第60話:結婚生活、とか

 帰ってから、何をする間もなくたまらず抜いて、朝五時に目覚ましをかけてそのまま、コートも脱がずに寝た。

 腹に、浮いていきそうな、持っていかれそうな、疼き。もう何年ぶりなのって、女の子の感触と興奮がまだ残ってる。黒井と会ってから、こんなことさえ何でもない日常のような気もしたし、でもふと我に返ると、天地がひっくり返るような動揺にも襲われた。

 少しだけまどろんだけど、結局一睡もしないまま、朝になった。

 目覚ましが鳴る前に起きてシャワーを浴び、歯を磨いて、食パンを焼いて、コーヒーを飲んだ。まるで朝帰りだ。最後までいったわけでもないのに、何かを為したような偽りの征服感。それでも何となく世界が違って見えるから、馬鹿じゃないのかと思うけど、仕方ない。早めに家を出ると、何だか世界のすべてに鮮やかめのフィルターがかかったような見え方だった。気分がやたらにニュートラルで、何にも動じない。電車が遅れてようが、足を踏まれようが、何とも思わなかった。

 会社に着いて、昨日ほっぽった仕事を片づけた。早朝組にも爽やかに挨拶して、デスク周りを拭いたりなんかして。

 ・・・もう。

 いいんじゃないか。

 藤井に好きですって言われながら、あの細い身体を好きに抱いて、静かに暮らせばいいじゃないか。この地球にとりあえず一人、真正面からあなたが好きだと言ってくれる人がいて、それは同じ会社の年下の女の子で、僕は人生でこれ以上の何を望む?

 ・・・黒井なんか。

 結婚もできないし、胸もないし、リスクだらけの日替わりのカオスだ。

 返事はいらないと言われたけど。

 週末にデートを申し込んで、食事なんか行ったりして。そのうち社内恋愛もバレて、大っぴらに一緒に帰ったり。それから暇を見つけてラブホに行ったりとか、うちに呼んでもいいかもしれない。デートコースなんか考えられないし、お洒落なお店も知らないけど、きっと藤井ならそれでもいいんだろう。普通じゃないけど、男女のまともなセックスをして、しばらくしたら結婚しよう。子どもなんか考えられないけど、藤井がそういう気になったら作ればいい。そのころ僕はグループ長くらいにはなってたりして、ちゃんとに働いて、藤井の好みの家でも買うんだ。おかしな趣味の内装だっていい。ただいまと帰っても、イヤホンで気づかないかもしれないけど、料理なんかしてくれるのか分かんないけど、別にいい。皿だって風呂だって僕が洗うから、夜はまたきみのおかしな話が聞きたい。

 ・・・。

 ため息。

 そんな人生提示されたって、どうすんだ。そんな未来がこの週末から待っているとして、それは僕がメール一本送れば始まるとして、さあ、どうするんだ。


「で?昨日、どうしたんすか」

「え?ま、まあ、ね」

「あらー。あらら?山根くん、何か顔に書いてある」

「ええ?何よ」

「おお、満更でもないっすね」

「まあ、うん・・・」

「いいっすよ、聞きますって。もう、言っちゃえ言っちゃえ」

「や・・・なに、まあ・・・告られたり、とか・・・?」

「っ・・・、まじすか。うーわ」

「いや、そんなんじゃ」

「そんなん以外のどんなんですか」

「ま、まあ、ねえ」

「山根くんやりますね。・・・ってか、早くない?だって、え、今週じゃなかった?」

「うん・・・」

「はあ?一目惚れされたってやつ?」

「さ、さあねえ」

「いやー、すっとぼけてるよこの人。山根くん、見かけによらず手えはやそーだからなー」

「そ、そんなこと、ないと思うけど」

「・・・あれ、そうなの?もしかして、もしかすんの?まさかそのままお持ち帰りした?」

「そ、そこまでしないって!」

「そこ<まで>ってあやしくない?何、もう、あれすか、Aくらい済ませましたって?」

「え、エーて古いな」

「確かに古いね・・・で?どうなの」

「・・・Aは、してないけど」

「けど?」

「・・・び、B?」

「・・・」

 横田は無言でパン、パン、と手を叩いた。

「・・・あっぱれ」

「は、はは」

「やりましたね。これから手が早い山根さんって呼ばしてもらいます」

「はあー?きっついんだけど」

「や、ほんと、おめでとうございました」

「はい、はい、ございました。・・・じゃ、行って来ます」

 横田はそこで僕の方を見て、「あ、行ってらっしゃい」と言った。茶化し終わってもうリセットされたような、あるいはただの友人のような普通の声。


 それからは、ただひたすら、勝手に浮かんでくる妄想を消すためにエネルギーを消耗して、それでも食欲はなく、あとは空いた時間を作らないためにしなくていい仕事までどんどんやった。

 ふとした隙に、左手の指先が痺れだして、右の手のひらも熱くなってしまう。

 佐山さんのことまでそんな目で見て、年上の女性の、その制服の下を想像したりして。

 ・・・溺れてる。

 だから、やりたかったんだってば。散々、もう、どっぷり。みんな、こんな性欲抱えて仕事してるの?こんな欲求不満、僕だけ?合コンでお持ち帰りだの、あるいは風俗だの、縁がないんだよ。こんな機会逃して、女の子ともう出来ないよ。・・・ねえ、どうしよう?

 女の子が多い島に近づきたいってだけで、給茶機まで行った。わざとゆっくり歩いて眺め回してると、端っこで段ボールを抱えた子。あ、子羊ちゃんとばかりに近寄った。

「大丈夫?」

「あ、だ、だいじょぶです・・・」

「この下?」

「ここか、この下っぽいんですけど・・・」

 フロアの端に積んである段ボールの中には雑多にパンフやら資料やらが詰まっていて、いちいち開けないと分からないことも多い。僕は上のを取って下に降ろし、二番目をその上に置き、中を開けた。

「これ?」

「あ、それじゃない・・・じゃあ、こっちかな」

 女の子が背伸びをして、三番目を覗き込む。スーツの上着を脱いでいて、白っぽいブラウスに、少し、ブラが透けて見えた。

「あ、これでした!どうも、ありがとうございます」

「いえいえ」

 必要な分を取るのを待って、元に戻す段ボールを抱える。

「す、すいません。お願いしちゃっても・・・」

「ああ、いいから。やっとく」

「わあ、すみません」

 女の子は取りたいものを取ってさっさと席に戻ることもなく、後ろで何となく僕を見ていた。背中がぞわぞわする。この子も、僕のスーツの下を想像したり、しないかななんて。

 戻し終わると、律儀にまたお礼を言われた。

「あ、ありがとうございました、ほんと、助かりました」

「いや、別に・・・全然」

 もちろんそれ以上の何かなんてないけど、馬鹿みたいな満足感。ああ、自分で自分を後ろから蹴っ飛ばしてやりたい。


 もうやれることは何にもないってくらい残って、課長に上がれと言われて仕方なく席を立つ。帰ったって、あれ以外、やることないよ。

 ふいに後ろを振り向くけど、黒井はいなくて。っていうか、今日見てないし、考えてもいなかった。やっぱり誰かとやりたかっただけじゃないかと、間違った恋を水で流してみる。もう、全部、バケツリレーで、いや、もうナイアガラの滝とか呼んできて、とにかく全部を後ろに追いやった。考えたくなかった。



・・・・・・・・・・・・・・・



 結局、それほど気が乗らないのに手持ち無沙汰だから、久しぶりにそういう動画サイトを渡り歩いた。そんなことで、夜中の三時。眠くもならず、空きっ腹で胃が痛いけどやめられない。

 四時を回ったって、何も変わらない。動画に飽きて適当にネットサーフィン。徹夜で何やってるんだ。

 このままじゃ埒が明かないと、強制的にパソコンを切って静寂。もう、金曜の、朝になる。

 座りっぱなしで、しかも何度も抜いたもんだから下半身が痺れていた。布団で横向きに寝て、体を丸める。いい加減眠くなって靄がかかった頭に、動画の気持ち悪い喘ぎ声がこだましていた。

 ふと目を開けて携帯を開くけど、デートの誘いの文句は浮いてこなかった。そのまま落ちて、少しだけ、寝た。



・・・・・・・・・・・・・・・



「道重課長、じゃ、お二人借りていきますね」

「はい、はい。どんどんこき使ってください」

「はーい、じゃ、遠慮なく」

 夕方、横田はしばらくいなくて、帰ってきた途端、僕たちは何かの作業に借り出されるみたいだった。

「さて、残業も久しぶりだなー」

「何、今日は、残るの」

「ま、これだけ手伝って帰りますよ。来週から、ま、ぼちぼちってことで」

「ああ、そうか」

 課長と話していたのか。そろそろ、小さい案件から割り振られるということだろう。

「じゃあお二人さん、一緒に来てもらっていいですか?」

「あ、はい」

 給茶機の向こうのスペースで、講習会を仕切っている小嶋さんだった。こないだまで樋口さんだったんだけど、社内結婚で、苗字が変わっていた。思わず三課を見る。小嶋は秋山と何やら真剣に話していて、奥さんに手を振るようなことはなかった。

「お仕事中ごめんなさいね。ちょっとね、重たいものたくさん運んでもらうんだけど、大丈夫?」

「あ、はい、大丈夫です」

「一応若い子だけ声かけたんだけどね。腰とか、平気?」

「はあ」

「私、ぎっくり腰やっちゃうから、だめなの」

「え、そうなんですか」

「だから上から指示出すだけで、ゴメンね」

 小嶋が両手を合わせて謝って、ちらりと、薬指の指輪が光った。それほどの年じゃないだろうけど、講師という仕事柄もあり、えらくしっかりして見える。そして、お相手の小嶋は、三課のグループ長だ。

 ・・・僕には、グループ長は無理か?

「あれ、やばいですよねー」

 僕が黙っていると、横田が隣から小嶋に話しかけた。

「え、やったことあるの?」

「ありますあります、昔ですけど」

 僕を挟んで横田と小嶋が腰をさすりながらその話で盛り上がるので、何となく後ろに下がった。だから、腰なんて、しばらく使ってないんだって。

 セミナールームに着くと、もう既に<若い子>が召集されていて、作業中だった。小嶋がいるセミナーチームは一番給茶機に近い島だから、そこから一課、二課と順次声をかけていき、最後に僕たちまで借り出されたのだろう。まあ、何人かの後輩を除いてはほとんど僕たちの同期が男ばかり顔を揃えていた。

「はーい、ごめんなさい、ちょっといいですかー」

 小嶋が壇上でよく通る声を張った。

「ええ、お手伝いいただきありがとうございます。今ですね、ここのルームAの片づけをざっとしてもらったわけですが、さっきもちょっと言いましたけども、ここの端末をルームBに運んでもらって、設置してもらいたいと思ってます。で、何と今Bにある端末は、・・・全部デバッグまで運んでもらいます!」

「ええー?」

「まじすか」

「遠いよ」

 小綺麗なセミナールームの、二人掛けの机の全てにパソコンが並んでいて、既にマウスやケーブル類はほとんど取り外されていた。全部で・・・三十台くらい、ある。これを、あっちに運んで、あっちのは、通称デバッグルームと呼ばれる、廊下の向こうの向こうの部屋まで?

「皆さんも知ってるかもしれないけど、ちょっとここが改装に入ってしまう関係で、いったんここを全部、ぜーんぶ、空けなくちゃなりません」

「小嶋さん、まさか、・・・今日中っすか?」

 前の方にいたのは、二課の榊原だ。

「いやいや、来週頭まで・・・って、ま、今日中なんだけどね」

「じゃ、机とか、そっちの機材とかも・・・」

「あ、それは大丈夫です。とりあえずね、パソコンだけ片付けば、あとは準備室につっこむだけなので、それはこちらでやります。ただ、月曜の朝からセミナーが入ってるので、Bだけは使えるようにしなきゃならないので・・・申し訳ない!皆様お疲れでしょうけど、手を貸してください!」

 小嶋はまた両手を合わせて、ぺこりと頭を下げた。まあ、別に疲れてようが忙しかろうが、やれと言われりゃ何でもしますよ。

「じゃ、えーと、前のお二人、私と一緒に、デバッグまで来てください。あっちもちょっとスペースを確保しなきゃいけないので・・・あとは、ええと」

 小嶋は僕たちの頭数を数え、割り振りを決める。

「全部で十人か。前のお二人はデバッグで・・・あともうちょっと段ボールにまとめてもらいたいものがあるので、お一人あっちに戻って、伊藤さんのとこを手伝ってください。ええと、じゃあ一番後ろの・・・」

 小嶋が最後に入ってきた僕たちの方を見遣る。さっき少し話したからか、横田が「へい」とつぶやき軽く手を上げた。

「はい、じゃおお一人願いしますね。では残りの人で、まずはこっちの小物をまとめてもらって、そしたら、えー、こっち側のお三方。台車をかき集めてもらって、Bの端末をデバッグまで運んできてください。で、残りの方で、ここのを、Bに設置してもらう、と。よろしいでしょうかー」

 黒っぽいスーツが十人、わらわらと動き始め、挨拶も相談もなく何となく作業が始まっていった。誰がどこからどこまで何をするか、エクセルで分刻みのスケジュールにまとめたくなるけど、こういうのは、適当に進むんだよね。小嶋さんが事細かな説明をしなくたって、空気を読んで誰かが空き箱を用意して、誰かが無言でそこに放り込んでいく。放り込まれないものも、勝手に誰かが運んでいく。ああ、マウスならマウスでまとめたい。分かっててもふせんで「マウス」って書いて貼っときたい。言ってくれれば好きなように、徹夜で僕が全部やるのに。

 こうして一足出遅れて、主要な作業からあぶれて手持ち無沙汰。横田より先に手を上げて、一人の仕事をすればよかった。

 そうこうしてるうちに三人がいなくなり、やがて台車の音がガラガラと響く。Bのをデバッグに移すってことは、Bの端末もマウスやケーブルを外して運びやすくするのか。僕は率先してBに行き、その地味で魅力的な仕事を片付けようと思ったが、何とこちらの端末は既に運ぶ準備が整っていた。

 仕方なくまた戻って、三人が運び出すのを待つことにする。そしたら、台車に載せるほどでもない距離だから、ここの端末をえっちらおっちら運ぶことになる。

 えーと、四人で、三十台・・・画面と本体別々だと、十五往復か?

 手近な椅子に座って、画面と本体いっぺんに運べるかと思案していると、近くに誰か座ってきた。

「ちょっと、黒井さん。今度は落とさないで下さいよ?」

「ええ?大丈夫だって」

 ・・・。 

 座ったのが黒井で、立って向こうから話しかけたのは、金沢か。Aに残ったもう一人は望月で、「え、何なに?」と訊く。

「いや、こないださ、この人本体三つ抱えようとして、落としましたから」

「はあ?黒井さん何やってんすか。三つはないでしょ」

「いや、いけると思って」

「だ、大丈夫だったわけ」

「それがね、奇跡的に何ともなかったの。すごいよ、あんな、絶対壊れたと思ったけどね。黒井さん運が良かったよ」

 黒井はこちらに背を向けて、「あれ、ちょっとやばかったよね」などと笑った。

 その時また台車の音がして、第一陣が廊下に運び出されたようだった。「ちょ、段差気いつけて」「うお、載せ過ぎか?過積載?」などと軽口が飛ぶ。

「じゃ、そろそろ行きますか」

「こっちも台車で行く?」

「いや・・・うち三つしかなくない?確かね、もう一個あるんだけど、すんげーちっちゃいんだ」

「じゃあいっか」

「さ、じゃあ運ぶか・・・」

 隣で黒井が上着を脱ぎ、適当に椅子に放った。そのままちょっと僕の方を見たが、特に何もなく、前の席へ歩いていった。

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