(2日目:買い物や夕食で、家族の構図を垣間見る)

第252話:優雅なブランチ

 和室の、床の間には時代がかった置き時計があり、透明のドーム型の蓋に覆われて中の振り子が揺れていた。家は新しいけど、置いてある物はどこか昭和風のものがあり、黒井が小さかった世田谷のヤモリの家から、転々とここまで来たのかなあなんて思った。

 黒井のことを、甘やかされたお坊っちゃんめ、とは思ったが、ここにいればそれが自然体に見えた。まあ、それが家族というものだろう。しかし、もしここにいかにも厳しそうな父親が加われば、空気も変わると思う。きっと親父さんもおおらかな人だったか、あるいはお姉さんの旦那さんのように無口な人だったのかもしれない。

 畳に座って荷物を整理しながら、布団からはみ出したその手に、戯れに触れたくて、でもやめた。せめて線香の一本でも、とずっと思ってはいるのだが、仏壇というものもないのかもしれないし、っていうかそれならお線香でもないか。遺影ぐらいは拝みたいけれど、何となく、黒井に言い出せなかった。父不在の家族はそれでも明るくにぎやかだけれど、僕たちが帰ったらお母さんは寂しいだろうなと思った。だからこんなに、飛行機代まで出してくれて、もてなしてくれるのだろうか?父の物だったという黒井の鞄を見ながら、何となく、勝手なノスタルジーに浸った。そういう色々を思ってわき上がってくる、その腕を押さえつけてお前が好きだと言ってキスしたいという欲望を何とか受け流し、花火残念だったねとか寿司うまかったねとか、適当に話しかけた。


 やがて、返事はなくなり、寝息が聞こえた。

 まあ、始発から起きてるしね。

 僕だって疲れて眠いけど、何となく、興奮して、眠れる気はしなかった。

 ズボンだけ用意された短パンに履きかえ、鞄から般若心経のCDつきの薄い本とドリルを出す。和室でやると雰囲気が出るかも。

 集中は出来なくて、しかも筆ペンを忘れてきてしまい、眺めているだけだったが、さらさらした淡い雨の音を聞きながら、まるで旅館にいるみたいな気分。

 しばらくして「失礼しますよ」の声とともに引き戸が開き、お母さんが「あららら」と黒井を見て小声になった。僕は本を閉じて会釈し、お母さんは「まあまあ」と言いながら、持ってきたメロンをそうっとテーブルに置いた。ひそひそ声で、「お風呂、もうちょっとかかるのよ」と。

「いえ、あの、お構いなく」

「まあまあ、座布団も出しませんと、足を痛くしますよ」

「あ、いえ・・・」

 押入から座布団を出し、どうも、と座らせていただく。

「あら、それはなあに?」

「え、こ、これは、ですね」

 お母さんは本を手にとって少し遠ざけ、「<声に出して読む、はんにゃしんきょう・・・>?」と音読した。ひい、<ドグラ・マグラ>とかじゃなくてよかった!

「まあ、お経・・・そっちは、え、ドリル?」

「あ、はい、その、写経出来るようになってまして」

「あら、ちょっと見せて?・・・ふうん、脳にいいの、へえ、ああ、こうやってちょっとずつ書くのね。毎日書いてるの?」

「いえ、別に毎日必ずってわけじゃないですが・・・」

「お休みの日とかに?」

「え、ええ、あと、会社で朝書いたりとかも」

「あら、そう・・・まあまあ、とっても上手ねえ。書道とかやってらっしゃるの?」

「いえ、そんなじゃないです。あの、なぞるだけなので、この、薄いお手本をなぞってるだけでして・・・」

「ああなるほどね、なぞり書きなのね。・・・でも難しい字が多いわねえ、見て、これなんかとても、ふつうではお目にかかりませんよ」

 僕は、常用漢字ではない写経体という特殊な、大陸から伝わった時のままの漢字を使っていると説明し、大層感心された。何だか、いちいちすごいと言ってもらえるのが嬉しくて、意外とシュールなお経の意味とか、物理との類似点なんかもまくし立てたくなるけど、「何となく心が落ち着きますね」と言うにとどめた。浮かれすぎるな、褒められてもつけ上がるな。

「偉いわねえ、こういうのもね、少しずつきちんきちんとやるのが、とっても大切なことよ。なあに、会社の宿題なの?」

「えっ?いえ、宿題ではないです。ただ、好きでやってまして・・・」

「まあ、いいじゃない。脳にもいいって書いてあるしねえ。若いうちからやっておくのはとってもいいことよ」

 メロンがぬるくなってしまうから、先にお食べなさいな、と言って、お母さんは黒井のお腹にタオルを掛けてやり、「失礼しました」と言って仲居さんみたいに出て行った。僕はまた、飯塚君と駅で別れた時みたいに頭を抱えて、外側の自分を内側に引っ張って、たくしこんでボールみたいに丸まってしまいたい衝動に駆られた。お言葉に甘えて、切れ込みの入ったメロンを一気に食べ、柔らかいそれを口の中で押しつぶして、果汁を飲み込んで一息ついた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・



 黒井が、頑張ったことは褒めてくれるけど、労働至上主義だ、なんて言っていたことを思い出した。お母さんはあまりお経の深い意味には関心がないようで、一生懸命毎日書くという姿勢を讃えているようだ。

 ・・・こそばゆい。

 黒井のお母さんから偉い、すごいと、僕も言われた。

 嬉しい。

 いや、違う。たぶん僕のは、自分がちゃんとした、いい人であるというアピールをして、黒井の友達、親友、その先であることまで、これで認められやすくなったんじゃないかっていう、そういう打算だ。だから嬉しいだけだ。別に、僕まで、黒井みたいに甘えっ子になったわけじゃないぞ・・・。

 本を読んでも字を目で追うだけ、いや、そもそもページすら見ておらず、とうとう閉じて、壁に背をもたれた。

 いつの間にか、ぼんやりとして、少しだけ、と思って目を閉じた。



・・・・・・・・・・・・・・



 目を開けたら、枕があって、布団で寝ていた。

 ・・・見慣れない壁。いつもと違う空気とにおい。え、何だっけ、どこだっけ。

 どうしたんだっけ。

 ・・・床の間の時計の、金色の振り子が揺れている。

 あの時計はどうしたんだっけ。っていうか何時なんだ?時計はどこだ?

 ・・・あっ、黒井の、家なのか。島根なんだ。

 昨日はどうやって寝た?よく覚えていない。どうしよう、障子の窓が明るくて、朝みたいだけど、何をどうしたらいいんだ?

 ゆっくり体勢を変え、寝返りを打つと、黒井の背中。うわっ、朝一番から何て幸せ。いつもは会社で眺めるYシャツだけど、今日は紺色の薄手のTシャツで、肩胛骨の陰影がしっかり見える・・・。

 ・・・うっとりしてる場合じゃないか。

 とりあえずトイレに行きたいけど、どこなんだろう。

 だから、時計は、携帯はどこなんだ。

 いったいどうやって寝たんだ?

 もういいか、この背中を見ながら、もうちょっと・・・。



・・・・・・・・・・・・・・



 次に起きたときは、「おはようございますねぼすけさんたち?」と、お母さんが引き戸を開けて、飛び起きた。布団に半分正座し、Tシャツの裾をズボンから出して引き下げながら、「お、おはようございます、すいません」と頭を下げた。

「疲れてたんでしょうよ。ほら、彰彦さんも、少し食べるでしょう」

「ん、んー」

「食べたらお買い物に行きますから、あなたたちも行きますか?」

 まだむにゃむにゃ言っている黒井に代わり、僕が答えるしかない。

「・・・か、買い物」

「大きなね、スーパーがあるんですよ。ホームセンターも一緒になってて、まあ、少しは楽しいかもしれませんよ」

「あ、そ、そうですか」

「・・・また、車を出してくれると、助かるんですけどねえ」

「あ、それは、もちろん」

「そう?さっき、ノブユキさん帰ってしまったから」

「え、あ、仕事で?」

「うん、会社ではないんだけど、打ち合わせがあるんですって」

「会社・・・弁護士さんとかじゃないんですか?」

「え?弁護士?」

 お母さんによれば、ノブユキさんは元市議会議員の秘書で、今は大手電化製品のメーカー勤務とのこと。中途だが、年齢の割にはなかなか大層な地位にあるらしい。なんだ、エリート検事じゃなく、僕たちと同じ会社員じゃないか。年収はだいぶ違いそうだけど。

 じゃあ適当に、下りていらっしゃいねと言ってお母さんは出ていった。

 話しぶりから、娘婿を、息子のようにかわいがるわけではなく、大人の男性として信用しているという感じがうかがえた。まあ、その肩書きとあのどっしりして堅実な雰囲気があれば、そういう風に見られるんだろう。あと十年経って、たとえ僕が同じ年収を得ていても、何だか無理だろうなと思った。無口になってみたって、何かが違う。

 僕はせいぜい、やんちゃな息子の、年下の友達だ。

 友達・・・。友達、なんだろうな。

 また距離感が分からなくなりながら、その肩にそっと触れて、ゆっくりと揺すった。「クロ、朝だよ」と声をかけ、あ、クロって呼ぶのは半日以上ぶりかな、と思い、今何時なんだ、と床の間の時計を見た。

 ああ、何か認識してなかったけど、これで時間が見れたんだ。

 それは十時を指していて、昨日寿司屋から帰ってきたのが九時前だったわけで・・・え、十二時間近く寝てたわけ?


 タオルを持って黒井と階段を下り、洗面所へ。黒井がトイレに入っている間に顔を洗う。っていうか、歯も磨かなくては。ああ、風呂も入っていない。でもまずトイレが先だ。

 黒井と入れ替わりに用を済ませ(トイレの中もひらひらの飾りや小物だらけだ)、出ると、歯ブラシを渡された。もごもごと何を言っているか分からないが、どうやら僕たちの分を用意しておいてくれたらしい。何から何まで、まったくすみません。


 リビングに入ると、お姉さんがいくと君をひざに抱いて、絵本を読み聞かせ中。僕たちを見ると、「うわ、よく寝たね!」と辛らつな一言。そしていくと君に、「あっくんもやまねこくんも、たくさんねんねしてあんなにおっきくなるんだよー」って、うん、まあ、黒井家の女性陣はかなり小柄だから、黒井だけ頭一つでかいんだ。親父さんの背が高かったんだろうか。

 ダイニングにクロワッサンのサンドとヨーグルトとミルクティーが二人分出されていて、「少しパンが冷めてしまいましたよ」と。クロワッサンにはスクランブルエッグにベーコンに、薄切りのトマト。まったく素敵なブランチだ。・・・もしかして、こういうのと比較されてると思ったら、黒井に作ってやるのもちょっと気が引けてきた。でも、まあ、母親の料理にかなわないのは古今東西全国共通だから、それは仕方ないか。

 「どうも、すみません、いただきます」と食べ始め、じゃりじゃりしたはちみつの乗ったヨーグルトをいただく。ざらめ糖みたいで歯触りがいい。クロワッサンをほおばり、ふつうに、お店みたいだ。ミルクティーにはまた、不可視の氷。

 「氷が透明ですね」と話題を振ると、「ええ、ええ、作ってますからね」とのこと。ちょっと首を傾げると、すぐに冷凍庫から持ってきて見せてくれた。平たいタッパーに水が入って、いや、傾けてもこぼれない。凍ってるのか。

「一度沸かして、こうやって薄い容器で凍らせると、白くならないんです。それを、これで」

 そして、金色の洒落たトンカチと、アイスピックが出てくる。すると黒井がぱっと目を輝かせて反応した。

「それ、俺が好きだった金槌!」

「あらそう?」

「あのね、下のところを回すと、あの、マトリョシカみたいに出てくるんだよ。マイナスドライバーと、プラスと、マイナスと、プラス」

「ふ、ふうん、珍しいね」

「俺、よくこれで遊んでたな。懐かしい」

「そうだったかしら?」

 お母さんは黒井がはしゃぐのには特に関心を払わず、僕に氷の話を続けた。冷蔵庫に製氷機がついているのだが、それとは別にこうして綺麗な氷を作って使い分けているとのこと。黒井は「俺も砕きたい」と言うが、「作ったばかりですから、後でやって頂戴」とあしらわれる。適度に放任というか、あるいはもしかして、黒井にやらせると結構キッチンを荒らされるってことを・・・うん、僕より当然ご存じのはずか。


 食べ終わり、食器くらい洗うと申し出るべきか、いや、聖域に入るべきではないかと悩み、とりあえず皿を黒井の分も重ね、重ねたならそれを放って立ち去れないし、と、「ごちそうさま」を言ってシンクに運ぶべく、聖域に踏み込んだ。するとまあ、すぐさま警告。

「あら、いいのよ、そのままで」

「いえ、あの、洗います」

「まあまあ、そこに置いといて?あのねえ、秘密兵器がありますから」

 そう言ってお母さんは僕から食器を取り上げてシンクに置き(うちの二倍くらいあって、そして当然流し周りは綺麗にしてある)、その下の引き出しをぐっと開けてみせた。・・・ああ、こ、これは、ビルトイン食器洗い機というやつではありませんか。

「これ、いいでしょう?」

「こ、これは楽ですね。すぐ下についてるのか」

「思い切って付けたんでございますよ。食器洗い機なんて、どうなのかしらって思ってたんですけど、使い始めたら、まあ便利だこと」

「そうですか、やっぱり綺麗に落ちますか」

「あのね、予洗いっていうの、よあらい、分かります?」

「・・・よあらい」

「そう、ほら、こうやってね、お皿をさっと水で流すの。それからこうして、大きさを揃えて並べます。ここの隙間がないと、これはだめ。カレーとか、あと卵ね。くっついたまんま出てきますよ」

「ああ、卵・・・特に黄身が」

「そう、黄色く残ってね。そういうのは予洗いして、隙間をちゃんと考えて入れれば、綺麗に落ちます。お鍋とか大皿はもちろんふつうに洗いますけど、こういう、小皿、揃いの小皿なんか、お客さんにたくさん出しますでしょう。そういうのを洗うのには、本当に楽です。こういう便利なものは、目一杯使いませんとねえ」

 労働至上主義といっても、無益な労働と価値ある労働があるようだ。我が家でいえば、たぶん予洗いする手間で洗い物が全部終わってしまうだろうけど。

 興味がないのであろう黒井はさっさと向こうへ行って、絵本の朗読を始めている。ああ、何か、親子ですね。

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