(3日目:肝試しと耳鳴り、僕が隠していたものが露見する)

第257話:お前とやりたいこと

 昼食を終えて、皿を予洗いして食洗機に入れる仕事を仰せつかり、初体験。ふうん、皿の厚さや深さでだいぶ入れやすさが変わるな。これだったら、揃いのをきちんと入るだけの枚数買ってきて、必ず一回ですべて済むようなサイクルを組みたいな。皿から逆算するおかず決めか。


 二階に上がると、黒井は窓を開けて空を見ていた。

 窓の桟に、大きな雨粒の跡。

 脇には、食後すぐだというのに食べ散らかしたお菓子。

 何となく、感性がすっかり<お母さん>になっていて、「ほらほら、散らかさないの、ゴミは捨てる!」とか言い出しそうになってしまうが、いけないいけない。僕はお母さんじゃないし、やかましくして嫌われたくないし、っていうか、僕の好きな人、なんだよね。家族愛じゃなく、恋愛対象として・・・。

 ・・・また、性懲りもなく、よく分からなくなる。

 一瞬、明後日には帰るんだ、と思い、そしたらこの人は家族でも兄弟でもなく、別の家の、ただの他人だって思って、怖くなった。

 ・・・死ぬときは、一人。

 まあ、そうなんだけど。

 とにかく、今は、一緒だ。

 明後日のことは忘れよう。

 そうして僕も空を見ようと窓に近づくと、急に手首をつかまれ思わず「ひっ」と声が出た。

「ね、出かけよう」

「・・・え、え、どこに」

「どこかに行かなきゃだめだ。ざわざわしてしょうがない。鞄に全部詰めて、車乗ってどっか行こう」

「く、車?どこかってど・・・ちょ、ちょっと、ちょっと待って」

 ろくに地理も分からない土地で、しかも車でいったいどこへ行くつもり?どうせ明確な目的地なんてないんじゃないの?カーナビがついてるとはいえ、この豪雨で川沿いかなんかを走って、もしものことがあったらどうすんの?増水した川で男性二人が行方不明になり、懸命な捜索が続いています、男性は東京の会社員、・・・さんとみられています・・・とか、どうすんの!?いや、別にそこまでならないにしても、天候が落ち着いたら夕方にはお姉さんが帰るというし、旦那さんはともかく、お姉さんの見送りはしなくていいわけ?っていうか夕飯までに戻らないとお母さんから「ご飯よー!」って言われちゃうんじゃない?どうせお前のことだから、何時に帰るとかきちんと決めてないんでしょ。鞄に詰めて、って、どこに行くのか分からなきゃ、持って行かなきゃいけないものだって決められないだろ?だから、何を考えて、何をしたくて、何のために何をするのかきちんと説明してくれよ!そしたらちゃんと協力するし、そうなるよう尽力するからさ、頼むから!!

 ・・・。

「・・・そ、それじゃ、いこうか」

「おやつは俺持ったから」

「あ、そう・・・」

 二秒おきに「ねえどこ行くの」と口が動きそうになるが、舌を噛んで止めた。僕は我慢しなきゃならない。僕は、忘れているだけなんだ。黒井がみんなにかわいがられるこの家の<わんわん>じゃなくて、ふいに、鋭い目で吠える狼になることを。ふと、女性の、・・・女の前ではそれを見せないんじゃないか、なんて思った。洗いざらしの白いシャツの、その肩幅、まくった袖から伸びた腕、背中と肩胛骨。ねえ、<そういうの>、俺の前でしか、見せないの?

 ・・・こんなところまで、来たんだ。

 お前と一緒に、どこだって、行ってやるって。



・・・・・・・・・・・・・



「お母さん、お姉さん。やまねこはよく働いて重宝しているでしょうが、俺が連れて行きます。・・・ほら、今だってそのボタンだかしいたけだかの整理をさせようとしてたでしょう」

「しいたけ?・・・ば、馬鹿をおっしゃい。これはボタンですよ」

 お、お母さん、それは分かってますよ・・・と思わずつっこみたくなるが、咳払いで耐えた。・・・っていうか、「俺が連れて行きます」って、もう何か、囚われの姫?うん、俺、お姫様でいい。凶暴な狼にはらわた食いちぎられながら、暗い森の奥へ運ばれていくんだ・・・。

「雨に気をつけてくださいよ。いつ戻るんですか?」

「そんなの分かりません」

「・・・また<あてどのない旅>?」

「もちろん」

 お姉さんが、「えー、二人で出雲大社行ったらいいじゃん。縁結び祈願」と、横からどうでもよさそうに口を出す。黒井は「行きついたら行く」とそちらを見ずに言い切り、「それじゃあ!」と玄関に向かった。後ろから、「・・・行ってらっしゃいまし」と呆れ声。

 く、クロ待ってよ、結局どこに行くの・・・と、本当に何度でも喉まで出かかるが、拳をぐっと握って耐える。だ、だから、何に対するどんなことを身構えればいいの?僕はどんな心積もりでどんな次の一瞬を過ごせばいいの?



・・・・・・・・・・・・・



 玄関で傘立ての傘を勝手に失敬し、車まで歩く。明確な目的地はすぐそこだ。そうして正確に予測できる最後の地点がすぐに訪れ、黒井が後部座席に荷物を放り込み、助手席に乗り込む。・・・え?

「ちょ、ちょっと、俺が運転するの!?」

「そうだよ、俺が行ったってしょうがない」

「ええ?ちょっと、意味がわかんないよ。どうしろっての」

「何をそんなに焦ってるわけ?ただのドライブじゃん」

「・・・そ、そうだけど」

「いいから出してよ」

「・・・だ、出すって、どっちへ」

「どっちでも」

「・・・」

「映画の<スピード>みたいにさ、何キロ以下になったら爆発するとか思えばいいじゃん」

「ただのドライブじゃなかったの?」

「まずはエンジンをかけてよ」

「・・・」

 僕は仕方なく渡された鍵を差し込んでひねる。ピーピーいうので、大人しくシートベルト。自転車くらいなら近所一周で済むけど、車なんか、県外どころか、行こうと思えば関門海峡だって越えられるぞ。

「お願いだからヒントをくれよ。いや、まず問題文をくれ。お前はどうしたいんだ?」

「・・・俺の問題じゃないよ。とにかく、走ってよ。アイドリングしてると酔う」

「・・・分かった」

 僕はひとまず、昨日行ったスーパーに向けて発進した。途中までは寿司屋とも同じ街道だ。とにかく大通りをひとわたり行って、いい加減なところで帰ってくればいいだろう。

 左右を見てウインカーを出し、ゆっくり発進する。雨足がやや強まっている。なるべくスピードを抑えて、住宅街の路地をいちいち徐行しながら通りに出て、交差点で街道に入る。

 雨の音と、ワイパーの音と、カチ、カチというウインカーの音。

 黒井が弱めにエアコンを入れ、ひんやりとした風が流れてくる。しかし、どうして念願のドライブがこういう微妙な空気なんだろう?

 何度も信号につかまり、ぎゅ、ぎゅ、と窓をこするワイパーを見ながら、気づけば黒井は苛立っているサインみたいな腕組み。貧乏ゆすりみたいに手や指をとんとん叩き、むっつりと黙り込んでいる。何でこうなっちゃうんだ。

 ・・・僕は本当に、お前が好きなのかな。

 ほら、こんなことまで考えてしまう。

 好きな人は隣にいるのに、持て余してつかめなくてどうにも出来ないでいる。それよりもつい、お母さんの手伝いをして褒められていた方が心地よかったんじゃないか、なんて。僕は自分を受け入れて優しくしてほしいばかりで、その相手は誰でもよくて、ただ楽な方に流れていく。黒井の意図不明な要求に応えるよりも、家事や整理の方が容易に褒めてもらえるじゃないか・・・。

 家族と笑い合って、食事を一緒に作って、手伝いをして褒められて・・・そんな、得られなかったもの、やりたくても出来なかったこと、理想の<やり直し>を体験して、でも、思い出さなくちゃ。他人の家でどんなに褒められようと、実の親から褒められたわけじゃない。どんなに親孝行しようが、実際の果たすべき何かは何一つ減っていない・・・。

 そんな俺をぬるま湯から引き剥がして、谷に落とそうっていうんだな?

 手伝いをしてポイント稼いで、お前の家族から<お嫁さん>として認められようなんて、でもそんな魂胆は見せかけで、本当は欺瞞だらけだって、ああ、見抜かれているなら、これ以上居心地が悪いこともない。胸の辺りがぎゅうと痛くなる。

 ・・・これ以上悪くはならないか。

 思い当たってしまえば重苦しい沈黙もうなずけて、まあ、この空気の理由を勝手に作り出して納得して安心したいだけ、か。でもおかげで少し楽になった。地図のない道は立っているだけで狂いそうになるよ・・・。

 ・・・プツッ。

「・・・」

 黒井が、カーナビの電源を切った。ああ、何、エスパーなの?俺の思考を読んでるの?笑いすら漏れる。もういいよ、もういいよ!お前の家族を利用して悪かったな、でも、おかしな嫌がらせはやめて、男らしくはっきり言ったらどうだ!

「・・・どうして切ったの?」

「・・・うるさいから」

「ふうん」

「ね、あっちに行こう」

「あっちって?」

 ふいに明るくなって、雲間が見えてきた。おかしな天気だ。そして黒井は左斜め前を指差す。何、どこ?・・・山?いや、まあ、どっちも山みたいだけど。

「まあ、あっちの方に行こう。何となく」

「そう」

「・・・お前の、ことを、さ」

「・・・え?」

 一瞬黒井の方を向くけど、信号が青になって前を向く。ゆっくりアクセルを踏んで、車間距離を保って・・・。

「ま、後で話すよ。大丈夫、ちゃんと話す」

 そう言って後部座席からスケッチブックを取り、座席を下げてくつろいで、何か描き始めた。景色とかではなく、僕の顔でもなく、時折目を閉じて宙を仰ぎ、思いつくとガリガリ鉛筆を動かす。僕は交差点を左折して、進路を「あっち」に向け、頭で勝手に俯瞰図を描くしかなかった。あの<ゲームブック>の迷路みたいに、たどたどしく、行きつ戻りつ、そちらに近づくしかなかった。



・・・・・・・・・・・・・・



 何十分もいかないうちに、市街地からは遠ざかって山間の住宅街、というか、まあ、山に分け入っているような。

 青々としている、というより、黒っぽくて、暗い。

 山があって、脇を川が流れていて、曲がりくねった山間道路。天気がころころ変わり、急に暗くなるのでライトをつける。ガソリンは、まだあるか。スタンドなんて全然なさそうだし、っていうか、店も何もないけど。

 どっかでいったん停めて、と言うので、道路脇が砂利になった適当なところで停めた。黒井は停めるなりさっさと降りて、「小便!」と、奥の藪に入っていく。一度戻ってきて「連れション!?」と訊くけど、僕は「あ、あとで!」と断った。


 それから帰ってきて、すっきりした、と言いながらおやつを膝に並べて食べ始める。「はいこれ、ドライストロベリー、美味しいよ」と僕にもホワイトチョコをくれる。嬉しいけど、手、洗ってないよね。ま、お前ならいいんだけど。

「ヘンゼルとグレーテルみたい」

 ふと黒井がつぶやき、一瞬考え、どの童話だか思い出す。お菓子の家みたいって言いたいのか?それとも、森で迷子になるくだりか。

「・・・食べちゃったら、蒔くものもなくなるぞ」

「ああ、じゃあこのグラノーラだけ取っとこう」

「そんなのまで買ったの?」

「あ、これはうちからもらってきた」

「へえ」

「・・・うそ。くすねてきた」

 黒井が笑うので、ようやく僕も笑った。


 車は、普通車とどでかいトラックが五分に一回くらい通った。エンジンを止めて少し窓を開け、タイヤが濡れたアスファルトをシルシルシル・・・と進む音を聞く。トラックの時にはカン、カンと小石が跳ね上がる。

「・・・で、話って、何だった」

「ああ、うん・・・」

 黒井は行儀悪くダッシュボードに上げていた裸足を曲げて半分あぐらをかき、肘をついて僕の方を見た。

「あのね、うん、・・・お前のやりたいことをやろうと思って」

「・・・俺のやりたいこと?」

「だって、こんなとこまで来て風呂掃除してる場合じゃない」

「い、いや、別に俺は」

「何かない?ねえ」

「別に、俺のことはいいよ。俺は、連れてきてもらって、御馳走もいただいて、それだけで、その」

「・・・」

「だから、何かお前がしたいことがあれば」

「それじゃだめなんだって」

「え?何で?」

「死んだ?って、言った」

「は?」

「お前が寝言を言うのはめずらしい」

「えっ・・・な、何か言ったの?俺?お、覚えてない、ごめん」

「また男の子が死んだんだ・・・?」

「・・・ち、違う」

「あ、覚えてるんだ、夢。今度は誰が死んだの?」

「・・・べ、別にいいだろそんなこと。それと、なに、何の関係があるの?」

「だからしたいことを言えってば。俺と一緒でも、お前一人でも、別におかしなことだって、何だって」

「・・・な、何が言いたいんだ?よく分からないよ」

「迷路とか、花火とか、立ちションとかさ、子どもっぽいことでも、いつもはしないようなことでも、こんな田舎なら誰も見てないし、・・・たとえば、えろいこと、だって」

「・・・っ、な、何、言い出すの」

「いつも俺のことばかりだから」

「そ、それは嬉しいけど、でも、俺、したいことなんか」

「本当に?」

「・・・」

「お前がしようって言えば、俺、何でもするよ」

「な、何でもって、そんな、そんな・・・」

 それから、膝の上で握ったり開いたりしていた僕の手に、ゆっくり、黒井の手のひらがやってきて、重なった。な、何か、おかしいって。おかしな雰囲気になってるよ。どうしよう、何も考えられない、どうしよう。窓の外に目をやって、大きなトラックが振動とともに通り過ぎていく。置かれた手が、じりじり動いて、太ももの内側へ・・・。

「あ、あるよ、やりたいこと」

「・・・なに?」

「ある、俺はやりたいことがある」

「うん」

「お、俺は、お前と・・・」

「うん」

「・・・肝試しを」

 つぶやいたとたん「ええー?」と、非難混じりの声とともに手はさっと離れた。いや、お前が言ったんだからな、絶対決行するぞ!

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