第176話:「俺のために生きてくれたらいい」

 着信があったのが0時3分。今は0時39分。え、四十分以上風呂に入ってたのか?どうしよう。すぐかけ直そうかと思うけど、一瞬、さっきの三十万が頭をよぎり、テーブルの上の五百円貯金が目に入る。

 ・・・タオルで縛った僕とか、ケースに入ってない隕石もどきの石ころに比べたら、いや、比べるべくもなく、あの万年筆は素晴らしい。値段さえ十分の一なら即決だ。いや、プレゼントとして重すぎるという点を除けば、やっぱり無理したっていいくらい・・・。

 そう思うと、通話料の安さに重きを置いていない僕のプランでかけるのにも気が引けた。・・・三十万。しばらく弁当持参にして、暖かくなったし公園ででも食べようか。切り詰めるとこ全部切り詰めたら、何とか・・・。

 歯を磨きながらじりじりと通話料が無料になる一時を待った。ああ、そういえば何の電話だろう。ん、そっか、菅野のメールの件だよね。何時にどこ行けばいいのとか、菅野ちゃんのアドレス教えてよとか、そういうことだろう。

 ちょっとどきどきしながらボタンを押す。・・・かかってきたんだから、かけたっていいんだ。ちょっと時間は遅いけど、どうだろう、寝ちゃったかな。

「・・・あ、ねこ?」

「・・・お、遅くにごめん。何だった?」

「もう!遅いし、何だったじゃないよ。メール、読んだ」

「あ、そう。それで、えっと、どうするの?・・・いや、どうするも何もないけどさ。俺が決めることでもないし」

「・・・は?そんなの決まってるじゃん」

「え?」

「何だよ、今読んだんだよ。やっぱり恥ずかしくなってんの?」

「は、恥ずかしいって何が?」

 あれ、藤井がどうしたってとこ、消さなかった?それとも何か、他におかしなとこあったかな・・・。

「・・・とにかく部屋も綺麗すぎて落ち着かないし、いや、さっき起きて見たんだけど、何かすごいメールで、はは、何かさ、タイムカプセルみたい」

「・・・あの、何のこと?」

「だから、お前からのメールだよ」

「う、うん。菅野さんからの?」

「え?違うよ、それじゃなくて、一ヶ月前のやつ」

「いっかげつまえ」

 ・・・一ヶ月前の、僕から、黒井へのメール?

 何だっけ。

 電話をしながらメールが見れないし、あれ、でも何か、ちらりと記憶に掠める。黒井から、千葉に行く電車からのメールをもらって、それで何か、長々と返事を書いたような・・・。

「お前さ、何か、文才があるんじゃない?俺、あんな文章書けそうもないもん」

「え、えっと、何か、変なもの、送りつけたっけ・・・」

 ちょっとずつ思い出してくる。何か感傷的になって、かっこつけたこと書いたような・・・。

「別に変じゃないよ。だから電話してんじゃん。そう、思ったから、話そうと思って」

「え、えっと?」

「<その頃、そう思ったら、話を聞かせてください>って、書いてあった」

「・・・その頃?」

「今のことじゃん」

「うん?話って何?」

「え、俺の話でしょ?何だよ、もう、読むから聞いて。えっと・・・」

 一瞬声が遠くなり、それからちょっと響く感じに変わった。ハンズフリーに切り替えた?それからちょっとして、「<クロへ。まさかメールが来てると思わなくて、今読みました>」と朗読が始まる。

「ちょ、ちょ、ちょっとやめてやめて!いい、いいよ、分かった。自分で読み返すから、待って!」

「<今、お前のうちに寄って、それから自宅に帰る途中です。更にひどくなった惨状を見て、これは計画が必要だと思い>・・・」

「聞けって!クロ!ちゃんと読むから!」

「<新しくノートを買いました。全体像を見極めて、少しずつやっていくつもりです。こちらも、時間、のことをちょうど考えていました。俺とお前は、本当に全然違う。血液型は、同じなのにね>」

「ほ、ほんとに、頼むから・・・」

「・・・何だよ、俺がもらったメールだよ。俺が読んだっていいでしょ?」

「こ、声に出すことない」

「いいじゃん。俺、朗読も好きだよ」

「いやいや、そういうことじゃなくてさ」

「じゃあ電話切れば?俺一人で読んでるから」

「・・・っ、ちょ、・・・もう、何だよそれ。じゃ、じゃあこっちだってお前のメール読むよ?」

「いいよ別に。恥ずかしくもないし、大したこと書いてないもん」

「な、何の会なの?俺、なに、何かの罰ゲーム?」

「じゃあ続きね。<プロファイリングが本当に正しいか、というより本当に正確な枠組みを捉えているのか>・・・」

「あの、もう、ほんと・・・」

「<まだまだ大雑把で、虫食いだと思います。でも、自分で言うのも何だけど>・・・」

「何だ、これ・・・」

 僕は顔を左手で覆って首を振り、せめて携帯を耳から離して、でも黒井の声を聴かないって選択肢もないから、こちらもハンズフリーモードにした。そして、画面で送信メールのフォルダを開き、長ったらしいそれをスクロールしながら、黒井の声に追いついた。

「・・・<かもしれません。・・・少しでも、何かの気づきとか、役に立っているなら、嬉しいです。・・・実は今も、こうして、書いていて、読むのはずっと後になるんだろうと思うと気が楽です。今の今でその思いを伝えるのは、いつも浮ついたような、ぶっつけ本番のような緊張感があります。実技よりは、筆記の方がずっといい。お前は逆に、本番の方が得意なんだろうね。ああ、演劇部なんて、俺は学芸会も嫌いだった>」

 そう言って、少し、笑う。

 黒井は、確かに句読点の区切り方や抑揚なんか、とてもうまかった。つっかえることもなく、すらすらと落ち着いた声で読んでいく。これが宮沢賢治とかならいつまででも聴いていたいのに、何でよりによって僕のメールなんだ。

「<メールでは言葉が選べない、とありましたが、うん、やっぱり俺はこっちの方が適切に自分の考えを描写出来るような気がします。何度も細かいところを修正して、文体や語尾を整えて、でもお前から見たらこんなのは、本当にもどかしい作業なんだろうね>」

 ふふ、と今度は籠もったような笑いが漏れる。たぶんその通りだったんだろう。・・・もう文句も言わず黙って聞くよ。

「<・・・海。・・・どんな海辺か分からないけど、お前が早朝、一人で立ってそれを眺めているのが目に浮かびます。願わくば、美しい海でありますように。お前には、月や、雪や、自然の美しいものが似合います>」

 ・・・うわ、ちょっと嬉しそうに読んでるけど、これ、恥ずかしすぎない?こんなの送るなんて、神経を疑うよ。もしまだ読まれてなくて、取り消しが効くなら絶対取り消してる・・・。

「<もしそれが浜辺なら、眼前に広がる、真理の大海を見てきてください。ニュートンのそれを読んでから、俺も海が見たいと思っていました。そういうのを見たならば、きっと、弱いとか強いとか、そういうのを越えた芯みたいなものが、まあ俺の言葉で言えば、インストールされるような気がします。宇宙の真理からダウンロードしてくる、なんて言うと馬鹿くさいけど、物理を学ぶとそういう、理論の力、みたいなものを感じることがたまにあります。目に見える事象ではない、概念と、理論と、数式の力、というか、結びつき?この辺りは俺も言葉に変換するのが難しくて、ほったらかしの領域ではあるけど、また少し仕事が一段落したら素粒子の続きをやりたいと思っています。・・・長々と思いついたまま、書いてしまいました。・・・たぶん、一ヶ月経って読まれて恥ずかしくなるだろうけど、お前を見習って、今に正直になってみました、なんて。・・・どうか、好奇心のまま海に落ちて、溺れないで下さい。無事に帰ってきてくれることを、願ってます。・・・その頃、そう思ったら、話を聞かせてください。山猫・・・拝>・・・ハイって読むの、これ?」

「・・・え、あ、うん」

「・・・やまねこ、はい」

「・・・はい」

「はは、どういう意味?」

「え、えっと、まあ意味っていうか、謹んで、山猫より、みたいな」

「ふうん」

 いったんまた音が遠くなり、普通の電話に戻った。僕もモードを戻して布団に寝転がる。自分が出した恥ずかしいメールを音読されるという拷問の後は、もう煮るなり焼くなり、好きにしてくれ。

「ね、思い出した?」

「はい、思い出しました。わざわざ読んでくれてどうもありがとう」

「なかなか文才があったでしょ?」

「・・・それは分かりませんが、朗読は上手だった」

「うん」

「・・・それで」

「だから、話すよ。・・・海を見て、考えたこと」

「・・・うん」

「・・・あのね、俺が、考えたんだよ。思った、じゃなくて、考えたんだ」

「・・・う、うん」

「途中までは、とにかくあの防波堤に座ってさ、ひたすら眺めてたんだけど、でもそのうち、自転車漕いで、毎日そうやってるうちに、・・・何か、気づいたんだ」

「うん」

 もう、引き込まれている僕がいた。

 やっぱり、黒井が「ねえ、俺ね」って楽しそうに話してるのが好きだ。

 こっちまでわくわくするし、自然と頬が緩む。

 ああ、今は、今のこの瞬間を楽しめてるかも。

「何にもしてないのに、何かふと、浮かんだんだよ。俺は何にも出来ないって!」

「・・・え」

 出来ない?

 でもその声に、自嘲の響きはなかった。笑いが混じるほど、すがすがしい降参。

 何かに、似てる。

 ・・・あ、僕の<振られた>宣言に似てるのか、はは。

「あのね、俺は一人じゃ何も出来ない、っていうか、出来なかったんだ。今までやってきた、っていうかやれなかったっていうか、努力っていうかもがいてたっていうか、そんなの全部無駄、っていうか無理だったんだ。そんなの無理だったんだよ。矛盾してた」

「・・・うん?」

「そんでさ、それに気づいた後、だからちゃんと考えたんだ。お前みたいに理屈こねて、石なんか拾ってさ、あっちとこっちに置いて、頑張って論理的に考えたんだ」

「うん」

「それで、分かったんだよ。えーとね、まず、こっち側に、何もしたくない俺がいる。で、こっちには、自分でやりたい俺。分かる?」

「・・・何もしたくない、って?」

「あ、だからそれはね、お前が言ってたやつだよ。計画した旅行じゃなくて、ふいに旅立つ冒険なんだ」

「ああ、うん。・・・え?それって、何もしたくないの?」

「そうそう、自分からは何もしたくない。勝手にそうなるって思ってるんだ」

「・・・勝手に。ああ、何となく分かるかな。お前はサイコロ振って、その偶然性に委ねてるんだ」

「・・・はは、確かに俺は量子力学が好きだ。ああ、それでかな」

「・・・え?」

「神はサイコロを振らない、って、アインシュタインの」

 一瞬声が詰まった。さっきの万年筆が蘇る。やっぱり、三十万、かな・・・なんて。

「・・・あ、ああ、何か聞いたことある」

「神は、量子力学みたいな不確定な仕事をなさらないって意味。実際にはそんな仕事だったわけだけど」

「ふ、ふうん」

 僕は必死で思い出す。ああ、そういえばアインシュタインはハイゼンベルクやボーアの提唱する量子力学を、ずっと否定してたんだっけ。

「うん、それかも。不確定。俺は確定するのが嫌だったんだ。あのね、今だって本当は嫌だよ。自分の気持ちっていうか、そういうのが言葉で確定されてくの、嫌っていうか、そんなことはしたくないし、するもんじゃないって思ってる」

「・・・え、えっとあの」

「いいから聞けって。とにかく俺はそれを抑えて考えたんだよ。確定するのが嫌な俺が、でも、言ったでしょ、自分の力でやりたくて仕方ないんだ。でも何かをやろうとすると、ふつう、別に突然奇跡が起きるわけでもないし、ごくふつうにやんなきゃなんない。でも自分で決めていくのは嫌なんだ。そんなの意味ない。苦手とか難しいってレベルじゃなくて、何だろう、タブー?」

「・・・うん、でもあの、ちょっと待ってよ」

「え?」

「あの、その・・・言葉で確定されるのが嫌ってさ、もしかしてそれ、俺がやってること、だ。ごめん、それが嫌だったら、俺・・・」

「違うよ、俺は自分で自分のことそうするのが嫌なんだ。お前は別」

「そう、なの?」

「うん。だから、そう・・・ほら、ちゃんと論理的に話そうと思ったのに、お前が先を急ぐからぐちゃぐちゃだ」

「ご、ごめん」

「だからね、えっと、とにかくそういうのが嫌いな俺と、それとは別に、自分の力で成し遂げたい俺がいるんだよ。もうそれは、こう、うずうずしてて、何かやってやりたくて仕方ない。でも何をしていいか分からない。やろうと思うと空っぽで、何もないんだ。だから、何かをするためには、考えて、それを決めなきゃなんない。でも考えてそれを決めるっていうのは、この、こっちの俺がやるんだけど、すぐ嫌になる。それでも頑張ってやるとどうなるかって、そんな確定されたことつまんないって、こっちの俺も、やる気なんか全然ない。ほら、前オーディション行ってきたって言ったでしょ?あれだって、俺があまりにど素人だからさ、誰だか知らないけど、教えてくれる人がいるんだよ。こうすれば受かる、こうすれば審査員の心をつかみやすい、ってさ。でもそんなの、それをやって選ばれたって馬鹿みたいじゃん。何の意味もない。だから、つまり、俺が審査員をやって、俺が受けたって、どうもなんないんだ!」

「え、ちょ、ちょっと待って、ええと?」

「分かる?ねえ分かる?俺だって、この<感じ>を維持すんのは大変なんだ。一回で分かってよ」

「え、あの・・・録音しとけばよかった・・・な、何とか理解するから」

「また後で考える?」

「う、うん」

「ま、結論としてはさ、お前にやってもらえばいいって分かったんだ。あの<本番>の時、あれで、よかったんだよ。俺が決めるんじゃなく、でも俺が本気で出来たことって、うん、そういうことだ」

「う、うん・・・?」

「ただひとつ問題としては、お前がやりたくないって言ったらどうするかってこと」

「え・・・?」

「どうすればいいと思う?」

「ちょ、ちょっと待って、俺は何をすればいいって?」

「俺のために生きてくれたらいい」

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