第303話:第二話「アミューズ・ブーシュ(突き出し)」
目を覚まして、ここがどこだか分からなくて、隣を見たらすごく整った顔の人が寝ていたのでしばらく眺めた。一瞬不安に駆られ、胸のあたりをじっと見て、それがゆっくり上下しているので安心した。
カーテンの薄明かりで部屋を見渡し、いろいろと思い出す。
昨日は結局一緒にDVDを観て、それから黒井に添い寝してもらって・・・、幻覚は見たけれども、その後は無事に寝たんだった。
・・・。
今となっては、なぜか、ドラマを一緒に観るのが全然嫌じゃなくなっていた。何をあれほど怯えていたのか分からないくらいに。
そして、幻覚も金縛りも、結局隣で寝てもらっても防げるものではないと分かったけど、だから実質的にやはり助けてもらえるものでもなかったわけだけど、・・・添い寝してくれると言ってもらえたことだけでも、身に余ることのような気がした。
そうっと起きてトイレを済ませ、まだあまり働かない頭でキッチンに立った。
とりあえずコーヒーでも淹れるか。そして・・・ありあわせで何か作るか、それとも買い物に出るか。
・・・ついに、告白されてから初めて、あいつに何か作るのか。
別に、今までだって、それほどのものを作ってきたわけじゃないのに、急に緊張した。
黒井のお母さんからたまには食べさせてやってと言われているし、そしてこないだの、ギャルソンのレストランで「お前の作るものの味を忘れてきた」なんて言われたこともあって、ハードルがやたらに高い。
ひとまずやかんを火にかけて、隣に圧力鍋を出した。蓋を開けると少しカレーのにおいがして、ああ、ちょっと残っちゃうのか。しまうとき蓋をしない方がよかったりするのか・・・。
蓋を、閉める、音。
昨日、誰かここにいた?
部屋へのドアを見る。昨日、僕はこのドアの向こうに立って、ドアノブを、握って・・・そう、そうやって音がして、影が見えて、ドアが・・・。
「ひあっ!い、いた・・・!」
「あ、あああ」
「ねこ、お、お前なんで、何でお前ってそうやってじっと立ってんの?・・・じっとこっち見て何してんの!?」
「お、お前こそ、そんなにそろそろと開けるなよ!」
「だ、だってお前いるんだかいないんだか、・・・どっか行っちゃったかと」
「いや、悪かった。・・・コーヒーでも淹れようと思って」
「ねこ」
「・・・え?」
「・・・あの」
あらためて見た黒井は、しわになったシャツはだらしなくズボンから半分出ているし、片足だけ靴下でもう片方は裸足だし、ひどい有り様だった。
それでも、はにかんだ笑いで「おはよう」と言われたら、僕はもうその顔を見ていられなくて、まだ沸いてないのにやかんの火を止めながら何とか「おはよう」と返した。い、一緒に、一晩過ごしてしまった。な、なにも、なかったけど、一緒に朝を迎えてしまった・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・
黒井がトイレに行って、僕はもう一度湯を沸かして、インスタントコーヒーを用意した。
そして、開け放たれたドアを見て、昨日のことを思い出した。
キッチンに誰かがいる気がして、僕はそのドアを、開けた・・・。
開けただけで、確か、包丁が飛んでくるイメージで、そこで幻覚は途切れた。ドアの向こうは見ていない。
そのイメージ自体はめずらしくもないけど、引っかかったのは、ドアだ。
・・・僕は、幻覚の中で、・・・この部屋を出たことが、ない。
立ち上がることだってまれだ。布団の上で起き上がっている(と思い込んでいる)ことはよくあるけど、立って歩いたり、ましてや、ドアの向こうまで行ったことは、たぶんない。
しかし、キッチンならまだ、それは部屋の延長であり、僕の記憶の再構成が見えるだけなんだろう、たぶん。
でも、もしも、あのあとキッチンまで行って、それから、玄関まで行って、そして、外に、出ていたら。
僕は、どこまで行けたんだろう。エレベーターまで?それとも・・・マンションの外の、どこまで歩いて行けただろう。記憶の再構成は、どこまで追いついただろう・・・。
少し、怖くなった。
さっきの黒井の言葉がよみがえる。
だ、だってお前いるんだかいないんだか、・・・どっか行っちゃったかと・・・。
もちろん肉体はどこにも行かなくて、幽体離脱で魂がどうとかなんて話じゃないわけだから、そのままどこまでも行ったら戻って来られなくなる・・・なんてことは、ないはずだけど。
それでもやはり、少し怖かった。意識だけが脳みその中で迷子になって、起きなかったら・・・。
・・・いや、起きて、でもそれは僕の単なる理性で、理性がおはようと言われたからおはようと返し、腹が減ったと言われたから覚えているレシピを作る・・・。本当の僕は、それを、脳みそのどこかの映写室から見てるだけ・・・。
「・・・ねこ?」
「・・・何?」
ゆっくり、振り向いた。
黒井は、僕ではなく、僕の手元を見ていた。
マグカップが二つあり、一つは湯気の立つ白湯、一つは濃い茶色の液体。その隣に、インスタントのスティックが二本。
・・・間違えた、のか。
「・・・ごめん。間違った」
僕は勢いよくその濃い茶色の液体を流しに捨て、箱から次を出そうとしたが、スティックはあと一本しかなかった。
「ねこ・・・だいじょうぶ?」
「・・・間違えただけ。コーヒーを二つ入れた。お湯を注いだ。コーヒーの入れるところだけ、間違えた」
・・・この僕は、本当に僕か?
ただの、理性か?
・・・・・・・・・・・・・・
僕は無事に完成した一杯のコーヒーを黒井に渡し、「続き、気にならない?」とプレイヤーの電源を入れた。何か言われそうになったけど、布団の横に置かれた眼鏡をかけ、半ば強引に二話目を開始した。映像が流れ出し、物語が始まって、そうしたら黒井もそちらに引き込まれていくのが分かった。
ウィルは次の事件に駆り出されるも、一話で死んだ男が白昼、何度も目の前に現れた。
僕は起きた状態でこんなにはっきりとした幻覚を見ることはないけど、今は、これくらいが当たり前で、むしろ足りないという心地だった。自分自身を落ち着かせるためにも、そして、黒井に変に思われないためにも、ウィルに「これくらい普通だ」と示してもらいたかった。
しかしついに、ウィルは嫌がっていたセラピーに通い始める。これくらい何でもないのに、みんなが過保護に心配するからだ。
レクター博士の優雅なカウンセリングルームで向かい合い、しぶしぶ、死んだ男について、話をする。
そして、ウィルは、話してしまった。
幻覚を見るほど苛まれているその原因は、罪悪感・・・ではない、ということを。
人に話すのは憚られる、後ろめたい感情。
自分自身にさえ、隠している、欲求。
僕はまっすぐ画面を見ながらも、映像は見えていなかった。
あの真夜中の車内で、僕が言ってしまったこと。今隣にいる男に、吐き出してしまったこと。
・・・他人には理解できない、気持ちの悪い自分を、本当は見せてやって、怖がらせてやりたい・・・。
黒井は今、どう思っているんだろう。今見ているのは単なるドラマの、セラピーの光景だろうか。僕と結びつけてはいない、だろうか。
・・・さて、そんなはずはないか。
はは、二話目にしてもう掘り当てた博士に、嫉妬か称賛を送っているかも。
そしてエンドロールが流れ、今度は、黒井が画面を切った。
僕はその顔が見れないが、黒井は僕の方を見ていた。
「・・・ねえ、ねこ」
「・・・うん?」
「俺さあ」
「・・・うん」
僕はもはや顔を背けた。幻覚の次は後ろめたい欲求の告白で、別に僕が作ったドラマでもないし、元々お前に見せる気なんかなかったのに、なんでこんなことになってるんだ。
「あのさ・・・俺、腹減ったんだけど、何か作ってくんない?」
「え・・・、あ、うん。ごめん、朝食も出さないで」
「・・・本当はさ、腹なんか減ってるのか、よくわかんないけど」
「・・・うん?」
「やっぱりちょっと、どうしちゃうか、わかんないから」
「・・・」
「あっちへ行って、くれる?」
黒井は僕の腕を強くつかんでキッチンへと追い出し、ドアを閉めた。黒井の今の状況を博士のように冷静に分析するのであれば、・・・ウィルの告白から僕のそれを連想し、<見せてくれた>ことに対しての追体験をしているとともに、<そそられて、どうしようもできなく>なっている・・・。
・・・さっきはドラマの続きを見ることで僕が何かをごまかそうとしていたけど、それが成功したのか、また別の何かへと進んでしまったのか、もはやよく分からない。
僕が「な、何か食べたいものある?」とドア越しに訊くと、「・・・肉!」と答えが返ってきた。
・・・・・・・・・・・・・・・
肉といっても豚バラと鶏肉しかなくて、迷ったけど、海外ドラマ鑑賞後としては肉じゃがよりはせいぜい洋風のものにしようと思い、いつもの鶏肉スープとパンにした。博士みたいな何のソースの何味だか分からないステーキみたいなものは出せない。そんな特殊な肉は冷蔵庫に入っていない。
黒井はこちらに来ないだろうと思ったせいか、緊張せず、落ち着いて作れた。
おはようを言われたらおはようを返し、腹が減ったと言われてまさにいつものレシピを作っている。そして相変わらず、この思考している意識と、行程どおりにあちこち動いている手先との間には隔たりがあって、気を抜くと何が何だか分からなくなりそうだ。
でも、たとえ今ここにいる僕がどんな僕であっても、黒井を好きなのであれば、もうそれでいいような気もした。
本当はこんなスープなんか放り出して、もうこのままあっちへ行ってあいつを布団に押し倒して犯されたい。<どうしようもできなく>なったお前を見せてほしい。その欲求のまま僕と繋がって、この意識と身体の断絶なんか貫いて、直接それを感じさせてほしい。
・・・俺だって、もういい加減、お前が欲しいよ。
たぶんもう、やんわり撫でるんじゃなく、だいぶきつくしてくれないと、だめな気がするよ。
圧力鍋がシュルシュルと音を立て、蒸気を吹き出した。
その合間に、ドアの向こうから黒井の低い声・・・あの誕生日に聞いたようなうめき声が、確かに聞こえた。
僕はシンクで洗い物をしながら、握った包丁を、何度もスポンジで擦った。やがてひときわ大きな声がして、静かになり、そして僕は包丁を水で丹念にすすいで白い泡を落とすと、その刃を握って扱いてしまうイメージに抗いつつ、ゆっくりと所定の場所にしまった。
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