27章:妙な耳鳴りと魔法の石

(パワーストーンが僕のトラウマを刺激する)

第200話:佐山さんの告白

 五月の最終週。

 新人の仮配属は六月からになるらしい。となると、歓迎会は一週目か二週目だろう。今時の新卒はむしろ歓迎会など歓迎していないような気もするが、まあ、それは僕の意見の押し付けであって、そうでない人もいるかもしれない。でもせめて、名前は「親睦会」あたりにしたらどうだろう。ま、どうでもいいけど。

 引き出しからマニュアルを出すのがちょっと面倒で、そのまま作業を済ませてしまったけど、結構もう体で覚えていた。シール用紙を忘れることもなく、ファイルの保存先もすぐ見つかる。

 電話に出て、恭しくカスタマーサービスのフリーダイアルを案内して切ると、途端に腕をぐいぐいとつかまれ、「いえあっ?」と変な声が出た。

「ね、ジュラルミン、来た」

「え?あ、そ、そう」

 そうか、こっちが電話中だったから、三課の内線が鳴ったのか。

 っていうか、おはよう、クロ・・・。

 どぎまぎしながら立ち上がって裏口に向かうと、黒井もついてきた。もちろん、「あ、いいよ一人で」なんて断りません。荷物一個に二人も要らないと言われたって、僕が途中で死んだときのためにも、刑事やSPみたいに、常に二人で行動した方がよいと思います。

「あの、お前さ」

「・・・え、なに?」

「何でそんな、何ていうか、かしこまってんの?」

「へ?」

「電話」

「・・・え、そうかな」

「俺なんかさ、はーいとか、よろしくーってしか言えないよ。おそれいりますが、とかそんな単語、頭に登録されてないもん」

「だ、だって、その、あれだよ。どっからどう面倒に繋がるかもわかんないし、お手本通り丁寧にやっといたほうが、その、匿名性も保てるし」

「ええ?」

「いや、だから、誰がかけてきてんのかわかんないのに、突然『はーい』とか言えないって」

「え、別に、誰だっていいじゃん」

「そ、それは、あのね・・・」

 それは、お前だからなんだって。

 お前がその笑顔で屈託なく「はーい」って言えば、女の子はへろへろになり、素直な男ははーっとなり、そうでない男はくそっと思いながらも表面上は作り笑いで取り繕う以外なくなるんだって。

 そして、対面でのそれに慣れきったお前だから、電話でだってそれが出るんだよ。

 こっちが何もしてないのに、突然キレられることとか、ないんだろうね。

 いや、あるのかな。でもお前なら、「あれ、どうしましたか?」なんて、動じないのかもね。

 いつもの腰が低いおじさんからジュラルミンを受け取って、僕は「よろしくお願いします」と受け取り印を押したバインダーを渡し、黒井が「お世話様ー」と見送った。

 当然のことながら僕がジュラルミンを持って、「眠いなー」なんて黒井の声を聞きながら歩いていると、ふと、耳元でぶうんと音がして、思わず振り返った。

 扇風機みたいな、ファンのように何かが震える音。

 蜂?とか思ったけど、たぶん虫のそれじゃなくて、妙に機械的な。

 それは二秒くらい続いたが突然止んで、元に戻った。

 右耳だけ・・・それはきっと、僕の耳鳴りだったんだろう。

「ん、どしたの?重い?」

「いや、何でもない」

 ジュラルミンを左手に持ち替え、右耳を引っ張ったり、小指を突っ込んだりしたけど、特に何もなかった。でも、キーンじゃなく<ぶうん>で、しかもそれは確かに、振動を伴っていた。

 何だったんだろう。

 三半規管の、あれかな。

 急に自分の体が内側から何かに食われているような感覚に襲われて、一瞬ジュラルミンを落としそうになった。

 黒井に抱きしめてもらって、大丈夫だ、俺が看取るって言われたいのに、体は正反対のことをしていた。左手から持ち替える振りをしてジュラルミンを何とか両手で運び、心拍数が上がってるのに「あー、俺も眠いよ」って、震える声をあくびでごまかす。

 そのまま踏ん張りたかったけど、どうにもだめで、「あ、そうだ、ごめんちょっとこれやっといて」と廊下に向かった。せめて「ちょっと腹が痛い」とか言えばいいのに、机の上にあった契約書なんか持って、せわしなく腕時計見たりして、あ、まさか藤井とのランデブーとか思われたらどうしよう。だって契約書を裸で廊下に持ち出す理由なんかないわけで、でも、今更戻れないし。

 とりあえず発送部屋に走って、誰もいないことを確認し、棚の奥に分け入って座り込んだ。

 大丈夫、めまいは起こってない。ただびっくりして、焦って、自分で心拍数上げちゃっただけだ。何も起こってない。

 深呼吸して、心臓がおさまるのを待った。

 早く戻らなきゃ、とそれだけずっと考えてたけど、座ったまま、足が動かなかった。

 ・・・何分くらい、経ったんだろう。

 カンカン、とノックの音がして、僕は慌てて立ち上がり、とっさに何かを懸命に探している振りをした。立ち眩みはしたし、びっくりしてまた心拍数は上がったが、まあ、こうして尻を叩かれれば一瞬で立ち上がれるってことだ。黒井との時間が減っていくっていうのに立たなかったのは、まったくただの僕の弱さだ・・・。

「あ、あれ・・・お疲れさま、です?」

「あ、ど、どうも」

 入ってきたのは、ジュラルミンを抱えた佐山さんだった。ああ、いつも中身を取った後どこに置いてあるのかと思ったが、発送部屋にしまっとくのか。っていうか、そのあと店屋物のどんぶりみたいにあの業者が回収に来るのか?そうでなければ発送部屋がジュラルミンで埋まってしまう・・・。

「あ、も、持ちますって!」

 僕は慌てて走り寄り、ここまで来てしまえばもう持つほどのこともないのにそれを受け取った。いつも中身なんかCD-Rとちょっとした書類だけで、だから、本体がやたらに重いだけなのだ。スーツケースサイズでも十分なのに、どうしてこんな大げさなもので運ぶのやら。

 っていうか、黒井が持って来い!

「あの、ここに置いとくんだったの?後で僕が、持ってきといたのに」

「あ、いえ・・・開けっぱなしだったから」

「え?黒井は?」

「何か、山根さんの席で、面倒な電話取っちゃって」

 佐山さんは苦笑いして、「いつも、そこに置いてます」と、部屋の端っこを指さした。

「・・・あの、何か、探してます?」

「えっ、あ、ああ、大丈夫。もう見つかったから」

「そうですか」

「何か、すいませんね。今度からちゃんと俺が・・・」

 ・・・しかし、佐山さんは指をちょっと口元にやったまま、動かなかった。

 僕は「あの、ちょっと、これ無駄に重いしね」と笑ったが、佐山さんは僅かに笑みを浮かべたまま。

 他の用があるのかと思って、ちょっと変だなと思いながらも部屋を辞そうとすると、「山根さん」と呼び止められた。

「は、はい」

 佐山さんは僕を見て、「・・・私妊娠したんです」と告げた。



・・・・・・・・・・・・・



 まず最初に思ったのは俺じゃないということで、次に思ったのは生で出したことなんかないということだった。命題二がなくとも命題一だけで今回の用は足りるのに、どうして付け足したのやら。

「・・・そ、それは、その」

「まだ、誰にも言ってないんですけど」

「・・・」

 考えるべきことは、いくつか散らばっていた。

 誰にも、って、まさかお相手にもってことはないよな?

 この状況を誰かに見られたら、何かまずくないか?

 ああ、だから重いものをちゃんと持ってほしいってこと?

 あ、っていうか、そのうち本当に辞めちゃうってことか・・・。

 言うべきせりふは、おめでとうございます、で、いいんだよな・・・?

「昨日一人で病院に行って来て、その、まだ心音は確認できないけど、妊娠だって言われて・・・」

「・・・」

「その、今後のことは、もちろん課長さんとも相談しないと、と思ってるんですけど」

「・・・うん」

「まだ、もうちょっと・・・来週また、病院行くので」

「あ、ああ」

 僕は何となく目を伏せて、たぶん無意識にその制服のお腹のあたりを見遣って、慌てて目をそらした。じろじろ見るなって、失礼だろ、人妻だぞ。

 ・・・あれ、まだ、結婚はしてないのか。

 じゃあ、婚約してるとはいえ、デキ婚的な?

 ああ、別に今時マズイようなことでもないし、ちゃんと婚約してるわけだけど、本人としてはちょっと気まずいか。っていうか、先に結婚しちゃえばいいんじゃない?月日を数えれば後からバレるとはいえ、そんなねちねちした親戚や友達なんか放っておけばいいんだ。でも、もしかしてそう簡単に来週結婚します、とか出来ないか。予定は皆無だし調べたこともないけど、式場がどうとか、お相手の勤め先によっては仲人を立ててとかそういうことも・・・。

「もしかしたら、つわりとか、ご迷惑かけるかもしれなくて」

「あ、う、うん。大丈夫、気にしないで」

 そうか、僕に言ったのは、今のポジションの流れで、業務の引継ぎとかそういうことか。次の派遣さんったってすぐには来ないだろうし、急に休むときは僕がフォローすることになるだろうし。

 ああ、そりゃそうだよね、課長にも言ってないのに、突然僕に言う理由なんか他にないよね。

 ようやくおめでとうございますを言おうと息を吸い込むけど、佐山さんの無表情を前に言葉が出なかった。いや、正確には、何分か前の笑みを貼り付けたままの・・・。

「だ、大丈夫?もし具合とか悪かったら、その」

「いえ、すみません。何か、急に・・・」

「あの」

「ごめんなさい、もう少しだけ」

 佐山さんは今まで僕がいた部屋の奥に引っ込んで、どこからか折りたたみ椅子を出してきて浅く腰掛けた。息をつくでもなく、じっと前を見つめている。僕は、一人にしてほしいということなのか、話を聞いてほしいということなのか、しかし、<冷たいところがある>という言葉が心に刺さって、唇を噛んだ。

 ゆっくり、パーソナルスペースを侵さないくらいの距離まで近づいて、「いろいろ、大変かもしれないけど・・・言ってくれれば、何でもするので」と、細心の注意を払って発音した。恩着せがましくならず、セクハラ的にならず、かといって、秘密を共有した雰囲気でなれなれしくならず・・・。

「はい、すみません」

「具合悪かったら、遠慮とかしないで・・・」

「でもたぶん、まだしばらくは、大丈夫です」

「え、えっと、それは、何て言うのかな、安定期だとか?・・・その、経験がないからわかんないけど」

 無意識に自分の腹をさすっていて、それを見た佐山さんが「それは、ないですよね」と笑った。やっと、笑ってくれた。

「あ、はは、そりゃそうだ、あるわけない。変なこと言ってすいません」

 いや、まあ、あれを飲んだことはあるけどね、なんて。

「・・・ごめんなさい。一人で、怖くて、しょうがなくなって・・・!」

 笑った直後に嗚咽が響いた。

 そこにいるのは、いつもの、ほんわか明るい佐山さんじゃないみたいだった。



・・・・・・・・・・・・・・


 

 横にしゃがみこんで、しかし肩や腕には触れず、椅子の背をつかんだ。

 いろいろな記憶が蘇る。

 黒井が忘年会で、うなだれていたベンチ。

 藤井がバスタオルを巻いて泣き出したホテル。

 そして、黒井の胸を借りて、<泣いて泣いて泣きやんだ>僕・・・。

「その、彼には・・・?・・・えっと、もしあれだったら、早退して・・・」

 佐山さんは両手で顔を覆ったまま、ふるふると首を横に振った。馬鹿な質問の仕方だな。これじゃ<彼にまだ言ってない>ってことなのか、<早退はしない>ってことなのか分からないじゃないか。

「どこか、体の具合は、その」

 今度は、ゆっくりとかぶりを振る。たぶん、体調が悪いということでは、ないんだろう。

 ・・・こういうのは、僕より先に島津さんにでも言ってほしいんだけどな。

 って、ああ、これが冷たいって意味なのか。でも、僕は胸も貸せないし背中すらさすれないんだから、彼氏が駆けつけて来いよ!・・・って、それもちょっと違うんだろうな。

 目の前に泣いてる女性がいて、当然男はお手上げなんだけども、でも、それを、どうするかってことだ。

 藤井は、歯を食いしばって自分で立ち直ってくれたけど。

 佐山さんには、まさに藤井が言っていた、本当の本番が訪れているわけで。

 ああ、でも、どうなんだろう。

 藤井さん、たとえそれが宿っても、すぐに心まで変わったりしないみたいだよ。相手と婚約までしてたって、怖いって震えてるんだよ。

 どうしたらいいんだよ、今すぐ俺と結婚してくれれば・・・って、全然違うよ!すべてが丸く収まる解決策を乱暴にどかんと置くんじゃなくて、もっとあるだろ、何か!

 どっかの鈍感男とは違って、僕なら出来るだろ!

 お前と散々泣いて、キレて、理解してきた俺なら・・・!

「・・・あの」

 ・・・。

 あれ。

 ・・・だめだ。

 佐山さんが、「大丈夫だよ、きっと何もかもうまくいくって」などという楽観論を欲するような人なのか、理解が足らなくて分からないよ。でも、こっちが戸惑った声を出したら、「すみません、困らせてしまって」とか言う人だってことは分かる。おたおたしないで、早く何か言わなくちゃ。でも、何て?もう、アタリをつけて、間違ってても多少失礼でも、道化になっておどけてみせるしかない。どうせ「本当の父親はあなたなの」ってオチもないし、最初から期待値なんか限界スレスレに低いはずだし・・・!

「昨日、病院、行ったっていうのは・・・」

 つぶやくと、佐山さんはうつむいたまま何度か頷いた。その事実は既に聞かされているんだし、この時点では、無視でなければ<YES>の返事しか出しようがないだろう。

「一人で、行ったってこと・・・?」

 今度も、頷く。こうしてアクションを繰り返させることで、少しずつ何か言いやすい雰囲気に持っていく・・・。

 はは、やっぱりだめだ、女性相手にはなぜだか、黒井とのあれこれを応用出来る気がしなかった。よりによってとっさに出たのは、取調室での尋問術だ。

「どうして一人で?彼は、日曜も仕事?」

 一瞬体が止まり、それからゆっくり首を振って<NO>。普通に考えれば、彼に言わず一人で行ったってことは、彼はまだそれを望んでないってことであって、しかも結婚前にとかは家柄的にまずくて、婚約解消におびえてる、とか?・・・考えが二時間サスペンスみたいなぺらぺら具合だけど、他のイレギュラーな可能性を考えても仕方ないから、もうそれでいくしかなかった。

「ああ、まさか彼ってすごく若いの?ハタチとか?」

 ちょっとおどけて言うと、「そんな、違いますよ」って感じの、速めの<NO>。

「じゃあ、出張中とか?東京にいない?」

 次はややゆっくりめの<NO>。

 彼は三十前後の年齢で、日曜休みの勤め先で、東京に住んでいる。たぶんまだ同棲はしてなくて、一人暮らし。

 いやいや、別に、真相を吐かせたいわけじゃなくて、ただ落ち着かせたいだけだ。もちろん本当のことを言ったらすっきりするだろうけど、別に、僕に言う必要はないんだし。

 ・・・まさか、お相手は彼じゃない?

 いや、そんなこと、佐山さんに限ってないだろうし、万が一そうだとしたって、こっちからちらりとでもそれを示すべきじゃない。そんなことは、頭の片隅に疑われるだけでも汚らわしいだろう。僕は冷たくて気持ちの悪い変態かもしれないけど、汚らわしくはないつもりだ。

 僕は、彼のことを詮索するのをやめて、自分のことをダシにしてでも話題を変えることにした。

「あの、病院、さ、すぐ分かった?」

 ちょっと明るい調子で言うと、質問の意図をつかみかねて、佐山さんは少し首をかしげた。

「その、実は、俺もちょっと前に、病院にかかってさ・・・」

 少し深刻そうに言うと、ようやく、顔を上げる。思い通り動いてくれて嬉しいけど、テクニックを試したいってわけじゃないよ。

「すっごいたらいまわしにされて、何時間も待たされるし、大変だったよ。結局言われたのは、生活習慣をあらためて、とかね。それならどこの科でも一緒だろ!って」

 僕が笑うと佐山さんも少し笑って、ハンカチを出して頬をぬぐうと、か細い声で「私は、行く科は決まってたので・・・」と。

「あ」

「・・・はい」

 そりゃそうか。産婦人科以外、どこへ行くっていうんだ、はは。

「すいません。何か、的外れなこと言った」

「・・・いえ、いいんです。でも、山根さん、どこか・・・」

「あ、ううん、別に、大丈夫だから」

 さっきの耳鳴りを思い出して、っていうかそもそもそれでここへ来たんだったけど、語尾のトーンが落ちるのだけは必死に食い止めた。

 大丈夫だ、佐山さんの、今後の人生が変わるような不安に比べたら、僕なんて。

「実は、ちょっと心配してたんです」

「え?」

「健康診断、行きました?」

「へっ?」

「何か、山根さんだけまだだって・・・。何か、行きたくない理由でもあるのかなとか、でもてっきりもう行かれたかと」

「・・・行ってない。ああ、忘れてた」

「ふふ、じゃあ、忘れるくらい、大丈夫なんですね?」

「あ、ああ、うん、そうだね。別に一回くらい、行かなくてもいいかな、はは」

「・・・そうですよね。別に、私のは病気でもないし、おかしなことでもないし、むしろ、自然なこと・・・」

「う、うん、そうだよ」

「ですよね。これで、いいんですよね」

「いいよ。悪いことなんて、何も」

「・・・ありがとうございます」

「・・・おめでとうございます」

 僕は立ち上がって馬鹿丁寧にお辞儀をし、佐山さんは泣きながら笑ってくれた。膝が痺れているのを隠しながら、僕は、「いいよ」なんてせりふが適切だったか、タイミングが早すぎず遅すぎずだったかって、何度も反芻していた。

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