25章:黒井の誕生日を僕なりに祝う

(一線を越えても、一喜一憂は変わらない)

第187話:誕生日の準備

 カラオケを終え、帰るまではいろいろなことを反芻して、胸が熱くなったり恥ずかしくなったり遠い空を見上げたり忙しかったけど、うちに帰ってシャワーを浴びたらもう、沈むように寝てしまった。いろいろ、容量オーバーだ。後は勝手に、脳みそで、何とかしてくれ・・・。


 一晩経っても、黒井のことをパートナーだとみなしている感覚に変わりはなかった。黒井が僕の携帯電話に出たことを「踏み込みすぎた」と謝ったのに、そしてそれは嫉妬による怒りだって誤解はそのままなのに、僕の方だけ身勝手なものだ。

 さてそこでしかし、僕はそのパートナーに贈る誕生日プレゼントを早急に決めなくてはならない。いつの間にかGWも最終日、六日になってしまったわけで、誕生日は四日後だ。

 今なら、三十万のアインシュタインもやり過ぎとまでは感じなかった。もちろん財布に痛いという点は変わらないが、<アトミク>にも相応しいし、やっぱりこれか・・・ああしかし、これは海外輸入で、誕生日に間に合わないんだった。どんなに良くても、当日にないんじゃ意味がない。仕方がないからこれは除外だ。

 ネットでまたそれらしいものを検索しようと思ったが、何となく、パソコンを開けかけて、やめた。

 もちろんネットでだって、導かれるように、これだというものにたどり着くことはある。でも、誰かのブログとか何かのランキングとか経由で選んだって、何だかそれも違う気がした。結局、良い物、素晴らしい物、目的に合致してコスパがよく見栄えがして適切で理にかなった商品、なんてどうでもいいのだ。

 よ、要は、気持ち、じゃないか?

 とりあえず、ネットを開くことはやめて、せめて自分の足で探しに行くことにした。


 結局また新宿まで出て、そういえばちょっと前までここも工事で歩きにくかったなあなんて思いながら、休日の地下通路を歩いた。行き先は、会社より手前のブックファースト。いや、だって、ネットじゃなきゃとりあえず本屋でしょ。

 地下の理系コーナーで、ああ、この<元素図鑑>なんてどうかな。アトミクの第一歩に相応しい一品じゃない?これでベリリウムの謎も解けそうだし、何よりフルカラーのビジュアルが見ているだけで美しいし・・・まあ、ビニール包装で中は見えないんだけど。

 他にも物理の棚をじろじろと何周もして、しかし、黒井のうちの引き出しを開けていない以上何を既に持っているか分からないから、本のプレゼントというのはためらわれた。ベリリウムを知らなかったんだから元素図鑑はいけるかもしれないが、とりあえず保留。

 久しぶりの本屋、久しぶりの物理だった。

 ちゃんと勉強しなくちゃ、と思いはすれども、やっぱり、僕だって黒井と同じく、やったってどうするあてもない、という気持ちがないわけじゃない。それでもたぶん僕は、知識の収集だけでも満足するタイプだし、・・・いや、あれ、どうだろう。

 何となく、あては、ある気がした。

 般若心経を覚えていれば、死体を発見した時すぐ唱えられる、みたいに。

 僕は何か、<その時>みたいなものに備えて、物理の知識を蓄えておくのは有用だし、むしろ他の知識より本質的で、メインに据えたっていいんじゃないか、くらいの勢い・・・。

 何となくその場で突っ立っているのがむずむずして、僕は歩き始めた。うん、本屋にいるとこんな風に集中して、何かに気づくことがある。クリック、新しいタブ、では気づかなかったかもしれない何か。画面の平面じゃなく、前から後ろから立体的に与えられる情報や質感の洪水の中で、無意識に刺激される脳神経。

 地下から一階に戻り、ぶらぶらして、つい足がミステリの新刊コーナーで止まった。

 昔よく読んだ作家の新刊はどうにも内容が薄く、そして古臭く感じた。

 でも最近の話題の本は、何かアニメっぽくてサイコ系で、深みが感じられない気がする。

 僕が年をとったせい?

 いや、きっと時代のせいもある。

 電話どころかタブレットでネットも何もかも持ち歩く時代に、古き良き<館>ものなんて再現してみてもやっぱり芝居がかっていて白々しい。隠された情報の開示とそのタイミングがミステリの全てと言っても過言ではないのに、現代の舞台設定では情報の要素が膨大かつ複雑で、その辻褄を合わせながら盛り上げるのはハードルが高いかもしれない。

 だからむしろ、ビーグル号航海記のような、古い時代の、本物の実地のミステリ(と言っていいだろう)の方が面白く感じるのかもしれない。物理だって、古典はもちろん最新の理論も、<本当に>まだ分かっていないからこそ面白い。

 ああ、そうか。

 話題の新人や流行りの本が面白くないんじゃなくて、僕の、ミステリの愉しみ方が、変わってきたのか。

 いや、愉しみ、というか・・・。

 ああ、<あて>、か。

 あの寂寞・・・。

 <向こう側>・・・。

 世界の終りの街であり、NDEのタイタニック。

 僕もいつかそういうところに降りていく気がしていて、何となく、そこでは物理の知識が必要・・・いや、そういうことじゃないな。そこは物理の世界そのもので、暗い湖の底にクラゲの形の素粒子が落ちてくる・・・。

 ・・・。

 そんな夢想はすぐに別の思考で掻き消えて、でも結局、僕にだって物理を具体的にどうこうするあてはないってことは確かだった。せいぜい<鼻行類>と<ビーグル号>を合わせてパクったような創作をしてみただけ。それも、別に小説として書き上げようなんてこともなく・・・。

 とにかく、僕がもうふつうの、誰が死んだ、誰が犯人だっていうミステリから新しく得るものはないみたいだった。

 もっと、<本番>って、わけかな。

 僕たちの、期間限定じゃない本番<アトミク>に対するこういう微妙な心持ちも、お前に話したいよ。僕が勝手に考えたルールじゃなく、今度は二人でやるんだからさ。そして、お前の気持ちも聞きたい。僕と違って<今、その場>だけのそれかもしれないけど、ちゃんと二人で作っていきたい・・・。

 ・・・な、何か、まるで子どもみたい、だな。

 よく自分の作品のことを我が子のように表すものだけど、二人で作るなら、そういう・・・。

 僕は、たまにテレビで見るような、ロボコンだとか鳥人間大会とか、青春の全てを賭けて日々何かを作り、失敗し、改善し、メンバーがぶつかりあい、成功すれば抱き合って泣くような、そんなものを想って唇を噛んだ。文化祭だって体育祭だって、学芸会だって音楽コンクールだって、「あっそう」という以上の感慨も関わりも持たず、嫌悪感しかなかったけど、僕だって本当は、そんな、ことを・・・うん、しょうがない、認めよう。・・・してみたかったんだ。

 誰かと、何かを一緒に作りたい。

 それをする過程で、心を通わせていきたい。

 昨日あの子たちが「もう、慈愛?」なんて言ってたそれは、もしかして、みんな思春期に済ませるようなことだった?

 思わず携帯を出してクロに電話しようとして、やめた。

 お前が演劇部だとか、友達とオールとか、もしかしてドイツとかで誰かとしてきたような青春を、僕は今更、お前に求めてるみたいだよ。

 もう、遅すぎる?

 そんなこと、ないよね。

 俺と、やって・・・くれるん、だろ?

 苦笑いでまた歩いて、ふと目を惹く、鮮やかな水色。

 ああ、世界の絶景。

 すごい、こんな、コーナーが出来るほどたくさん本が出ていたなんて。

 僕は黒井が見つけてきたそれを自分でも見つけたのを喜ぶと同時に、もう二人だけのものじゃなくなったみたいで、<あなたも行ける絶景スポットの旅行プラン>なんて見たくないよって、クロの感覚が伝染したみたい。

 もちろんこんなところに二人で行きたいけど。

 でも、それは、雑誌や本で紹介されてたから、じゃなく、<アトミク>の一貫として行けたらいい。話題のスポットに行ってみたいなんてミーハーじゃなくてさ、俺たちだけのatomikだから・・・。

 さすがに、自分に酔いすぎか。ちょっと引くね、はは。


 夕方、帰りの電車で、黒井から<いまおきた>というメールを受け取った。もう、にやけた顔が戻らない。僕は何て返そうか、でも吟味している暇はない、早くしなきゃクロが次の気分に移っちゃう、と、急いでただ<おはよう>と送った。ほ、本当は、このピンクのハートマークなんかつけちゃいたいくらいだけど・・・あれ、でもそれもちょっと違うかな。でも星でも音符でもなく、ニコニコ顔でも(笑)でもなく、・・・うん、本当は、きっと今僕が見ている景色を、車窓から見える曇り空を、写真に撮って送りたかった。お前の相棒は今こんなものを見てるって、夢から醒めたお前に伝えたい、なんて・・・ああ、ちょっとこの勝手な盛り上がり、何とかならない?結構気持ち悪いよ、自重した自分が偉い。

 電車を降りて、肌寒い空気で頭を冷やしながら、考えた。

 ちょっと<アトミク>にこだわりすぎてたけど、やっぱりそれは二人でやるものであって、黒井個人の誕生日なのだから、必ずしもそうじゃなくてもいいんじゃないのか、と。

 何かもう、頭が冷えても僕の気持ち悪いのは飛んでいかないから、しょうがないね。

 一歩間違えばストーカーかなってくらいだけど、だからって、僕は僕だし、お前が僕とやると言ったんだから、仕方ないんだよ。

 帰って一人鍋の準備をしながら、黒井の歌が頭に流れた。

 昨日のカラオケじゃなくて、雪の屋上。

 歌詞もメロディーも思い出せないけど、その時見ていた雪だらけの空と、耳が冷たい感覚、そして、流れ星の話がずるずると、付随情報として引き出されてくる。

 ・・・うん、やっぱり、これかな。

 僕はネットを開いて、もう買うものが決まっていて、それについて調べるだけならいいはずだと自分に理屈をこね、アマゾンで購入のボタンを押した。あれだけあれこれと迷っていたのが嘘みたいに、ためらいもなく。

 あとは、誕生日にちゃんと間に合うように届くのを待つだけだ。



・・・・・・・・・・・・・・



 水曜日。

 久しぶりの新宿、ではまったくないけど、久しぶりの会社だった。

 スーツを着ることさえ、何だか違和感がある。何のカンファレンスに出席するんだっけ?

 萌黄色のネクタイと眼鏡で、ああ、これならハイアットでも大丈夫だ。まあ、五月からクールビズだとかで、ネクタイなしでいいことにはなってるけど。

 ちょっと緊張しながらオフィスに入り、まだ黒井は来ていなくて、西沢に挨拶して写経を始めた。「ゴールデンウィーク、どうやった?」と、構わず話しかけてくる図々しさにしかし苛つくこともなく、「若い女の子たちとカラオケ行きました」と、さらっと答えてやった。はは、ざまあみろ。

「うお、嘘やん、山根君が?ちょっとどうしたん?ってゆか俺も誘ってよー、え、どこ、どこのカラオケ?」

「・・・新宿ですけど」

「ええ?そんな、目と鼻の先におったのに、何で電話してくれへんの!」

「番号知りません」

「や、もう、教える。今すぐ登録してな。ちょっと、ここ、書いたるわ」

「やめてください、神聖なお経です」

「ちょお、自分かて女のコとカラオケしといて、今更何やのええこぶりっこして、中身煩悩だらけやん」

 思わず、吹き出してしまった。まあ、その通りだ。今だって本当は、またあいつとまずいコーヒー汲みに行きたいって、丸一日も会ってなくて早く会いたいって、うずうずしてるんだ。

「もう、いややわぁ山根君、ははっ」

 西沢も肩を揺すって笑い、僕もなぜか「すいません」と謝って笑った。

 

 しかし期待に反して朝礼が始まっても黒井は来ず、僕は失望を隠すように「先週何してたんだか忘れましたねー!」なんて課内で明るく振舞ってみせる。プリンターを往復しながら三課をちらちら見て、ため息。仕事なんか手につきやしない。いや、黒井が来ていたってつかないだろうけどさ。

 ちょっと早めに会社を出て、ハイアットに行こうとしたがやっぱりいつもの工学院方面へ。まさか風邪とか引いたのかな、と心配になり、もしそうならこのまま看病に行こうかと、携帯を出した。

 メールが、来ていた。


<ついまた新宿来ちゃったけど今日本社だった!やばい、遅刻!>


 ・・・ああ、本社か。

 納得と、安堵と、何だ、看病行けないのか、コーヒーも行けないのかって勝手な不満と・・・しかし、それでもメールをくれたっていうのが嬉しくて、またにやけながら返信。


<おい、大丈夫だった?

 来ないから、どうしたかなって、思ってた。

 いつまで本社?まだしばらくそっちなの?>


 いつもなら<大丈夫だった?>で終わるメールだけど、今日はもう、次も、その次も、書いてやった。自分の気持ちも、気になってて訊きたいことも、書いちゃうんだよ。お前のこと、勝手にもうそういう存在だって思っちゃってるからさ。えいって送信しちゃうんだ。電話に勝手に出るどころか、この二行目と三行目すらでしゃばりで踏み込み過ぎだって感じてる僕が、手が震えることもなく、いいよねって胸にすとんと、思っちゃうんだよ。

 たぶん本当は少し、怖かった。

 勝手にここまで踏み込んで、でもそんな期待、あっけなく裏切られるかもしれない。

 踏み出した足場がぐい、と沈み込んで、そのまま溺れるかもしれない。

 でもその不安よりも、この僕が誰かに対してそこまで踏み込もうって・・・いや、他人の領域に足を突っ込んで踏み込むんじゃなく、僕の領域がお前にまで広がっていて、この内側なら自由に出入りできるんだって、そんな風に感じている自分に、戸惑いつつ、驚きつつ、でもそれが自然な流れで、いつの間にか心を満たしている自然な感情で・・・。

 やっぱり、ずいぶん、遅いんだろうな。

 お前がバレンタイン合宿の時<一緒にやって>って、その時巻いた種が、今こうして根付いている。一度失って、取り戻して、また離れて、そして再会して、何かを一緒にやろうって、それにあたって、お前はどんな風にやりたいか、どんなことが好きで、得意で、何をどんな風に感じてるのか、ちゃんと、俺はお前に興味があるよ。いや、興味本位というか、何だか下世話な意味でいろいろ知りたいんじゃなく、もっと、上向きな何かだ。だって一緒にアトミクをやるなら、お前をマネキンにしてモデルの服を着せるんじゃなく、冒険の服装を一緒に選んで、そのためにはいろいろ知らなきゃ、飛び出せないじゃん。知ったら知るだけ楽しくて、それがそのまま、地図を描いてく。今まで僕が作ってた地図は、人生の縮図たる大陸と海とを描き込んだけど、じゃあどこに行きたいかって、それはどこでも構わないわけで、それなら、二人の好きなとこに行けばいい。お前の好きなものを知れば、地図にそれが現れる。苦労して、笑ったり怒ったりしながらそこに行くのが、ただ楽しくて、嬉しくて。

 進んでる、んだ。

 お前が名付けた瞬間から人生に目盛りがついて、どれだけ進んだかって、見るのがわくわくする。もちろんゴールで終わってしまうって恐怖はあるけど、今は、大丈夫だった。

 まあ、メールが来て浮かれてるって、それだけのことだけど。

 僕はテラス席には寄らず、そのまま仕事に出向いた。上なんか向いて、空なんか見ながら。

 片想いの相手がいる、ってはにかんだドキドキ感とは、ちょっと違う。

 もっと確信に満ちた、行く先が、目の前に続いている感じ。

 この奥行き!

 緑色で、ドット表示しかなかった携帯の画面から、パソコンみたいな綺麗なカラー画面のそれに買い替えた時みたいな、これから未来に向けて何でも出来る感じ。しかも、お前と、どこまでだって!

 ちょっと、こんなに浮かれて、大丈夫かな。

 スキップしながら車に轢かれて死んだりしない?

 そしたら携帯がグーグー鳴って、<今週中は本社、来週からそっち、戻る>と。そっか、さみしいけど、こうしてメールも出来るし、ああ、今日はノー残だから、電話とかも、出来るかも・・・。っていうか、四ツ谷のお客さんっていなかったかな。ちょっとだけ抜け出せたら、会えたりしない?さすがにまずいか。<アトミク>活動における重要な発見でもあれば、呼び出してでも報告したり出来るけど、うん、頑張って見つけるか!

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