第354話:郵便局御一行

 郵便局業務持ち回り当番説明会御一行は、教える側の業務部から三名と、営業部からは一~三課の営業事務それぞれ三名、そして四課の佐山さんの代理の僕と、派遣の新人二人。

 つまり、女性八人と、僕。

 さっきのランチですでに限界だったのに、もう、最後尾でゆっくり歩いて、この列の後ろからたまたま郵便局に行く人を装うしかない。

 前の方でバスツアーよろしく歩きながら説明がなされており、ところどころしか聞き取れなかったが、どうやら郵便局へは毎日14時頃行くのが通例らしい。とすると、セミナー部はこの時間はだいたいセミナー中だから、持ち回り当番は出来ず、真木を連れてきた意味はなかったかもしれない。


 しかし、正直言って、たかが郵便局から手紙を持って来るだけなのに仰々しい説明会だなと思っていたけど、私書箱がどうとか、不足金があったら現金で払うとか、カギ付きの大きなバッグ(会社の財布入り)を持って二人体制でやるとか、結構大がかりなようだった。

 郵便局に入ると、業務部のうちの一人が説明しつつ、あとの二人がバッグから取り出した木札のようなものと、小さなカギをそれぞれ持って窓口と小さなロッカーへ向かう。そこから何やらいろいろな処理がなされたようだが、よく見えなかったのと、村野川の豆知識披露が割り込んで、何が行われているのかは把握できなかった。しかしどうやら郵便局勤務の経験もあるらしい村野川がフンフンとうなずいているから、もういいだろう。


 そうして帰り道。

 少々キツい感じの業務部のベテラン女性(アラフォーくらい)に村野川が臆することなく質問に行き、僕はまた最後尾。これから地下レストラン街を抜けてエスカレーターを上がり一階ロビーからエレベーターに乗るわけだけど、もう現地解散ってことでいいかな・・・。

 しかしふと気づくといつの間にか真木がすぐ隣を歩いていて、「ね、これっていつからやんの?明日?」と、僕の腕を叩いて馴れ馴れしく訊いてきた。

「あ、いや、明日ってことはないと思うけど、そのうち正式に当番のお知らせとかが・・・」

「でもさ、二人組って言ってたじゃん、あれ、どうせ一課と二課、三課と四課で組むでしょ?私どーすんの?あはは、山根さん一緒にやってくれる?」

「・・・え、えっとその前に、実はこの時間だとセミナー部は出来ないかもしれなくて、だから真木さんはやらなくてもいいのかも・・・」

「ん、セミナー部は出来ないってどういう意味?」

「ああ、それは・・・」

 この時間は大体セミナーが入っていて抜けられないだろうから・・・と、言い終わる前に、ふと、視界にいた真木の姿が消えていた。


 その直後、背後で「ひゃあっ!!」と高い悲鳴がして、思わず振り返ったら、真木が前のめりにつんのめって、僕の胸に飛び込んでくるところだった。


 ・・・何だかスローモーションみたいに、その体を抱きとめて、黒髪の頭が僕の胸にドシンとぶつかり、僕の眼鏡が少しずれて、それから柔らかく大きめの胸が腹の辺りにむにゃりと当たった。

 そのあと見えたのはスカートの下、後ろに伸ばされたストッキングのふくらはぎと足の裏の肌色で、その先をゆっくりたどっていくと、黒い靴が片方、地面に残されていた。


「やっ、あっ、あのっ・・・!」

 真木は裏返った声を出し、僕の両腕を強く握る。

 そして、おでこをこすりつけるようにして下を向き、その髪からのぞいている耳が、見る間に真っ赤に染まっていった。

 それはたぶん一秒か二秒のことだったんだろうが、まるで時間が止まって、それから再生ボタンが押されたみたいに、周りのざわめきが聞こえてきた。周りの人が「なんだ、大丈夫か?」とこちらを見ていて、僕はようやく「あ、あの、だいじょうぶ?」と真木に声をかけた。

「いや、あの、は、くつ、はま・・・」

「・・・え?」

「い、あっ、クツが・・・!」

 言葉にならないながら、ふるふると、後ろを指さす。

 いったん真木の体を離して、とにかく靴の方へ歩くけど、真木も片足だけで追いかけてきて「イタっ!」と甲高い悲痛な声。いや、いや、そんなハイヒールみたいな靴でピョンピョンするのは無理、っていうかそもそも足をひねってるんじゃないか?

「痛い?足、ひねった?」

 緊急事態モードに入った僕はその背中に手を回して横から支えたけど、「あ、わ、あの・・・」と、ろくな答えが返ってこない。しかもいつまでも裸足の右足を浮かせているから身体が左右にグラグラ揺れて、僕はとにかく「いったんここ置いて!」と自分の靴を指さし、それでもためらっているのでもう勝手に足をつかんで乗せた。

 それでようやく靴を拾おうとしゃがんだまま手を伸ばしたけど、意に反して靴は持ち上がらなくて、かかとの部分がピクリとも動かない。よく見れば、ヒールが銀色の板みたいな排水口の穴にガッチリはまりこんでいた。ああ、なるほど、それで突然コケたってわけか。

「どうするこれ、無理やり抜いていい?傷つくか、壊れるかもしれないけど」

「あ、い、いい・・・」

 通りがかりの色んな人に見られていて、僕は注目の的であるこの靴を一刻も早く何とかしたくて、勢いでガッと無理矢理それを引っこ抜いた。幸いヒールがもげることもなく、革の表面が剥げただけで、まだ履けそうだった。



・・・・・・・・・・・・・・・



 僕の肩に手を置いて、大きく息をしながら、ゆっくり靴を履く真木。

 顔はまだ真っ赤で、手足も小さく震えているし、コケたのがよほど恥ずかしかったんだろう。

 やがて前を歩いていた一行がぞろぞろと駆けつけてきて、「転んだの?大丈夫?」「ヒールがはまっちゃったの?」と口々に言い合った。しかし真木は小さく「大丈夫、だいじょうぶです・・・」とつぶやくばかりで、僕に隠れるようにして、靴のかかとの紐を何度も直していた。

 すると例の、業務部のちょっとキツそうな女性が前に出てきて、「大丈夫?怪我はない?」と。

 真木が後ろでぶんぶんとうなずくので、僕が「何とか、平気みたいです」と答える。いやいや、何でこんな風になってるんだよ。

 しかし、ともかく怪我がなくてよかった・・・で終わるかと思いきや、まだ終わらなかった。

「んー、あのね、大丈夫なのはよかったんだけど、彼女派遣さんよね?」

 ・・・え、僕に訊かれてる?

「は、はい」

「一応ね、ウチの会社、バックバンドの靴は禁止なのね」

「・・・」

 ・・・バックバンドの靴って何だ。

「一応派遣さんにも周知してもらってるはずなんだけど、それってマナー的な意味合いの他にも、防災や安全上の観点とか、まあこういうことがあるからであってね」

「・・・は、はあ」

「いや、ごめん私、実はここ来る時からそれ気づいてたんだけど、こんなことなら先に言えばよかったわね。・・・まあこの穴もちょっと危ないんだけど」

 ・・・。

 すると一瞬の沈黙ののち、後ろの誰かが「私、この穴に傘の先がハマったことがある」とか「防災訓練で階段何十階も下りることあるからね」とか、関係あるんだかないんだか、フォローなんだか何だかよく分からない会話が続いた。

 しかしまあそれもすぐに収束し、「とにかく戻りましょう」とまた一行はぞろぞろ歩き出す。

 その後、業務部のもう一人の女性がそそくさとやってきて、真木に「ごめんね、大丈夫だった?」と優しく声をかけてフォローし、「でも男の人がいて助かったね。支えてもらって、ゆっくり戻ればいいからね」と、僕にも笑顔を向けて去っていった。



・・・・・・・・・・・・・・・



 それからひとまずオフィスまで戻り、真木はそそくさとどこかへ消えた。

 ・・・が、しばらく経っても帰ってこないので村野川にトイレや更衣室を見てきてもらおうか迷っていたところ、オフィスの奥のセミナー部の方で雑用を頼まれているのが見えて、とりあえず胸を撫で下ろした。

 ・・・まさか、あれで骨折とかにでもなって、そもそも行かなくてもよかった郵便局に連れ出した僕の責任とかになったらどうしようかと、内心脅えていたのだ。

 とにかく、何事もなくて、よかった。

 何だか、僕の方が今更、安堵で顔が熱くなってきた。

 まったく、とんだ郵便局当番だ・・・。



・・・・・・・・・・・・・・・・・



 その後、佐山さんとともに村野川へのレクチャー会をやりつつも、何度か、さっきの場面が頭にふっと蘇った。

 ・・・人助け、出来た・・・のかな。

 僕は別に、運動神経に自信があるとか、人命救助に長けているなんてことは全くないわけだけど・・・ただ、やるべき時にいかにもいい感じでやるべきことが出来ているという、その物事の完璧性と完結性を実現したいあまりに、こうした公共の場所での「ちょっとしたヒーロー」になりたくて仕方がないという欲求がある。

 それはつまり、「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか!?」のアレであり、今回だって、もし僕が振り返るのが一瞬遅くて、あと一歩遠かったがゆえに目の前で真木が派手に転んでいたらと思うと、目を閉じて首を横に振りたくなるほどそんなのは嫌だった。

 しかし、真木の側から見たら、地面にすっ転ぶのと、図らずも僕に抱きついてしまう格好になったのと、いったいどちらが恥ずかしくて嫌だったろうかといえば、もちろんそれは分からない。

 ・・・どうかな、もしあれが僕だったらもちろん通行人と異性八人の前でコケるなんて願い下げだけど、誰かに抱きついてしまうのもそりゃまあ恥ずかしいし・・・でも、もしもその相手がクロだったら、転んだからという大義名分でそのまましばらく抱きついてこっそりと公衆の面前でそれをひけらかす刺激に浸ったりだとか、あるいはひたすら痩せ我慢で平気だと言い張って、後から「ほらお前やっぱ足痛めてんじゃん!」とおんぶしてもらったりだとか・・・。

「・・・クン、山根クン?」

「・・・は、はいっ!?」

「あの、もうチャイム鳴り終わったんだけどね、ハンコいただいてもよろしい?」

「あ、ああ、お、お疲れさまでした・・・」



・・・・・・・・・・・・・・・・



 せっかくのノー残なのに、そして何だかやたらにクロに会いたくて仕方がない気持ちなのに、それは叶わないから、仕事を切り上げてさっさと会社を出た。

 ・・・念のため携帯を確認するけど、<やっぱり一緒に帰ろう>なんてメールは来ていない。

 まあ、仕方がない。とにかく土曜日までの辛抱なんだから、クロだって不安になりながらも何とか頑張っているわけだし、僕だって耐えるんだ。たかが転びそうになった派遣さんを抱きとめただけで、何だか気持ちが盛り上がっちゃって会いたいだなんて、いやいや、そんなのは逆によくないよな、そんなのいいわけない・・・。

 ・・・。

 ・・・一瞬、腹に、あの胸の感触が蘇った。

 ふ、ふわっとして、柔らかかったな。

 太ってるわけじゃないけど、痩せ型でもなく、足はややむちっとしていて、胸はこぼれそうに大きくて・・・。

 だ、だめだ、急にえろい気持ちがわき出てきてしまう。

 ああ、いや、ここから、こないだクロとキスした場面とか思い出さなくていいんだ、そういうのはもうとにかく部屋に帰ってから・・・。


「あ、山根さん!」

「・・・」

「あの・・・っ」

 振り返ると、それは昨日と同じ茶色っぽいスーツ姿の真木だった。

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