第189話:見切り発車の夜

 一目散にクロに電話したいけど、来週中山課長の気が変わって自分で教えるかもしれないし、っていうかこのポジション自体いつまで存続するのかも分からないし、言うのはやめておいた。

 っていうか、まあ、お前がこの状況を喜ぶかどうかは、分からないわけだし。

 ・・・分からないわけ?

 っていうか、喜ばないわけ?

 ・・・。

 トイレで携帯を見つめて、もう明日お前の誕生日だっていうのに何の連絡もなくて、ちょっと、怒っている自分がいた、ことに気がついた。

 ・・・怒っている。黒井に対して。

 僕が?

 このポジションを喜ぶのも、当然だと、思っているみたいだった。

 何だ、何この、上から目線。

 メールだって、朝とか昼休みに一本ぐらい出来るだろって、うわ、嫌な上司とか、束縛する男みたい。お前からメールが欲しくて、ただ声が聴きたくて、って気持ちじゃない。本当に、それくらいすべきだろって、しないなんて、俺のこと軽く見てるのかって・・・いや、自己評価が低い僕に限って、どうして急にそんな大上段なんだ?

 パートナーだ、って信頼とは、違うだろ、これ。

 管理、しようとしてる?

 さっきのシステムじゃあるまいし。

 リーダーでもないくせに、付け上がってる?

 こんなこと、望んでない。でも、もしかして、こういう僕も、いるのか。

 理屈では、分かっていた。僕は黒井とは正反対だ。管理とか、計画とか、現実的な数字とか。成績とか、進捗とか、前年度比とか。ロマンチックでアーティスト気質なお前と、合うはずがない。夢みたいなふわふわしたことを遠い目で話して、それも出来るんだって思わせるような、ピーターパンみたいな世界とは相容れない。

 こんな僕では、嫌われてしまう・・・。

 でも、何だよ、一緒にやってくれとか、だったら俺の全部を認めろよ!・・・ってこれ僕の声?うわあ、何て傲慢。気持ち悪い!

 今度は本当に頭を抱えた。嫌だ、嫌だ、こんな自分が嫌だ。俺だってティンカーベルと飛びたい。でも、沼から手が出てきて足をつかんで、「俺がこんなに我慢してるのに?地に足つけて、沈んでるのに?それを見ないふりで飛べると思うなよ」。え、誰の声なの?っていうか、いつもいつも、自制、自重、律せよ抑えよって、言われてみればこれ、何なの?

 ・・・でも、それを無視して、もうやってやるって、ああ、藤井とのホワイトデーだってひどかったじゃないか。やりたい放題やってみたって気持ちよくなんかない。自己嫌悪が深まるだけの悪循環。嫌なものに反発してみても、あの、温泉に行く時、お前に初めて自分から電話した夜みたいな、<したいことする人生>にはならない。

 このベクトルじゃ、だめだ。

 自制せよって声に反発したって、呼応してるのと同じだ。僕は財布を引っ張り出して、僕の魔法の石を撫でる。片目をつぶって、今の僕に勇気をくれる写真。

 ああ、メールを寄越せだなんて、言わないよ。

 たぶん、大丈夫。お前がいれば、戻ってこれる。

 お前のことが好きなのは、やっぱり、お前といる時、少しだけ、自分のことを好きになれるからだ。おかしいな、その顔で覗き込まれると見ないでくれって思っちゃうのに、それでも、そう思う。何て身勝手な理由。でも、やっぱり、胸が熱くなる。このトイレ、この個室で、抱かれたことを思い出して、・・・だって、こんな僕にキスするなんて、勘違いしちゃうじゃん。もう少し、勘違いしたままにさせて。こんな自分に、価値があるだなんて。



・・・・・・・・・・・・・・



 帰宅。アマゾンの荷物を受け取って、箱を開けて、余計な付属ソフトとか子供向けっぽい説明書とかを出して、乾電池を入れてちょっとだけ付けてみたら、思ったより迫力と臨場感があって、もう、我慢できなかった。

 お前に、電話してもいい?

 誕生日のディナーのプランも渡すシチュエーションも決まってないけど、もう、いい?

 だめだよね、手を抜かないでちゃんとしなきゃ気持ちが伝わらない、なんて肩を落とすけど、伝えたい気持ちなんて、口を動かして本人に言えばいいだけじゃないかって、うん、言えないから、行為でもって伝わればいいって、思ってたんだけどね。

 ・・・生まれてくれて、俺と会うまで生きててくれて、ありがとうって。

 そんなこと、言えるわけ、ないって!


 あの写真を見てたら、電話だけでもしていいような気がして、何分も逡巡した後、ボタンを押した。登録した<黒井 彰彦>の文字を見てるだけで、どきどきしちゃうけど。

「ああ、ねこ?」

「あ、もしもし・・・今、大丈夫?」

「あ、そーいや電話してなかったね。ごめん」

「ううん、いいんだ。別に、大したことじゃ・・・い、いや、大したことは、あるけど」

「え、なに?」

「その・・・お、お前の、・・・誕生日の、ことで」

「・・・うん」

「え、えっと、こ、これから、会えない?」

 うわ、何言ってんだ!いやいや、会ったってどうにも出来ないよ。準備も何もしてないよ!

「うん、どこ?」

「あ、いや、やっぱり何でも・・・」

「うち来る?」

「い、いや」

「じゃあそっち行く?」

「ううん、そんな、遅いし、電車だって」

「え?」

「だから、電車とか、うん、もうない、ってこともないけど、接続とかあるし、いや、だからそうじゃなくて」

「いや、ちょっともう、遅いよ」

「・・・うん、遅い、よね。ごめん何でもないよ」

「うん。もう・・・エレベーター来た」

「えっ?」

「このまま行くからさ」

「え、え、ちょ、ちょっと待って。来なくていい、まだ何も決めてない、決まってない!」

「そう?じゃあちょうどよかったね」

「な、何が?」

「決まってない方が、おもしろくなるって」

「あ、ああ・・・」

「じゃ、走っていくから!」

「え、ま、待て・・・」

 ツー、ツー、ツー・・・。


 く、黒犬が走り出してしまった。

 どうしよう、ど、どうしよう。

 と、とにかくプレゼントを箱にしまって、ああ、本当はラッピングとかもしたかったのに、不愛想な段ボールに入れたって仕方ないし、もう、綺麗な紙と、リボンはなくてもせいぜい気の利いた紐でもないのかこの家は!

 とりあえずパソコンを開けて、今から乗るなら何分に着くんだ?もう、肝心なときに立ち上がるのが遅いし、おいおい、ネットワークに接続できません?

 あと何分猶予がある?ナップザックにとりあえずあってもよさそうなものを片っ端から突っ込んで、ティッシュ、タオル、ヘッドライト、ビニール袋、軍手、輪ゴム・・・ああ、だからプレゼント!包装紙!!

 ゴミ袋用に取ってあるスーパーの袋を引っかき回して、無地のグレーの袋くらいならあるけど、まったく、これっぽっちもロマンがなかった。これなら英字新聞とかのがマシだけど、そんなのないし。箱や袋じゃなくても、くるむだけだっていいんだ。新聞じゃないなら、何か・・・。

 ・・・キッチンの棚を開けて、見つけたのは買い置きのアルミ箔。

 すいへーりーべ、僕の船、七曲り・・・のアルミニウムってことで、いいか?

 いや、どうだ?いいのか?

 唐揚げ包んだ遠足用のお弁当みたいになっちゃわないか?おい!

 ど、どうすんだよ、時間がないよ!心臓と腹がきりきり痛む。足踏みしたって仕方ない!

 もう、やってみるしかない。銀紙をぐるぐる引っ張りだして、ちょっと破れても構わず球体に巻き付けていく。いや、やっぱり、素敵な感じはしてこない。ただの怪しい物体だ。邪悪な電波で操られるのを防ぐために頭にアルミを巻くってのがあるけど、そういうにおいがぷんぷんしてくる。僕にロマンはないのか!

 もっと、重厚感とか、舶来もの風だとか、あるいは嵐の翌日に海岸に漂着した、瓶の中の手紙みたいな、そういう雰囲気がほしかったんだよ。決してこんな、パチもんのミイラみたいなんじゃなくて!!

「もう!!」

 修復してようやくネットに繋がったパソコンに八つ当たりして、路線案内を調べる。携帯の発信履歴で時間を見て、仮に五分後に乗ったとして・・・ま、まずい、あと、17分後?ああ、帰りの終電は何時だ?もうそれは、携帯で調べるか。

 アルミに包んだ物体をとりあえずグレーの袋に入れて、もうこんなの絶対プレゼントじゃない。泣きたい。中身はいいものでも、台無しすぎる。

 どうしてお前はいつもそう、<今すぐ>なんだよ。もっとしっかり余裕を持って、事前にちゃんと計画して・・・、ああ、分かってるよ、それがしたいなら僕一人で昨日から準備すべきだった。

 でも、一人でやっても自己満足になっちゃうから、それで相談しようと電話したんじゃないか。それなのに、変なこと口走っちゃうから、それでこんな・・・。

 じ、時間がないか。

 っていうか、着替えてもいないし!



・・・・・・・・・・・・・・・



 駅の自動販売機でポカリスエットとカロリーメイト(チョコ味)を買って、<もうすぐつく>とのメール。たぶん先頭車両かなと待っていたら、スウェットの下と、ウインドブレーカー姿の黒井がドアに張り付いていた。開く前からドアを叩いて、遠足の朝の小学生みたいに。いや、僕にだって、一応そんな時代も、たぶん、あった・・・。

 開いた途端に飛びついてくるので、もう緩んじゃう顔がやばくて、「ちょ、ちょっと、乗るから」と制し、まとわりつく黒犬を運転席のすぐ後ろの端へと追いやる。な、何だよ、ご主人が来たからってはしゃぎすぎだろ?

 ・・・なんて。

「ほ、ほんとにそのまま飛び出してきたんだな」

 足なんかサンダル履きじゃないか!

「うん、だって屋上で飲んでた」

 角っこで壁に寄りかかり、空いた席はあるけれども、立ったまま。斜めに向かいあって、揺れに身を任せて。

「・・・あの、もう、ちょっとさ」

「え?」

「ううん、何でもない」

 誕生日の前日、もしかして召かしこんでくるかもなんて、一瞬考えたじゃないか。

「・・・なに」

「いや」

「なんだよ?」

 僕は黒井の顔をまともに見れなくて、目が泳ぐ。車内とか、ぼやけた広告を見ていると、突然わき腹をつかまれた。

「うわっ」

「・・・あ、そっか」

 ちょっかい出してくるけど、僕は体質的にくすぐったくならないので、今度は膝で蹴ってくる。

「ちょ、やめろって」

「このやろ!」

 まったく、本当に小学生か。お前、もうすぐ三十歳だぞ!・・・言うと拗ねるから言わないけど。



・・・・・・・・・・・・・・


 

 多摩センターで降りて、終電の時間を確認しておきたいけど、黒犬が何とはなしにそれを察したようなオーラを出してくるから、仕方なく改札へ向かう。分かった、分かったよ、決めません、今しか見ません!

 黒井はどこ行くの、とも何すんの、とも訊かず、初めて降りるらしい駅を楽しそうに眺めていた。金曜の夜で、駅前には飲み会帰りのサラリーマンやフリーターっぽい若者、ストリートミュージシャンなんかもいる。駅から真っ直ぐ続く広い歩道は、クリスマスには盛大なイルミネーションが灯ったりもして、家族連れやカップルで賑わう街だ。

 ・・・本当なら、僕が働くはずだった場所。

 広々として気持ちのよい道の先に、ショッピングビルと、そしてその奥にどかんと置かれたオフィスビル。

 たぶん、服装も年齢もばらばらな一団はこの辺りに通う派遣やフリーターで、コールセンターだの事務センターだの、広いフロアとルーチンワークを必要とする都心の会社の業務を請け負っている。

 内定が決まって、インターン一週間で、潰れたりするから。

 ・・・父親のコネなんかで、今の会社に拾われたりするから。

 一人暮らしなのにどうしてそんな遠くに住んでるのって、そりゃ、元々ここに通う予定で借りたからだ。別に、もちろん引っ越したってよかったけど、最初はそんなお金もなかったし、朝は電車も座れたりするし、遠い方が誘いを断りやすいなんて利点もあって、そのまま住み続けている。

「何か・・・広い!」

 黒井が、旅行にでも来たような晴れやかな顔で言う。まあ、そりゃ、桜上水に比べりゃ田舎だよ。

 サンダル履きの黒井はいつもよりさらに遅くて、僕はむずむずするほどのスピードで歩く。いろいろとぐだぐだすぎるけど、でも確かに、空が広いってだけで心にも解放感があって、小さなことは気にしなくていいやと思えてしまった。

 大切な一日が、もうすぐ始まろうっていうのに。

 ろくな会話もせず、背中のプレゼントにはロマンのかけらもない。

 いや、ちゃんと、中身はロマンだ。包みなんて、ねえ?

「・・・なんか、楽しいね」

 黒井が微笑むから、「そうだね」と返し、僕はポケットに突っ込んでいた手を出した。でも別に繋がれることもなくて、また、突っ込んだ。

 すっかり閉まったショッピング街を抜けて、ほとんどつきあたり。

 電燈もまばらになって、だんだん視界が暗くなっていく。

 僕が思いつく、電車でちょっと行ける範囲の、夜、ちゃんと、暗い場所。

 ある程度自然があって、広いところ。

 昼間には子ども連れとか、外でランチする勤め人で賑わうけど、夜は、静かだ・・・。

「なに、ここ、公園?」

「うん」

「ねこ、知ってんの?」

「まあ、ね」

 電燈の明かりで、僅かに水面のさざ波が光って見える。一応、池なんかあって、鴨が泳いでたりするんだ。

「ね、何かさ、土の匂い?」

「ああ、そうかも」

「何か、今、昔のこと思い出した」

「・・・どんな?」

「えっとね・・・」

 黒井は五感で何かを思い出すように、少し無言で歩いた。

 ・・・ああ、やっぱり、好きだ。

 こうして二人きりになったら、そうやっていつも、ちょっとゆっくりめの、落ち着いた声で話してくれる。「・・・枇杷の木が、あって」、なんて、今日は和風だね。

「あと、桜と、鈴蘭と、どくだみと・・・」

「・・・」

「ああ、棕櫚の木」

「・・・」

「落ち葉で、焼き芋したり」

「・・・うん」

「蛙と、ヤモリもいて」

「・・・うん?」

 話しながらだとさらにゆっくりになるから、僕はもう歩幅がつかめなくなる。お前の肩に手を置いたら、もうちょっと歩きやすいんだけど。

「・・・そんなだった」

「・・・う、うん。どこの話?」

「え、うち」

「うち?」

「庭の、話」

「にわ・・・」

 枇杷と、桜に、棕櫚まで?

「す、すごい庭だね。もしかしてすごい、お屋敷・・・?」

「え、別にそんなじゃないよ。ふつうの、一軒家。そういえば、二階も、なかった」

「平屋?え、えっと、そこに、住んでたの?」

「うん」

「実家?」

「・・・別に、たぶんもうないけどさ。そこは、幼稚園の時」

「引っ越した?」

「うん」

 僕は、神戸の芦屋あたりの豪邸を思い浮かべた。やっぱりものすごい、お坊ちゃまだったりする・・・?

「土の匂いで、思い出した?」

「うん。・・・次のうちは、庭も狭くて」

「そ、そう・・・」

 この分だと、狭い庭といっても今の1Kより広いんだろうけど。

「ね、ヤモリの話した?」

「い、いや、結局詳しくは聞いてない」

 そういえばストラップを喜んでたっけ。

「夜、さ、ベッドのとこの、窓に張り付いてんだよ。だからこっちからは、裏側の、指と腹が見えんの。ちょっとすりガラスっぽかったかなあ。くっついてるとこだけ、よく見えた」

「へえ・・・」

「二つとか、たまに四つとかいてさ、あれ、つがいだったんだろうね」

 黒井が笑うので、何がおかしいのかよく分からないが、僕も笑った。っていうか、「ヤモリがふたつ」って数え方、おかしいだろ。

「好きだったなあ。表に出ると逃げちゃってて、なかなか捕まえらんないんだよ」

「ふ、ふうん・・・」

 え、ヤモリを、捕まえる?

 素手、で?

 ちょっとだけ貴公子のイメージとずれるけど、まあ、子どもだし、そんなもんなのか。

「お前がくれたやつ、すごい、ちっちゃいって思ったけどさ。でもそれって、きっと俺がでかくなったんだよね。だってあれ、三歳とか五歳とかだ」

「ああ、うん」

「俺の印象では、このくらい・・・」

 黒井が手で表したのは、何だろう、エリンギくらいの大きさ?

「はは、お前の手が、小さかったんだよ」

「うん、そうみたい」

 だんだん、池と、芝生の大きな広場から離れて、ちょっと鬱蒼としてくる。話す声も、こもるような、そのあと拡散するような、乾いた感じ。発音したそばから蒸発するような、夜の独特の感じ・・・。

 舗装も途切れてきて、ああ、サンダルじゃ、歩きにくいか。

「サンダル、平気?」

「え、うん」

 石が入ったのか、一度止まって僕の肩に手をかけ、足の裏をはたいて、また歩き出す・・・。

 どうしよう、もう少し、知りたいよ。

 知りたくない気持ちもあるけど、もっと聞いていたい、話してほしいって気持ちもある。

 お前が生まれて、僕に会うまでどんな風に過ごしてきたのか。

 僕が生まれて間もない頃、ヤモリを捕まえようとしていたお前は、いったいどんな子どもだったのか・・・。

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