり分からない。高速で状況を整理しようとするけど、その前に、黒井の笑顔に溶かされた。

「ね、何か食ってこうよ!」


 結局なぜだか駅と反対方向に歩き、地下通路も終わって地上に出て、都庁前だった。

 コンビニでサンドイッチとフランクフルトとビールを買って、ビルの前の階段に腰掛けた。梅雨入りした、生ぬるく湿った空気が二人にまとわりつく。黒井が持つフランクフルトにケチャップとマスタードを塗ってやると、黒井はそれをうまそうに食べた。

「あー、うま。腹減ってた」

 僕がビールを開けると、「あ、俺も」と棒を口にくわえたまま缶を取り、軽く合わせて、「かんぱーい!」と。

 ・・・どうして?

 もう、怒ってないの?俺のこと、許してくれるの?

「ぷはっ!っつうかうまくない?ビールってこんなうまかった?」

「どうしたんだよ、何か、その」

 今すぐ何かを吐き出して何かを許してもらってお前とまたふつうに話したいけど、このままその上機嫌に甘えていたくて、僕は曖昧に笑った。

 そして、特別何を話すでもなく食料はなくなり、会社帰りの人々が僕たちをよけて通っていった。


 ビールも飲み干して、残骸のすべてをビニールに突っ込む。

 そして黒井が、何やらおもむろに鞄に手を突っ込んで、小さな何かを取り出して「はい」と僕に渡した。

「・・・え?」

 手のひらに受け取り、小さいけれど、重い。

 それは、布の巾着だった。

 上から触ると、中のものは、ごつごつと硬い。少し握ると、とがっていて痛かった。

「な、なに?」

「へへ、いいから」

「ど、どうすればいいの」

「中、見てよ」

「う、うん・・・」

 僕はおそるおそる、巾着の口のひもを緩めて、中を覗いた。街灯が遠くて、よくは見えない。指を入れると、それは硬くて、平らで、ひんやりしていた。

 とがった部分が布に引っかかりながらもそれを引っ張り出すと、出てきたのは、石だった。

 かすかに、緑っぽい。

 単なる石ころじゃなくて、それは、何かの結晶みたいだった。

 綺麗に面取りされてるわけじゃなくて、ハンマーで掘り出してきたみたいな。

 ところどころは平らでつるつるしていて、たぶん鑿を入れたら綺麗に割れそうな、何ていうか、結晶構造?

「・・・綺麗な、石だね」

 それだけ、言った。これが、どうしたんだ?これを、どうすればいい?

「えー、そんだけ?」

「え、いや、だって、何なの」

「お前にやるよ」

「へっ?」

「はは、これ、俺のここ五日間の戦利品。これっぽっちの石。でもいいんだ。だからあげる」

「・・・は?」

「遅刻してきたでしょ?もう、これのためだよ。ここで負けらんないって、最後の意地。でもよかった。ねえ、どう、気に入った?」

「・・・」

 僕は右手に石を持って、とがったところを指でなぞりながら、ただぽかんとしていた。

 左の手のひらに載せて、ずっしりした重みを感じ、でも、この奇妙な状況をどうすればいいのか、まだ分からなかった。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 それから黒井は、鞄から冊子を出すと嬉々として僕に説明を始めた。

 表紙には、<東京国際ミネラルフェア>の文字。

 何度もぱらぱらめくってみせるそれには、シーラカンスと、化石と、すごい模様の瑪瑙石の写真、そして、学祭のパンフレットみたいな広告ページ・・・。

「でさあ、俺はシーラカンスが見たかっただけなのに・・・」

 そのコーナーは小さくて、しかも、わざわざ入場券を買ったのに、そこだけは無料で見れたのだという。

「別にいいんだけどさ、でもすっごい悔しいじゃん。じゃあ先に言ってよってさ。しかも俺、別に石には興味ないんだけど、でもそれが、もう超混んでて」

 シーラカンスはおまけであって、メインは、天然石の即売会だったらしい。ああ、鉱物のミネラルか。別に麦茶や健康食品のフェアではない。

 すぐそこの、例のハイアットホテルの下で、ついさっきまで開催されていたらしかった。天然石について僕も詳しくはなかったが、世界中から宝石やアクセサリー、パワーストーンの店が集まり、ブースに所狭しと石が並んでいたらしい。そして、バーゲン会場かという勢いで、平日の都庁前が大賑わいだったという。

「ほんとに、すっっっごい人だったんだよ。俺なんか、いつものハイアットのロビー行くときにちらっと貼り紙で見て、シーラカンスいいなあって思っただけなのにさ。きっと地方の資料館みたいに閑散として、物好きだけが見に来るんだって、そう思ってたのに」

 先週の金曜から今日まで、五日間行われていたらしい。言われてみれば、確かに金曜、エレベーターで一緒になったけど、黒井はこっちへ歩き去ったことを思い出した。仕事より先にここに来てたってわけか。

 そして、その大変な熱狂ぶりに驚き、意気込んで五日間有効のチケットを買った黒井は、しかし小さめのシーラカンスコーナーにちょっぴり失望し、しかも無料でよかったことに憤り、そして、土曜の朝からまた来たのだという。

「え、だってシーラカンスは、いまいちだったんじゃ・・・」

「いや、シーラカンスはもういいんだよ。そうじゃなくて、これ」

「え?この石?」

「そう」

「石、興味ないって」

「でも、もらえるっていうなら、せっかく券も買ったんだし、もらおうと思って」

 ・・・先着でもらえる、来場者プレゼント、だったのだ。

 しかし、土曜の朝来てみると、今座っているこの階段まで伸びるほどの列が既に出来ていたという。プレゼントは先着三百名。しかし、それはもうないだろうと思われた。

「だから、日曜、もっと早く来た」

 開場は十時で、九時半に着いた。しかし、係員から「八時半に終わりました」と言われた。

「もう、許せないじゃん?三日も俺何やってんのって。どうしても、絶対やるって思ったよ。で、月曜、朝、八時」

 平日は先着百名のプレゼントで、だから更に早く行ったけれども、しかし今度は、八時半には受け取れなかった。

「半過ぎに整理券配られてさ、よしって思ったら、プレゼント配るのは十時だって言うんだよ。で、じゃあ整理券持って後で来てもいいかって訊いたら、昼前には撤収するとか抜かすんだ」

 月曜は諦めてぎりぎり朝礼に滑り込み、新人の世話は昼までかかって、そして、今日だった。

「もう、ここまで来て引き下がる俺じゃないよ。十時まで待つつもりだった。でも、そしたら案外早く配り始めてさ、もらってダッシュで来たら九時半じゃん。うわ、三十分も早く着いたって」

 何だか適当そうな雰囲気の運営だったから、もしかしてもっと早く配るかもなどと思い、遅刻の連絡はしなかったらしい。そんなことよりも、「今日まで」が黒井を突き動かしたようだ。

 そして、僕はあらためて手の中の石を見た。

 来場者プレゼントは三種類で、どれかは選べなかったらしい。それは水晶と、アンモナイトと、そしてこの緑色の<蛍石>。黒井はポケットから小さな紙きれを出し、「ブラックライトで光る。熱を加えると光るが、割れることがある・・・」と読み上げた。

「俺はアンモナイトがいいかなって思ってたんだけど、別に、いいんだこれで」

「・・・そう」

「何か、昨日さ、朝もらえなくて、もういいよって思って、こんなの、同じものそのフェアの会場で買ったら千円くらいで買えるんじゃんとか考えてさ。でも、それ買ったって何か意味なくて。・・・はは、そんで、しかもさ、今朝ようやくもらって、俺てっきりチケットに印のスタンプとか押されると思ってたのに、そんなのなんもいらなかったんだよ。チケット買わなくてもプレゼントもらえたんだ。俺はさ、シーラカンスとこのプレゼントのためにわざわざ意味ないチケット買って、石も買わないのに、五日間ここに通い詰めたんだ!」

 はははは、と黒井は腹を抱えて笑った。あまりに楽しそうだったので、「何だよ、楽しかったんじゃん」と言うと、「そうだよ」と。

 そして、笑い終わって一息つくと、しみじみこんなことを言った。

「・・・ほんとはお前と一緒にシーラカンス見たかったんだけどさ、何か、途中から俺一人の戦いみたいになって、はは」

「で、でもさ、そこまでした石、俺がもらっちゃったら」

「うん、でもそれは、何か俺のじゃないんだ。何ていうか、俺が欲しいからもらったんじゃないんだ」

「え、だって欲しかったから並んだって・・・」

「うん、そうなんだけど、何でだろう、違うんだよ。今日だって雑貨屋走りまわってその袋買ったんだ。結局いいのはなくて、それ、何かナッツが入ってたおまけの袋」

「・・・え、う、うん?」

「何か、ビニールでもらったからさ、他の何かにしまわなきゃって思って。で、お前にあげようって」

「だ、だからどうしてそこがそうなるんだ?」

「あはは、わかんないよ!」

 黒井は笑いながら、何でだろうねとか、お前が好きだからじゃない?とかつぶやいた。

 ・・・。

 ・・・え?

 僕が黙り込むと、黒井は「あ、いや、お前こういうの好きかなって」、と。

「え、あ、うん。そうだね、嫌いじゃないよ。ありがとう」

「・・・き、気に入った?」

「うん。色が、すごく綺麗だ。それに、ブラックライトで光るなんて、すごいし」

「よ、よかった。ずっと並んで、座っててさ、尻が痛かったよ」

「そっか。それは、大変だったね」

「うん」

 僕は浅い息で石を握り締めて、ふと、何だかいやに大きいなと思った。

 何と比べて大きいのかって、それは、あの、子どもの頃僕が掘り出した、僕の魔法の石、だった。



・・・・・・・・・・・・・・・



 そのままぶらぶらと戻って、電車に乗った。

 僕は切り出すかどうか迷って、結局、あのことは言い出せなかった。

 そのかわり、「じゃあチケット、もったいなかったね」なんて振ってしまい、そして、「ああ、あげたから、無駄になんなかった」と、藪から蛇が出てきた。

「だ、誰に?」

「え、知らない人。何か遠くから見てるからさ、よかったらこれいりませんかって。そしたらすごい喜んで、はは、明日、食事行くんだ」

「へっ!?」

「何か、奢ってくれるんだって。あのチケット千円かそこらなのに、ハイアットのレストラン連れてってくれるって」

「はあ??」

 石とホテルのレストランから、ベレー帽でもかぶった裕福なおじいさんを連想したが、次の一言がそれを打ち砕いた。

「何か、感じのいいお姉さんだったよ」

「お、おねえさん」

 桜上水に着いて、「じゃあね」と黒井は降りていった。僕は黒井が落とした爆弾のせいで石のお礼も言わないまま、「・・・じゃあ、ね」とつぶやいた。



・・・・・・・・・・・・・・・

 


 水曜日。

 黒井の上機嫌と、もらった石と、そして<おねえさん>のせいで、僕のわだかまりと後ろめたさは相対的に小さくなっていた。

 そして、朝、佐山さんにそっと廊下に連れ出され、「課長さんに、今日相談します」と告げられた。僕は今だとばかりに、それを切り出すことにした。

「あの、その節はいろいろ」

「いえ、そんな・・・あ、あの」

「はい?」

「もちろん、あのことは、誰にも言ったり、してないけど・・・」

「・・・はい」

「もし、佐山さんさえよかったら、なんだけど」

「・・・え?」

「すいません、実はあの日、発送部屋から出るとき僕がうっかり忘れ物したせいで、黒井のやつに迷惑かけちゃったことがあって・・・それで、でもあそこで何してたって言われたらうまく説明できる自信がなくて、結局ちゃんと謝れずじまいなんです。あの、どうしてもってことでなければ、黒井にだけは、その、正直に言ってしまっても・・・」

「・・・」

「も、もちろんちゃんと他言無用って約束させるし、あいつだってそんな」

「・・・え、あの、こっちこそすみません。そうだったんですね。最近ずっと、何か、お二人の様子、おかしいなって思ってて・・・」

「・・・申し訳ない」

「こちらこそごめんなさい。あの、一応、大々的に発表しないでもらえれば、それで・・・」

「・・・すみません」

「山根さん、実は私・・・」

 その時廊下を人が通り、僕たちは「お疲れ様です」と会釈して会話を中断した。

 そして、でも、結局続きはなかった。

「ふふ、ごめんなさい、また言っちゃうところでした。全部、課長さんに話すつもりなので、もしよかったら、課長さんから聞いてください。・・・こんなの、重かったですよね」

「いや、そんな・・・俺が不慣れってだけで、そういう」

「あの、もしその方がよければ、黒井さんには私から・・・?」

「あ、いえ、出来れば、俺が」

「分かりました。大丈夫です。お二人とも、信頼できる方ですから」

 黒井の分まで否定するわけにいかないから、僕は曖昧に「すいません・・・」と頷いた。

 それから佐山さんは「あ、そういえば前おっしゃってた、紙フォルダの件ですけどね」と、いつもの感じに戻ってカードキーをかざし、僕たちはオフィスに戻った。そこには朝の喧騒があって、僕と佐山さんが抱えるそれぞれの個人的な人生のわだかまりとは別次元の、ルーチンが始まっていた。別次元ではあるけれども、でもそれを毎日コツコツこなすことで、きちんと出来るという実感を与えてくれたり、レ点のチェックで少し気が晴れたり、助けられている気もした。僕たちはキャビネットの前に立ってファイリングの効率化を検討し、いつものように島津さんもふらりと現れ、二つ折りの紙フォルダの有用性について語り合った。ようやく黒井に言える僕と、課長に話す決心をした佐山さんはたぶんいつもより饒舌で、島津さんに、「お二人とも、我々の活動は一応極秘なんですからね」とたしなめられてしまった。

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