第177話:野宿の顛末と心地よい朗読

 息が止まったまま、しばらく何も出来なかった。

 ようやく苦しくなって浅く吸い込み、とりあえず呼吸だけをする。

 沈黙。

 また呼吸を忘れ、吸い込む。

 布団の上で座ったまま、ああ、いつの間に起き上がったんだろう。思い出せない。

「・・・ね、聞いて、る?」

「・・・う、ん」

 心臓がこんなに速いことに、今気がついた。どうしちゃったんだ。

 ねえ、何か俺、大変なことを、聞いちゃって・・・。

「あの、もし嫌だったら、それはそれだ・・・とか」

「・・・うん」

「言わないよ。俺は、完全に俺の理由で、それを・・・、お前を、諦めない」

「・・・」

「もう、最後かなって、思うんだ。あがくのも、ここまで、かも」

「・・・」

「あのね、みんな、若いんだよ。ほんと、一回りも年下で、でもしっかりしてて言うことは大人なくせに、でも、やっぱり違う。俺はもうあんなに自由になれない。何が、ってことじゃなくて、何か、空気っていうか、精神っていうか、形が、だよ。努力とかそういうんじゃなくて、あの、あの感じは、あの時しかないんだ。それは俺が生きる今後一生、戻らない。それが、身に染みた」

「・・・そう、か」

「うん」

「・・・そ、それで、俺は、何を」

「・・・お前、無理してる?」

「い、いや、そんなこと」

「だって声、震えてる」

「・・・寒いだけだ。湯冷めした」

「そんな嘘、俺が信じるわけ?」

「・・・うん」

「そっか、ならそうする。・・・俺、持てないほどの荷物押し付けても、潰れるまで気づかない人間だ」

「・・・ああ」

「途中で大丈夫かとか訊かないし、キャンセルさせる気もない」

「・・・知って、る」

「嫌ならすぐ電話切って。すぐかけ直すけど、せめて蹴られなきゃ気づかない」

「・・・切ったりしない。・・・しないよ」

「そう?」

「・・・わかんない。俺、お前が言ってることまだ全然理解してない。でも、何か、分かる。お前は俺を本気で試してるし、俺だって、この人生で、本気でどこかへ行きたい。どこへも行けないのは分かってても、せめてぶち当たって死にたい。何か、分かるよ。ナイフ握りしめて、突き立てて、思いっきり抉りたいんだ。なあ、そういうことだろ?」

「・・・そんなこと、したくないけど」

「そう?」

「でも合ってる。そういうことだ」

「分かった。死体は俺が用意する。まだ生きてるうちから、心置きなく刺してくれ」

「・・・だ、だから、そんなこと」

「・・・喩えだよ。隠喩、メタファーだ」

「お前が言うとそう聞こえないんだけど」

「はは、そうか」

「・・・別に、お前のこと試してるとか、そんな気は全然、ないんだけどさ。でも結果的には、そうしたのかも。・・・あの、映画」

「え?」

「会社帰りのお前を捕まえてすぐ何ができるかって、映画レンタルして観るくらいじゃん?それで、言ったら、あれだ。俺みたいな主人公が出てきて、言ったとおり、すごい景色の中で飛んだ。戦争を生き延びて、動かない脚におさらばしたんだ。ねえ、脚が動くようにはならないんだ。おさらばしなきゃだめだったんだ」

「う、うん」

「野宿して考えた甲斐があった」

「・・・え、野宿?」

「だから言ったじゃん。二日も外で寝たんだ。食うものもなくて、お前に会えなきゃ死ぬとこだって」



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 四月二十九日に、東京へ帰ってきていたらしい。祝日、僕は自宅でノートにキーワードをまとめ、小説を書いていた。黒井は家の近くの公園で寝ながら、夜中ふと目を覚まし、電源が一瞬入ったスマホで僕に電話をかけた。そしてすぐ、それは、切れた。

 僕に預けた鍵がまさか合い鍵じゃなくて、部屋の鍵はそもそも一つしかなかったなんて、そんなこと想定するはずもない。その上財布を荷物と一緒に送ってしまったなんて。

 でも黒井は半ばその生活を楽しみながらふらふらと放浪していたらしい。どうして部屋の前に張り付いて、財布が届くのを待たないんだ。・・・まあ、あそこでただ突っ立ってるのが気まずいことは僕も経験したから、あまり強くは言えないけど。

「公園の水しかなくて、置いてあったカフェオレのペットボトル飲んだら、酸っぱくてさ!」

 僕が聞いたら卒倒しそうな話だ。いや、僕が聞いたから卒倒しそうなんだけど。

 三十日の夜は自分のマンションの屋上で寝たらしい。そして一日の早朝、僕がカレンダーを回収しに行ったときも、たぶん寝ていたんだ。

「起きて、死んだスマホ郵便受けに突っ込んだら何か中身が空になってて、ああ、お前が来たと思った」

 僕のうちの駅の改札口で捕まえようとしていたのが、まさか僕がこっちに泊まる可能性もあるのかと、それで定期はあるから新宿まで出て、横田を見つけ、そして「会いたかった、探してた」、で、「死んでたかも」。ああ、なるほどね。僕というか、鍵に会いたかったわけだ。

 ・・・あっそ。

「それは大変だったね、っていうか、そんなの知らせない方が悪い。まさか合い鍵じゃないなんて思わない」

「別に、大変だったけど面白かったし、何だよ、お前に迷惑かけてない」

「十分迷惑だよ。俺がお前を締め出したみたいになってて、お前のスーツが台無しだ。こんなに泥だらけで、自分のせいだと思うと見るに忍びない」

 僕は部屋に吊したそれを見上げた。汚れてるだけで、穴なんか開いてないといいけど。

「何それ、スーツの心配?そんなに好きならあげるよ!」

「そ、そっちこそ、俺を探してたんじゃなくて、鍵を・・・」

「あ、そうだ、鍵といえば」

「え?」

「あのヤモリ、どうしたの?あれ、俺にくれんの?」

「や、ヤモリ?ああ、べ、別に、あげるけど」

「俺がヤモリ好きだって話した?すっげーかわいい。お前も好きなの?」

「い、いや、ガチャガチャで、たまたま出て」

「へえ、そういうのするんだ、お前」

「そ、その、たまたまだよ」

「ああ、あと、クリームチーズ!買っといてくれたんだ?」

「う、うん。それ、だったよね?」

「そうそう。ああ、もっとビール飲んでよかったのに。全然残ってたじゃん」

「一本、もらったよ。・・・ああ、じゃあお前、祝日に帰ってきてたのに、今日部屋に入ったわけか。それで昨日も、あんなに疲れてた・・・」

「そうだよ、だから夕方まで寝てた。それでさ、今全然眠くないんだ。あとお前、ビーグル号もくれんの?下巻だけ?」

「え?・・・あ、あれ、置いてった?」

「何だ忘れ物か。ねえ、あのさあ」

「う、うん?」

 少し間があって、「・・・何か、久しぶり、だね」と。

 僕に会いたくて死にそうだったわけじゃないのかって、でも、そんなのもうどうでもよくなってしまった。そんな、ささやくような、柔らかい声を出されたら。

「・・・うん。久しぶり、だ」

「あのさ、お前・・・どうしてた?」

「え、どう、って」

「俺のことばっか喋った。ね、お前は、どうしてた?」

「別に、どうっていうほどのことは・・・」

「ふうん」

「いや、ほんと、ミステリとか、そのビーグル号とか読んでただけで・・・」

「ああ、これ、読み終わったの?」

「いや、下巻はまだ」

「そっか。ああ、じゃあ俺がこれから朗読してあげるよ。ほら、ちょうどガラパゴスのとこが載ってるんだ。はは、ねえ何でこれ買ったの?」

「え、それは、たまたま、見かけて・・・」

「てっきり俺にプレゼントかと思って喜んだじゃん。でも上巻をくれないってひどいしさ」

「そ、そんなわけ」

「じゃ、読むから。情景を思い浮かべながら聞いててよ」

「え、ちょ、ちょっと待って、そんなことしたら寝ちゃいそうだ」

「ええ?俺眠くないんだから、つきあってよ。うん、これ分厚いしな。今夜は寝かさない・・・なんて」

「・・・っ、ぜ、全部読む気?」

「はは、そんなに読まないよ」

 一度声が離れ、またモードが切り替わる。本を開くカサカサいう音がして、やがて、「ガラパゴス諸島」と、見出しが告げられた。待って待って、心の準備が、と思うけど、止めるわけにもいかない。何だかいろんなことがありすぎて、一度きちんと整理したいのに、「<ビーグル号は錨を下ろし・・・ある夜、わたしは>・・・」と始まってしまえば、ああ、どうして、遠くの景色が見えてくる。急いで僕もモードを変えて電気を常夜灯にし、枕をどかして頭を低くしたら、何だか波の音まで聞こえてきそう。俺の頭って本当に、あいつによって何でも作り出してしまうんだ。「<巨大な陸ガメ二頭と出会い・・・一頭はサボテンのかけらを食んでいて>・・・」「<われわれは、・・・島の南西端を回航した>・・・」もうだめ、感覚まで船に揺られるようで、ふわふわして、すうと、後頭部の下半分に砂袋が詰められて、心地よく、落ちていく・・・。

「<この島の自然史は・・・ほとんどの生物がここに固有の種で・・・>」

 ・・・。

「・・・、ねこ、まだ起きてる?」

「・・・う、あ、ごめん」

「まだ五分も経ってないよ」

「が、がまん、できなくて・・・」

「もう、終わろうか?」

「や、やだ、もうちょっと、このまま」

「聞きたいの?」

「うん・・・あの、おれ、お前の声が、きもちいいよ・・・」

「・・・しょうがないな、じゃあもうちょっとだけ、読んであげる。ああ、先に言っとくよ。ねこ、おやすみ・・・」

「おやすみ、クロ・・・」

「<・・・つまり、時間と空間の両次元で・・・、新しい生物がこの地上に出現する現場へと、われわれはいくらか接近した・・・>」

 やがて僕は南国の島の砂浜で、照りつける太陽の下、どこまでも透明な海に少しずつ引きずられていって、音はくぐもって遠くなり、やがて、こちらの方が現実となった。海の中にクロがいたので、僕は抱きしめて、会いたかった、寂しかったとその胸をたたいた。でも水の中だからうまく声が出なくて、でもたぶん言いたいことは伝わったんだと思う。クロは「俺もだよ」と言って微笑み、僕を抱いた。ぼんやりと、これは夢だと分かっていながら、僕は幸せだった。ゆらめく水中から空を見上げて、星が瞬くのが見えた。輝く一等星に、黒井が腕を、伸ばしていた。僕は、それは取れない、こちら側のは投影で、実体じゃない、と伝えたくて、でも結局はどっちも等価だ、と思い当たって何も言わなかった。



・・・・・・・・・・・・・・



 翌朝、電話は切れていて、そのかわりメールが来ていた。


<GWの予定は任せた。結局下巻読んじゃったじゃないか。上巻をよこせ>


 ・・・。

 いったんメールを保護して深呼吸し、目をつぶった。

 ・・・何か、いろいろなことがあったんだ。

 僕は思い出せる限り、黒井の話を自分の中で再構成して、整理した。 


 防波堤に座って、海を見ながら黒井が考えたこと。

 何もしたくない俺と、やりたくてしょうがない俺がいる、と。

 僕は頭の中で、左側にぼんやり寝転がった黒井を置いた。いつものように、部屋でごろごろして何もせず、ひなたぼっこなんかしている。そして右側には、黒犬を置いた。座ってはいるが、すぐにでも飛び出せる臨戦態勢。

 犬は左側の主人の命令を待つが、いつまでたっても出されない。枝を投げられたり、鴨を仕留めてこいとか、何も言ってはくれない。主人は何かしようかと案じるけれども、鴨鍋が食べたくなった時に鴨はいなくて、でも入場料を払って養殖鴨の狩り場に行く気もない。

 僕は黒井と犬から離れたところに鴨を置く。銃なら狙える距離だし罠も仕掛けられるけど、犬がそれを許さない。<自分の力>でやらなきゃ意味がない。

 ・・・でもこんなの、鴨が食べたくなるタイミングと、鴨が飛んできてちょうど狩れるようなタイミングぴたりとが一致しなければ、何事も成し得ないじゃないか。しかも鴨だと分かっていればやりようもあるが、その対象が<・・・あの感じ>となれば、どうしていいか分からない。

 ・・・ああ、だから、山猫、なの?

 あの<本番>みたいに、僕が用意したらいいの?

 僕は犬と鴨の間に山猫を置いて、鴨を追い立てさせる。でもそんなの、養殖場とどう違う?僕が恣意的に連れてきた鴨なんて、お前は要らないんじゃない?

 ・・・僕は鴨と犬を見比べている山猫を引っ込めようとして、しかし、左側の黒井がふいに立ち上がってまっすぐこちらを向き、僕に言った。

「俺のために生きてくれたらいい」

 ・・・。

 僕は思わず山猫を手放し、猫は鴨を追いかけ、黒犬が迷わず仕留めた。

 ・・・これは、夢の続き?

 違う、昨日、言われたことだ。

 本当に?

 本気でそんなこと?

 でも、その声は、脳内で再生するその速さや、トーンや、イントネーションは、確かにリアルなそれだった。

 おれのためにいきてくれたらいい。

 ふざけた感じでもなく、かといってあまりに自然でもなく、確信に満ちて、ためらいもない・・・。

 ・・・っ。

 急に、咳込むような、噎せるような、笑い転げるような、胸の内側がかゆくなってくる。その衝動を全部出してしまうことは抑えて、僕はテーブルでノートに向かった。

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