第221話:「コペンハーゲン」をもう一度
食後はビールとともに<ATOM>の第五章を読んだ。
エンリコ・フェルミから始まり、第二次世界大戦を越える長い章だった。そこに学究の愉しみはなく、終わりの見えない分厚い黒雲に覆われた、息苦しい時代だった。
最初こそ「フェルミは理論と実験両方を完璧にこなす本当の天才でさ」と解説を加えていた黒井も、次第に口数は少なくなっていった。
僕らが知らない時代。
僕は原爆という言葉の重みと、広島・長崎合わせて確か三十四万人?の死者のことを思った。この数字がいったい何を意味するなのか、ぴんとは来ない。死ぬときは全員、あの教科書の写真みたいに、地面に影だけ残して蒸発すればいい。あの焼け野原であんな火傷をして、今回の比ではない放射能にまみれて、苦しんでから死んだって遺体の処理が大変になるだけだ。
ちょうど、一ヶ月後か。
何回目の祈念日になるのか忘れたが、どうしてよりにもよって夏なのかな。日本の夏は湿度が高いし、腐りやすいんだって、そういう人道的配慮をしてほしい・・・。
・・・っていうか。
何だか急に日本に原爆を落とす話になってるけど、突然どっから出てきたんだ、って感じだ。ナチスが台頭して、アメリカがそれを憂慮して、先に原爆をつくって、作ったからには落とすことにして、その候補として当時日本が適当だっただけ・・・だったんじゃないか?
だって、これは、日本に落とすべく作り始めた訳じゃない。じゃあ何でドイツに落とさなかった?敵対しているとはいえ、ヨーロッパというアメリカのふるさとを放射能で汚染したくなかっただけじゃないか?アジアの野蛮な島国なら構わなかった?
一歩間違えば僕は生まれてなかったんだぞ、と、柄にもなく憤慨してみた。
戦争に行った祖父を待っていた祖母は、あの日、あのきのこ雲を、玄関先からその目で見たんだ。
爆心地からは遠かったから大丈夫だったけど、僕にとってまったくの他人事ではない。もう亡くなったし、あまり話したこともなかったけど、もっと聞いておけばよかった。
それでも、<冷たいところがある>僕は、こんな形で<ATOM>の歴史ドラマと何がしかの接点があることを、少し・・・うん、喜んでもいた。結局は知らない人が何十万人死のうと、本当に憂うのは遺体の処理のことだけで、何となく心を痛めている振りの僕だ。そんなこと黒井にも知られたくないから、沈痛な面持ちで読み進める。
・・・黒井は、ドイツにいたんだ。
じゃあ、ドイツ側の視点で読んでるのかな。
そうだ、そして、<コペンハーゲン>。演じられなかったハイゼンベルク。
これが、僕たちのアトミクの原点か。
ドイツでナチスの命を受け原爆を作らされるハイゼンベルクと、デンマークからユダヤ人科学者をアメリカに亡命させる師・ボーア。二人はアメリカからもナチスからも最重要人物としてマークされていたが、そんな厳重警戒の隙を縫って一度だけ再会を果たす。その時何が語られたのかは、藪の中・・・。
読み終わって、何となく、ぬるくなったビールに口をつけ、ため息。
沈黙。
何か少し軽いことを言って場の空気を和ませようと、無意識に「ああ、あのさ・・・」なんて言ってみるけど、その先は、考えていないわけで。
「・・・うん?」
「いや、その」
「うん?」
それが無責任な口からでまかせだったのか、無意識にそう思っていたのか、僕は、「見てみたいよ」などと言った。
「何を?」
「お前の、<コペンハーゲン>」
・・・・・・・・・・・・
「いや、いや、そんなの・・・」
黒井が苦い顔をするので、軽々しく人のトラウマに突っ込んだ僕はしかし、後ろめたさで自分を正当化する。
「だって、確か、自分でアレンジしてたって」
「いや、あれはさ、別に、何か気に食わないとこを勝手に直したんであって、オリジナルなんかじゃないよ。・・・あのね、後から、分かったんだよ。あれは、俺がただ自己主張したかっただけであって、あんなの、修正でもないし、作品のテーマとか何も考えてなかったって」
黒井は立ち上がって、壁に寄りかかり、右斜め下をひたすら見つめていた。まるでそこに過去があるみたいに。いや、あるいは、過去は逆の方向にあって、そこから目を背けるように。
そして、なぜか僕の自己正当化は続く。押されたら引くけど、引かれると押してしまうんだ。
「でも、やっぱりクロはこのテーマに何がしか惹かれるものがあったんでしょ?それを、その、今からだって・・・」
「芝居をやれっていうの?」
「い、いや、別に舞台をやるかどうかはおいといて、脚本だけでも」
「脚本?書けないよ。だから言ってるじゃん、自分の奥からわいてくるもんなんてないんだ」
「でも<アトミク>って単語は自然に浮かんだじゃないか。脚本なんてその延長だ」
「そ、そんな簡単に・・・いや、そういう問題じゃないよ。そ、そんなの無理だ。出来ないし、・・・出来てる自分が思い浮かばない。何が楽しいのかも分からない」
「やってたら楽しくなるかも」
「な、何が言いたいの?俺を焚き付けたいの?過去のやり直しなんかしたってしょうがないよ。俺の過ちは戻らないし、あの時消えたものも・・・」
「でも絶対、原点はそこにあるんだ。<過ち>だなんて感じてるんだろ?ならそんなの塗り替えなきゃ。お前は何も悪くないよ。ただ、周りの雰囲気がたまたまそっちに向かったってだけだ。日和見の人たちにあっちこっち惑わされたって意味ない。自分が思ったことをするだけであって、何なら一人でやればよかったんだ」
「・・・それは、お前に中身があるからそんなこと、言えるんだよ」
その低く言い含めるような一言は僕に突き刺さって、僕はただ、「・・・そうか」と答えた。何となく、お前ならそう言うんじゃないかって言葉を無意識に紡いでしまったと感じたけど、それは、お前が掲げた、失われた中身か。
理屈先行で人の気持ちを考えなくて、それでも支障がないように、人を遠ざけてきた僕だ。
それは中身があるから強いんじゃなく、敵のいない無人島にいるから無敵ってだけ。
でも、やっぱり人が恋しくて、本当の孤独には耐えられないって、ねえ、飲み会の後に押し掛けてきたことが証明してるよ。
「・・・こないだ、会って来たんだよ。あいつらに」
「・・・え?」
黒井は壁に寄りかかり、そのまましゃがみこんで座って、僕の方は向かず天井を見上げた。
「俺の誕生日。あいつら、年に一回くらい今でも集まっててさ、俺はいつも何だかんだで行かなかったんだけど、いまだに誘いのメールだけは来てたんだよね。行くつもりなかったけど、急に、行けるかもって思って」
お前の、誕生日。
ああ、プラネタリウムをあげて、そして、俺がお前の・・・。
「お、お前、そうだ、酔っ払って電話してきたじゃん。気持ちよく飲んでたんじゃないの?」
「うん、でも何か笑っちゃうよ。・・・うん、俺も馬鹿だけど、・・・行ったとたん、あの時は悪かったって土下座されたりすんじゃないかって、はは、半分冗談だけど、思ってたんだよ。そしたらあいつら『久しぶりー』とかいって、あの時のことなんもなかったみたいに、さ。それで、しばらくしてちょっとその話出してみたら、そんなこともあったみたいな話し方で、そのうち演劇論みたいになってきて、俺、全然気にされてないの。ねえ」
「・・・う、うん?」
「お前みたいに、黙って俺の話聞いてくれるやついないんだよ。そうやって、その頭ん中で、またちくちく理屈考えてるんでしょ?俺の何がどーだこーだって、考えてくれてるんでしょ?」
「え、う・・・うん」
「ねえ、今日も泊まってく?」
「・・・え?い、いや、帰るよ」
「そっか。・・・夕飯美味しかった」
「・・・それはよかった」
それから僕は、「何で帰るなんて言ったんだ」って頭の中で百回くらい唱えながら帰り支度をして、部屋を辞した。黒井は送ってくれなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・
ほとんど浮いていってしまいそうな心持ちで、視線も、電車の中の天井近くの広告を眺めていた。
天にも昇る、ってやつじゃなくて、上の空。
経緯も結論も、いつもの理屈も用意できなくて、僕の頭は、レポートを書かないなら用もないofficeのワード。沈むんじゃなく上へ浮かんでいくのは、たぶん何が起きてるのか分からない、<?>(クエスチョンマーク)のせいだろう。語尾が上がる勢いで頭も上に上がっちゃうんだ。
・・・喧嘩別れ、じゃないと、思うけど。
・・・。
しばらく真っ白でスペースキーを押し続けて、鞄の上に置いた手にその振動を感じても、最初は何のことだか分からなかった。
あ、ああ、携帯か。
取り出すと黒井からの着信で、しかし僕は反射的にそれを切った。
急いでメールの新規作成で、<今電車だから、すぐかけ直・・・>と、その間にもまたかかってきた。
立ち上がってドア側に移動しながら、何も聞かず「ごめん今電車だから」と、黒井にではなく車内の人に対する言い訳。ドアの横は<携帯OFF>のシルバーシートで、僕はそのまま後部車両へ移動した。
「後ですぐ、かけ直すから・・・」
「後でじゃわかんなくなっちゃうよ。ねえ、返事しなくていいから、今聞いて」
「え?いや、その・・・」
車内で<通話はご遠慮下さい>だよ。そういうルールを破って、世界の秩序を乱したくないんだ。たとえ相手がお前でも、せめて自分だけは。
でも、急行に乗っちゃったから、次の駅までまだかかる。
別に、話さないならいいか。会話はしないんだ。
でも、電波が通じてるなら<通話>にはなるよね。
携帯用のイヤホンがあれば問題ないのにな。
「あのさ、お前が悪いんだよ。この期に及んで、お前が悪い」
「・・・」
何だか聞き捨てならないことを言われて、いったん、ルールのことは反故にされた。都合のいい秩序だ。
「お前さ、コペンハーゲンを今からでもやればいいって、脚本だけでも書いてみればって、そう言ったでしょ?」
「・・・」
「俺は、そんなの無理だって、そう思った。そんなこと出来ないし、そういうことじゃないって」
「・・・」
「ねえ、お前さ、俺と一緒にそれをやろうって、そう思って言ったの?」
「・・・」
「違うでしょ。ねえ、ちがくないなら、咳払いでも何でも、声出してよ」
「・・・」
「ほらやっぱそうだ。だから俺、そんなの無理だって、お前にはわかんないんだなんて、八つ当たりだよ。やって<みれば>じゃなくて、やって<みよう>って、何で言ってくんないの?・・・分かってるよ、どうせそんなの踏み込めないとか言うんでしょ。ねえ、お前のその一人癖、いい加減何とかなんないの?」
「・・・」
「土足で踏み込まれて困るような部屋はないんだって、何回言わせんの?ただの荒地だよ、ずかずか入り込んで、掘り返して、開墾でもしてよ」
「・・・」
「・・・ねえ分かった?はあ、言ったらちょっとすっきりした。はは、どうせ今お前は反論とか考えてる?」
「・・・」
「うん、・・・でもね、お前が一緒にやってくれても、あれはもういいんだ。逃げてるのかもしれなくても、もう見たくない。やる、なら・・・あの時の焼き直しじゃなく、まったく新しいものを、それなら、何か」
「・・・」
「ああ、でも二人じゃコペンハーゲンは出来ないよね。三者三様のトライアングルだから成り立つんだ、あれは。でも・・・もう一人入れる気はないよ。さてどうしよう」
やっと駅について、僕はちょっと足踏みしてドアが開くのを待った。
脚本を書くのに、それぞれの視点で三人必要なのか?と思ったのはたぶん勘違いで。
演じる、人数のことだ。それって舞台に上がる役者のことだ。
・・・僕は演劇なんか出来ないぞ!!
プシュ、とドアが開くと同時に僕はまくし立てた。
「お、おいこの黒犬!黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって、お前、一人が嫌だからって勝手に俺を人数に含めるなよ?俺が出来るのはプロットの見直しとか誤字脱字の修正くらいで、舞台になんか立てないからな。いいか、いくら一緒にやるからって、人には向き不向きってもんがある。裏方なら何でもやるが、俺は人前には出ない!」
黒井は突然喋った僕にびっくりしたみたいだけど、少し笑って答えた。
「・・・そうなの?お前意外と度胸あるのにさ」
「あろうがなかろうが出ないものは出ない。自分から言っといて悪いとは思うけど、いくらお前に頼まれたって、舞台とか、演技とかは、無理だ。やらない」
「・・・じゃあ、その、プロットがどうとかならやってくれるの?」
「そういうのならいくらでも手伝う。紙の上で出来ることなら」
「ね、俺キレていい?」
「は?」
黒井はすうと息を吸い込み、電話越しに、怒鳴った。時々、ドン!とかバン!と、床や壁を殴る音。
「一緒にやるってそういうことじゃないだろ!<手伝う>って何だよ<手伝う>って!今まで黙って俺の話いったい何を聞いてたの?またそうやって突き放すの?もういい加減にしろよ、この・・・」
「・・・」
「え、えっと、この・・・」
「・・・この?」
「・・・はは、何だろ。この、・・・腑抜け、と石頭、で、迷った。どっち?」
「ああ、それは、まあどっちもだ」
「ふにゃふにゃとカチカチと、イメージがバラバラで、一瞬出てこなかったんだ」
「ああ、そう。もう、キレ終わった?」
「終わった」
僕と黒井は、意味もなく一分くらい笑い続けた。
そして、ひととおり笑い終わると、黒井は言った。
「・・・で、<プロット>って何?」
・・・・・・・・・・・・・・・
プロットとは何かを説明しようとしたけど、「今日はもういいよ、また明日」とのこと。
・・・明日を、くれるのか。この腑抜けで石頭の僕に。
電車が来たから、と電話を切って、帰路に就いた。
今度は前方中央やや下をぼうっと見ていて、ああ、視線は結構雄弁だなあと思った。
帰ってシャワーを浴びてスクワットをし、持ち帰ったあのチラシの裏を見ながら布団に入った。
まずは自分の夢の分析。
神社というのは何か意味のある、どちらかといえば神聖な存在だろうが、僕はそこにたどり着けなかった。花見の時、黒井はたどりついたけどね。
そして<光>の本は見もせずにやめた。
車に乗っていた僕と黒井と、小学校の同級生。どうして二人きりじゃないんだ。何で三人目が必要なんだ?
・・・まさか、コペンハーゲンに必要な三人目?
神社も光も得られなかった僕は、このまま安穏と二人きりではいられない?黒井はもう一人入れる気はないって言ってくれたけど、ふいに適任が現れたら、どうなるか。
小学校のそいつは、どんなやつだっけ。
確か、顔もよくてスポーツも出来てお母さんが若くて美人で、父親は医者だとか。でも、性格が粗野で、学年が上がるにつれて不良っぽくなっていき、暴力沙汰を起こしたりもして、女子からも男子からもちょっと敬遠されていた。その後は知らないけど、一度だけ、まったくの金髪になったそいつを見かけた。隣には茶髪のギャルを連れて。
小学一年か二年の時、同じ登校班だったから何度か一緒に帰ったりして、その時は別に怖いやつでも何でもなくて、犬の糞か何かのネタを延々繰り返して帰ったのを思い出した。
父親が全然帰ってこなくて、多すぎる小遣いで遊び歩いていたとか。でもその割には家はふつうのアパートだったけどな。もしや小遣いじゃなくてカツアゲや犯罪で得た金だったのか?
はは、人に興味ないと言いつつ噂話はしっかり入ってきてるもんだ。
とにかくこの同級生の水野がなぜ今になって出てきたか。夢の中ではまったくふつうの好青年だった。まあ、僕の頭の知り合いリストが少なすぎて、小学校まで遡ってキャスティングされただけだろう。顔がよくてスポーツが出来てお金持ち、しかし行く先は黒井とは正反対、そういう対照性だったんだろうか。
でも、僕は夢の中で、黒井以外の人間がいることに嫉妬を感じたりはしていなかった。もしかして、いつか本当にそんな日が来てしまうのだろうか。
・・・まあ、今言っても仕方あるまい。
僕は気を取り直して、黒井の方の分析にかかった。
・・・。
っていうか、これは夢じゃないだろ。
寝ぼけて混乱してるだけだ。絶対レム睡眠じゃない。
今更ながら、勝負の件は何となく言いくるめられたような気もしてくるが、まあいい。
黒井の深層心理を元にプロットを立ててみたら、なんて目論見はさっさと頓挫した。
・・・。
深層心理。
精神分析。
夢。
過去。
プロット。
脚本。
舞台。
演劇。
・・・僕の作ろうとしていた、地図。
そして、たぶん、山根弘史と黒井彰彦がそれぞれに求めている、救済。それはきっと過去のトラウマやら今の性格の不完全さ、不安定さやらが絡んでいる、けど明確には解きほぐせていない。
しかし何となく、ぼんやりと、それらは同じ土俵に乗っているような気はした。
僕は携帯を開いて、<明日、プロット会議を開きます>とメールした。すぐに<黒井、出席>と返事がきた。
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