黒犬と山猫!
あとみく
1章:忘年会からはじまった恋
(ちょっとお近づきになった同期に、なぜかあらぬ感情を抱いてしまった僕)
第1話:はじまりは「山猫」
山根という名字なのだが、「やまねこ」なんて言われたのは初めてだ。いや、別に、会社の人間なんて、ふざけて何でも言う。そして、そんなこと明日にはもう何も覚えていないのだ。小学校とかなら何日でもからかわれるものだが、会社はそっけない。社会人は決して「仲良し」ではない。その場限りの、テクニックとしてのコミュニケーションであって、本心なんか全然ない。
だから、十日も二週間もたって、残業中に「お、やまねこ」って後ろから言われて、びっくりした。
「え、なに、ああ、黒井さん」
「おつかれ」
「・・・っす」
黒井というのは同期の一人だが、部署が離れていたせいであまりよくは知らない。何となく大人っぽいからか、みんなから呼び捨てでなく「黒井さん」と呼ばれている。だから僕もそう呼ぶ。いや、本人を目の前にわざわざ口に出すのは初めてかもしれない。
「なに、四課ひとりじゃん」
「え、ああ、ほんとだ」
僕は営業四課、黒井は今年から三課に来た。
気がつけば四課の島には誰もおらず、二課、三課にもぽつぽつとしか人影はなかった。
「黒井さんも、遅いじゃないすか」
「ほら、今度のあれ、懇親会」
「ああ、あれ」
「・・・」
「・・・」
・・・。
うん。
大体、特に用がなければここで「大変っすねー」とか「じゃあおつかれー」とか何とか交わして、終わりになる。普通、そうなる。
しかし黒井は無造作に隣のデスクの椅子に反対向きに座った(椅子の背に胸をつけて)。でも、不思議と、図々しいとか、鬱陶しいとかは思わなかった。僕は、そういうガサツさは、素でもあまり好きじゃないが、パフォーマンスならもっと嫌いな方だ。会社の備品を粗末に扱ったり、わざとぶっきらぼうに振る舞っていかにも「ぶっている」のは、幼稚で品がない。
だが、そういう小学生男子のような幼稚さとはあまり縁がない「黒井さん」がやると、色眼鏡なのか、別に、悪くなかった。
え、どうしたんすか、
まだ何か?
何か手伝います?
今度また飲みやりますかー
懇親会の話題をむりやり振る
無視して仕事
いくつかの選択肢が瞬時に浮かんだが、何となく間を逸して、固まってしまった。こんな風に、相手を戸惑わせるような「浮いた」コミュニケーションを取る人じゃないと思っていたのだが。
しかし、仕事に戻ろうにも、パソコンの画面を見ても自分が何をしていたのか思い出せなくなって、いい加減どうしていいか分からなくなり、相手の顔をまともに見た。もしかして三課の上司にひどく叱られたとかで、こっちに避難してきて、しばらく一人になりたいとか、愚痴を聞いてほしいとか、あるいは「俺もうすぐ辞めるんだ」とか、そういう事態かもしれないと思ったからだ。
だが、黒井は全く深刻そうな顔をしていなかった。のんびりくつろいでいた。
「俺、邪魔?」
「いや、別に・・・。その、忙しいんじゃないの?懇親会の準備?」
「やまねこさー、お腹空かない?」
なんだ、夜食探しの巡業中か。
視線の先には、昨日か一昨日もらった、誰かのお土産のクッキー。女の子がいれば、四次元ポケットみたいにいくらでも食べ物が出てくるが、今はこれしかなかった。
「あ、どぞ、どぞ」
黒井は椅子を適当に揺らしながらクッキーを食べた。僕はパソコンを見ている振りをした。
うん。分かってる。僕は少し冷静になり、気を引き締める。
こうやって残業や何かで二人とか三人になって、妙な連帯感というか、親近感が生まれることがままある。ちょっとわくわく、嬉しくなる。しかし、明日には、いや、半日後にはもうその魔法は解けて、スパイごっこも不良ごっこもアジトごっこもなかったことになり、いつか「そんなことあったねー!」などと思い出話になることすらもない。その場限りの一期一会と言えば聞こえはいいが、要は、ただその場のノリなのだ。それ以上の人間関係に踏み込むことはない、これも、テクニック的コミュニケーションだ。本当はみんなも、何となく物足りなく感じていたとしても。
だから僕は、「腹減りますよねー・・・」と呟くにとどめた。特に意味もなく腕時計を見る。投げっぱなしの、「これ以上特にないです」の合図。深入りしてがっかりしたくないのだ。
「やまねこさー」
「いや、だからそのヤマネコって」
「ん?かわいくない?」
「いや、かわいいとか」
「だって猫顔じゃん」
「はあ?」
「ばあちゃんちの猫に少し似てんだよね。お前」
「ええ?」
「うん。何となくね」
その時。
何の前触れもなく、何の意味も、理屈も、なかったと思う。いつもの、その場限りの親近感とも少し違ったと、思う。わかんないけど。
とにかくその時僕は一歩踏み込んだ。後からそれらしい理由はいくらでも挙げられる。でもその時は理由なんてなくて、ただ踏み込んだ。場をつなぐための会話じゃなくて、ただ本心の、好奇心で。
「その猫、何て名前?」と。
・・・・・・・・・・・・・・・・
猫の名前は「ねこ」だったそうだ。
直後に四課の内線が鳴り、僕はカードキーを忘れた先輩のために入り口へ走った(無駄にだだっ広いのだ)。戻ったときには黒井はもういなかった。デスクにふせんが貼ってあり、「ねこ、さんきゅ」と僕のボールペンで書いてあった。意外に下手くそな字なのだ。
僕が猫なら、あんたは犬っぽいよ。
そうだ、「黒井」で、「黒犬」じゃないか。そういや埼玉のおじいちゃんちに黒い犬がいて、いつも怖くて近寄れなかったっけ。ああ、そうだ。僕の人生で犬に関わったことがあったのか。そんなこと全く思い出さなかった。三課の方を見たが、黒井はもういなかった。僕が山猫なら、あんたは黒犬だよ、と僕は声に出して呟いた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
金曜日。
マフラーを出した。
ビルにはいかにもお義理というか、決まりなので、といった風情の巨大なクリスマスツリーが飾られた。まだ11月半ばにもなっていない。ツリーはみんなに「クリスマス商戦がんばりましょう」と呼びかけているようで、新宿のオフィスビルは華やぐというかむしろ重苦しくなっていた。
まあそれでも、エレベーターを待つ間見るものもないので何となく眺めていた。結局昨日の残業ははかどるどころかその後何も手に着かず、今日は30分早く来たのだった。
そして、こんな時間に会うなんて全く予期していなかったのに、ロビーに「黒犬」が入ってきた。黒犬もマフラーをしていたが、僕のよりもスタイリッシュというか、何だか大人っぽくて、スーツも鞄も様になっている。
やっぱり、「黒井さん」だ。
そのまま何となく見ていた。残業のだれた雰囲気のオフィスで見るのと、朝のぴりっとしたロビーで見るのとでは印象がだいぶ違う。僕はツリーの陰に隠れて、「ふうん・・・」と思いながらやり過ごすつもりだった。意外な人物と少しお近づきになったなあ、とそれくらいの感じだった。
だが意外にも向こうはこちらに気づき、手を振ってやってきた。
「おはよ!」
「あ、ああ。おはよ」
「ツリー出たね」
「お出ましたね」
「去年と同じ」
「そう?」
チン、と古くさい音が鳴って4基あるエレベーターの一つが開いたが、二人とも何となく、それをやり過ごした。
「あ、そうだこれやるよ。昨日のお礼」
黒犬はポケットからコンビニ袋に入ったカロリーメイト(チョコ味、開封済み)を僕によこした。
「え、別にいいよ」
「いいよいいよ、あげる」
「あ、そう・・・?じゃもらいます。あと、あの、そういえばさ」
「なに?」
「いや、大したことじゃないんだけど」
「うん」
「思い出したんだよね、俺も、昔、じいちゃんちに犬がいてさ、すごい、真っ黒い犬で、怖くてさ」
「ふん」
「いや」
「うん?」
「・・・黒犬」
「くろいぬ」
「山猫と、黒犬」
「ああ、黒井、ぬ!」
黒井は嬉しそうに自分を指さした。
「いや、その、やまねことか言うから」
「ああー!新しいね。おもしろい。俺、犬っぽい?」
「うん」
「犬っぽい」
「う、うん」
「ま、ばあちゃんちのは山猫ではなかったけどね。知ってる?山猫って、こういうの」
黒井は両手をグーにして頭の上に耳を作ると、人差し指だけ出してぴこぴこと動かした。
「なにそれ」
「耳」
「いや、耳だけど、何そのぴこぴこ」
「だからさ、耳のさ、三角の先っちょから、こんな、何、こういうの出てんの」
黒井は僕のマフラーのフリンジを一本つかんで揺らし、人差し指とともに頭に持っていった。
「こういうさ、飾り?みたいな毛がさ、ぴろーんって。だからさ、山猫すげースタイリッシュ」
「なんだそれ」
何かおかしくて、ひとしきり笑った。黒井も笑って、僕のマフラーをひらひら弄んだ。
「今度写真見せる」
「写真って」
「あのさ、隣の隣のビルの地下のファミマにさ、山猫の写真集があんの」
「写真集?」
「そう。山猫オンリーの。で、見たの、そのぴろぴろ」
「じゃ、俺のこと」
「そうそう。読んだ直後でさ、あれ、山根って山猫じゃね?って」
「なーる」
「てか買ってくる。うん。今日買ってくるわ」
「え」
「ああいうのってさ、すぐなくなっちゃうじゃん。コンビニって」
「まあそうだけど、別に買わなくても」
「そう?じゃあお前見に行ける?ファミマ分かる?」
「いや、分かんないけど」
「じゃ今から行こうよ。何かあんの?」
「ええ?」
僕は腕時計、黒井はスマホで時間を見る。八時二十五分。昨日の残業分のことを諦めれば、別に、行って帰ってこれる。何だか知らないけど、まあ、いいか。金曜だし。
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