第304話:僕たちなりの、お付き合い

 圧力鍋で煮たら鶏肉は柔らかくほろほろになり、キャベツもトマトも溶けてしまいそうだった。もっとキャベツの芯まで全部入れてもよかったんだな、これじゃまるで具ナシみたいになってしまう。

 相変わらずの使い古し具合の食器にため息をつきながら、だって狼は家に来ない予定だったんだと言い訳しつつスープ皿を出した。サラダの材料はろくになくて、トーストしたロールパンをつけるだけ。ほぼ朝食って内容だけど、まあ土曜だからブランチということで・・・。

 ・・・どうやって部屋に入ったものかと逡巡しているとドアが開き、「ね、ねえ、出来た?」と黒井は目を伏せた。・・・お、終わったってこと、かな。いろいろ。

「その、肉料理ってことでもなくて、ただ鶏肉のスープだけど・・・」

「俺、昨日夕飯食ってないし、やっぱ腹減った」

「そうだったの?ご、ごめん。大したボリュームがなくて」

「いいよ、早く食お」

 自分の分だけさっさとテーブルへ持っていき、「ねえ早く!」なんて笑う。「ちょっと、待って・・・」とパンを用意し、部屋にトーストのにおいが広がって、それで・・・う、うん、その、お前のあれのにおいが漂っていたかは分からなかった。いや、そんなものを嗅ごうとするなんて失礼か。自分だったらされたくないんだから、人にもやったらいけない、いけない・・・。

 黒井は早速スプーンでひとくち食べて、「あーうま!」と、きゅっと目を閉じた。そんな顔を見たら、大した料理でもないけど、ほっとして腰が抜けそうだ。

「そ、それなら、よかった」

 まったく、こんなことになると分かっていたら、昨日買い物して帰ったのにな。

「はは、なんか、すげーうまい」

「腹減ってたからだろ」

「これ、お前の味がする」

「・・・よ、要するにただのコンソメ味だよ」

 黒井の言う「お前の味」はもしかして、単にコンソメだったのか。

 もう少し気の利いた味で在りたいが、結局僕はいつもコンソメ先生に頼り、そしていろいろ混ぜない方が上手くいくと思っているので、コンソメ味が僕の味ということでまあ間違ってはいないけど。


 黒井は鍋が空になるまでお替わりし、第三話は観ないまま帰っていった。駅まで送ると言ったけれど、一人でいいと風のように去った。「それじゃ、また」の声が博士のような低い響きだったので、何かそういう気分に浸っているのかもしれない。


 ひとり部屋に残されて、気が抜けたけれど、逆に込み上げてくる緊張もあり、しばらく何もできず呆然としていた。

 それでも目はつい、ゴミ箱を見つめている。

 ・・・そこにはごそっとティッシュが突っ込まれているように見えるけど、でもそれは人としてやってはいけないだろうと、心を鬼にしてさっさと大きなゴミ袋に見ないまま入れた。僕の部屋の僕のゴミ箱なんだから僕の所有物なんじゃないかと思うと手が止まりそうになるけど、何かをしてしまう前に生ごみやキッチンのゴミも上から入れて、きゅっと結んで玄関に置いた。

 ・・・でも、やっぱりあれは僕のものなんじゃないかなあ。

 もう温かくはないだろうけど、舐めたり、顔やあれに擦り付けたりしたって、僕の自由なんじゃないかなあ。

 気分が少しサイコホラーに染まっているのか、しかし、それをおさめるにはさらに観るしかないと思い、第三話を再生した。横に誰もいないのを何度も目で確認しながら、一人だ、一人だ、ちゃんと一人なんだと言い聞かせながら観た。まるで僕には一人でいるとき用の呼吸のボタンでもあるかのようで、ちゃんと押せるまでは息をするのもままならない。部屋のそこここに黒井の気配が残っていて、しばらく集中できなかった。



・・・・・・・・・・・・・



 夜。

 一人で寝るのが、怖くなかったといえば嘘になる。

 あのぬくもりが欲しいし、あのにおい、あの厚み、あの黒犬が隣にいてほしい。

 それでも何とか、小さく縮こまって寝た。


 幻覚は見なかったが、首の両側とその他を切られた男がべろりと剥ける肉やあふれ出る臓物を手で必死に押さえながら走って逃げて、大事な人の前でさらに辱めて殺すと脅され、それだけはやめてくれと懇願しつつ、それじゃあそうされる前に早く死のうと焦っているという夢を見た。結局それは自分に重なって、一、二の、三で心臓を突いて死のうとしたのに、焦って一で突くから指が肩の下にずぶりと刺さって、何にもならなかった。いつの間にか起きて壁を見つめていて、結局これは夢成分が多めの緩い金縛りであり、それでいつものようにカウントして解いたのか。とにかく、自分の気持ち悪い中身が外に飛び出して見えてしまうなんて、それはいけないことで、恥ずかしくてタブーなことで、だから早く死なないと、と気持ちはまだ焦っていた。

 見せたいのと、見せたくないのと、根源的にはどちらが強いかといえば、やはり見せたくない方なんだろう。見せたいのはきっとその反動だ。

 何となく冷えた気持ちになり、黒井は血まみれの怖いドラマを観たら欲情しないなんて言っていたくせに、しっかりやることはやったじゃないかなんて思った。僕にそそられるだの、あいつの性欲のポイントは少しズレていておかしい。高校生までは普通だっただろうに、一体どこからトチ狂ったのだろう。

 どうせあいつもちょっとおかしいのかもしれない、と思ったら、妙に安心して眠れた。



・・・・・・・・・・・・・



 日曜日。

 起きたら雨だった。雨の中ツタヤに返却に行って、帰ってテレビとネットで、ひたすら台風情報を見た。一人で二巻や三巻を観る気にはならず、いったんここで区切って、レンタルじゃなくて、DVD発売日を待つことにする。本来は六巻セットだから、先行レンタルではどうせ半分までしか観られないのだ。

 チューブの生姜とにんにくを入れた残り物チャーハンを作って洗い物をし、アイロンがけと靴磨き。風呂を洗ってそのまま入り、夕方の暗い雨雲を眺めながらナノ何とかドライヤーで頭を乾かした。気持ちも体調も落ち着いていて、銭湯へ行けずに頭痛がしてからこっち、いろいろと混乱していたものがおさまっているのを感じた。

 たぶん、黒犬が、添い寝してくれたからだ。

 実際にそれが幻覚や金縛りを阻止してくれるわけではなかったし、それに黒井は僕を助けようとしているといっても、あの動物園で「しいて言えば、趣味」と言っていたように、本当に僕の入眠時幻覚という症状を緩和させようとしているのとは少し違うのだろう。

 そして、僕の言う<助けてもらう>の意味もまた、実際の症状云々の話を超えて、何ていうか僕の生き方に直結してきてしまうものでもあり、僕のステータスに<困ったときは、誰かに助けてもらう>などという項目を追加したら、すべてを最初から組み直さなきゃならなくなってしまう。

 だから、つまり僕と黒井の<助ける・助けられる>の意味は二人ともきっとてんでバラバラで、だけど、それなのに、黒井が僕を助けようと添い寝してくれて、僕はそれで助かってもいるみたいで、だったらそれでいいのかもしれないと思った。


 そんなことを考え、ふと携帯を見るとピカピカと点滅していて、慌てて確認すると黒井からの着信履歴があった。ドライヤーの音で全く聞こえなかったのだ。

 慌ててかけ直す。・・・やっぱり緊張する。

 しかし、今度はこっちが留守電に切り替わり、そのまま切った。すれ違いになってしまったらしい。

 ・・・何だか、こんなことも、こそばゆい。

 昨日ここにいた黒井の残像がマネキンみたいになって、抱きついたり、キスできたりすればいいのにと思った。



・・・・・・・・・・・・・



「あ、もしもし、やまねこ?」

「・・・あっ、ごめん。さっき電話、取れなくて」

「いや・・・うん」

「えっと、・・・どうか、した?」

 まったく、本当は声を聞けただけで嬉しいのに、「どうかした?」ってせりふしか出てこないのは何とかならないかね。

「・・・え、っとね」

「う、うん?」

「あのー」

「・・・どうかしたの?」

 しかし黒井の物言いは歯切れが悪く、本当にどうかしたのかよく分からない。

「あ、あのね」

「うん」

「実はついさっき、・・・うちの、その、・・・お母さんから電話があってね」

「・・・う、ん」

「こないだ俺が電話して、バレエの時のこと訊いたりしたから、そういえばどうのこうのとか何とかいって」

「・・・うん」

「それで、元気にしてるのとか訊かれて」

「うん」

「ちゃんと食べてるのとか」

「うん」

「やまねこに食わしてもらったって」

「・・・あ、うん」

「な、何か鍋がどうこうとか」

「・・・あっ」

「え?」

「ご、ごめん。言い忘れてた。じ、実はお前のお母さんから、えっと、あのお盆に行った後に、圧力鍋を、頂いたんだよ。本当はお前にもお礼っていうか、言っとかなきゃと思ってたんだけど」

「・・・うん」

「ああ、そうか。・・・そ、そう、お前に出したスープもそれで作ったもので、きちんと言っとかなくて申し訳なかった。話が通じなかっただろ。失礼なことをした」

 急に話があのお盆の後に戻って、やっぱりこういうお礼とか義理だとかはきちんとしとかなくちゃいけないなと反省。お母さんから「たまには食べさせてやって」と手紙をいただいたのに、それでまさに作ったのに、普通はここで黒井が「やまねこも、鍋のことありがとうって言ってたよ」なんてお母さんに伝えるところじゃないか。せっかく約束が果たせたのに、詰めが甘くてきちんとご報告ができなくて、まったく情けないというか恥ずかしいというか。

「・・・いや別に、失礼とかはどうでもいいんだけど」

「い、いやいや、本来は」

「だからそうじゃなくて!」

「・・・え?」

 うん?どうやら黒井は、お母さんと僕が鍋や手紙のやりとりをしたことをどうこう言いたいのじゃないみたいだった。

「・・・だから」

「うん?何だよ?」

「その、お前のこと言ったら、やまねこさんも元気にしてるのかって」

「・・・あ、ああ」

「まあねって、言った」

「・・・うん」

「それで・・・」

「・・・それで?」

「それは良かった、って」

「・・・う、うん」


「お付き合いしてるの?って」

「・・・」

「付き合ってるよって言った」

「・・・」


「・・・」

「・・・え」

「・・・いや」

「・・・え?」

「・・・お、俺、別に、・・・そういう意味じゃなくて、・・・ただ単に、あれから、東京戻った後も、親しくしてるって意味で・・・」

「・・・、あ、ああ、そうね。そうだね。そ、それはそうだ。そ、その、そういう意味だよ、うん。別に、あれっていうか、そういう・・・うんうん」

「・・・だ、・・・だって俺、・・・今まで誰かと付き合ったこととかないし、彼女だって<イナイ歴>だし、お、親に何か言ったことなんてないし!」

「・・・あ、え、はい」

「いやだから、電話切ってからしばらくして、え、あれ、って思って、・・・とにかく、お前に、電話を・・・」

「・・・えっ、と、・・・そ、そうか」

「・・・うん」

「・・・えーと、そ、それで、その電話はそれから、どうなったの?」

「電話?・・・別に、普通に切ったよ」

「じゃ、じゃあ、まあ・・・」

 僕は知らず、片手で心臓を押さえていた。

 うん、落ち着くんだ。まだ何も起きていない。別に、何も、困ったことにはなっていない。

 黒井は「お付き合い」について、単なる人付き合いという意味で意識することもなく返し、それでつつがなく電話は終わったというのだし、それで事態は完結している。お母さんがたとえそれをどんな意味に取ったとしても・・・どちらにしたって本当なんだし、訂正することも、ない、わけで・・・。

 ・・・本当に、付き合ってる、んだし。

 ひゅうと、腹が透けた。

「・・・ねえ、俺、えっと、何か」

 黒井が戸惑ったようにつぶやく。何だよ、年末の騒動で支社長たちにぶちまけちゃったときは、けろっとしてたくせに。

「クロ、とにかく、電話は何事もなくもう終わってるんだし、な、何も、おかしな事態にはなってないわけだから、別にこのままで、いいんじゃないか・・・」

「いや、うん、それは、そうだけど」

「・・・うん」

「なんか俺、自分でも、よくわかんないんだけど・・・」

 落ち着かなくて、と黒井は言った。

 僕はもう一度、何も起きてないし、必要な対処は特にない、と言った。

 それでもなお、黒井は、なんか落ち着かなくて・・・と繰り返した。ねえ切らないで、と。

「・・・切らないよ、切らないから」

「うん」

 しばらく沈黙。

 ・・・たぶんクロは、親に、男同士の付き合いがバレたかもしれないと、それを気に病んでいるわけじゃないだろう。それくらいは分かる、僕にだって。

 もちろんそれが正確に何なのかなんて分からないけど、僕が動物園でカップルを見た時に感じたような、行き場のないやる瀬なさみたいなものかもしれないし、もっと違う、たとえば僕という人間に対する不安とかかもしれない。

 でもどちらにしても、何かが、不安なんだろう。

 僕は不安というものに対し、それが何なのかを理屈でつきとめて逐一潰すことで納得してきたけれど・・・きっとクロは、そうじゃない。

「・・・ずっと切らないから、だいじょうぶ、だから」

「・・・うん」

「・・・クロ」

 ・・・好きだよ、と、本当は、言いたかった。

 俺はお前が好きだから、ずっと一緒にいるから、大丈夫だよ、と。

 でもそれは、僕の中で、頑なに、禁じられていた。

 告白されて、付き合ってと言われてなお、消えていないんだ、あの約束は。

 ・・・あの、お前が千葉に行く前の三月。

 「言うなよ、言われても、俺には受け止めらんない」と、それはまだ撤回されていない。

 だから俺たちは正確には両想いじゃないし、恋人でもない。交際をしているだけ。

 俺はお前が<それ>を取り戻す手伝いをしてる。そのための、人生のプロットの<第二幕>を共にしてる。お前が失ったものをまた得るまで、何でもするし、隣にいる。

 俺はお前の糧になる。そういう存在でいいと思ってる。

「・・・やまねこ?」

「うん」

「もうちょっと、こうしてて」

「うん」

「俺と、つながってて・・・」

「・・・うん」


 またしばらく沈黙があり、鼻をすするような、嗚咽のようなものが聞こえ、それから「俺、お前のこと好き、やまねこが好き」と言われた。僕は「ん」とだけ曖昧に返事をした。

「だからいいや、・・・はは、ちょっと、落ち着いた」

「・・・それは、よかった」

「でも切りたくないな」

「・・・なら、こうしてたらいい」

「お前、優しくて、気持ち悪い」

「・・・、そうかよ」

 そうして久しぶりに、ハンズフリーに切り替えて、充電器につなぎ、繋がったままで布団に入った。「いる?」「いるよ」「聞こえる?」「聞こえるよ」しか話さなかったけど、お互いに添い寝しているみたいだった。


 朝になり、僕の方が出発が早いので、何度か呼びかけてから切り、メールを打っておいた。<おはよう、クロ。会社で>と、その行間に込めた<お前を愛してる>を読み取ってくれればいいのにと思った。

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