第45話:掃除とマヤちゃんと、キスの真意

 少し酔いはじめた僕がめずらしくよく喋って、何だかたくさん黒井に説教をした。日ごろの鬱憤だ。

「一番の問題はさ、それが、お前、傍目には全然見えないってこと」

「それ、問題なの?」

「問題だよ。だってお前、綺麗好きじゃないのに、まるで俺綺麗ですって顔で歩いてんじゃん」

「べ、別にそんな顔してないよお。普通に歩いてるだけだよ」

 黒井もほろ酔いで、少々、べたべた上戸も発動しながら。

「そんなことない。お前なんかね、ホームに立ってるだけで、桜が散りそう」

「・・・はあ?何それ。なんか、死神みたいじゃんかあ」

「ああ、間違えた。舞いそう」

「埋葬ってやっぱ死神だよー」

「埋葬じゃないよ舞いそうだよ」

「どうでもいいけど、それがいけないの?」

「違うよ。そこじゃないよ。そうじゃなくて、中身がね、そうじゃないのに、外からはそう見えるっていうのは、何ていうの、秩序の崩壊なんだよ」

「・・・秩序の、崩壊」

 そうつぶやいた黒井から少し笑みが消えた。自分でも思い当たることがあったんだろうか。

「お前が勘違いされて、誤解されるのは、そこに秩序の崩壊があるからなんだよ。そういう、綻びって、良いか悪いかに関係なく、人を、惹きつけるんだ」

「・・・俺が、魅力的って意味?」

「全然違う。何聞いてんの?だからさ、たとえば壁があるだろ。壁を見るだろ。そこにひび割れがあったら、必ずそこ見るだろ?直さなきゃとか、汚いなとか、そういう判断を差し挟む前にさ、そういう認識より早く、視界に入った瞬間にそれは、ただ見ちゃうんだよ」

「・・・まあ、見ちゃうだろうけど」

「人間の機能として、それは、見ちゃうんだよ。その、ただ見ちゃうだけっていう行為が、始まりなんだ。俺なんかそうやって最初に見られることなんてないから、たぶんお前より百倍楽なんだよ。秩序も崩壊してないから、大丈夫だし」

「そーお?」

「最近は、そうでも、ないかも」

「理屈屋は変わんないけどね」

「・・・まあね」

「じゃあ、さあ・・・」

「うん?」

 黒井が、何となくとろんとして、僕のあぐらの膝に手を乗せてくる。意味もなくさすったり、叩いたり。いっぱい喋って疲れたんだから、これ以上体力、減らさないでよ。

「今日さあ、お前が突然あんなこと言ったのも、秩序の崩壊の、表れ、なわけ」

「え?何だよ、あんなことって・・・」

 あ、また、僕じゃない僕か?何を言いやがったんだ。

「え、その・・・急に・・・き」

「き?」

「キスしたいとか」

「ぶっ・・・、な、そんな・・・」

 おい、俺!抜け駆けするなって、あれほど!

「お前からそういうこと、めずらしいからさあ、俺、びっくりしちゃって」

「へ?そ、そんなこと、言ったんだ、っけ?」

「言ったじゃん。魚食べながら」

「・・・は?さかな?」

「骨が刺さったの?骨のこと考えてたら、キスしたくなってきたの?」

「な、何を言ってるんだ」

「だって・・・」

 ・・・。魚?骨?

 ・・・キス?

「もしかして」

「うん?」

「何か言ったな。うん。キスがどうとか」

「そうだろ?何、忘れるようなことなの?」

「いや、まあ、キス、食ったよ」

「く・・・食っちゃうの?」

「馬鹿だな、お前、あれは、魚のキスの、天ぷら。食ってただけだ」

 うん、何か、言ったかもしれない。え?そんな、ダジャレ、馬鹿みたい。あはは。

「これ、キスの死体なんだって思いながら、食ってただけなの!」

「・・・はああ?なにそれ!」

「聞き間違いだよ!ばっかだなあ。キスしたいなんて俺が言い出すわけないだろ?キスの死体だって言ったの!何だそれ、まったく。そんな秩序の崩壊起こしてないよ!」

「ええー?また死体の話だったの?うわ、もう、お前最低」

「そうかな」

「何だー勘違いか。あはは。お前からキスしたいなんて、言い出すわけ、ないか・・・」

「ない、って・・・」

「ふうん」

 ・・・急に、寂しそうな声、出すから。

 胸が、詰まるじゃん。

「そ、それに、誰もお前とどうこうとか、言ってないし」

「あ、俺、自意識過剰?」

「べ、別に・・・」

 いやだな、まずい。

 今、思いっきり、キス、されたい。

 いや、だめだめ。もしするなら、こないだみたいに、ちゃんと歯を磨かなきゃ!

 ・・・え、歯ブラシ?買わなかった。・・・いや、バッグに詰めてきたんだ、そうか。っていうか、着替えもみんな、一泊分持ってきたんだった。うわ、お泊り会だよ。

「はあ、もう、今日は疲れたしさ、そろそろ寝ようか!」

 おかしな空気を打ち破って、伸びなどしてみる。そうそう、健全に寝なくっちゃね、温泉浸かって、ご飯食べたら、歯を磨いて、布団に入って・・・。

 ・・・。

 あ。

 そうか、宿じゃないから、布団二組、じゃ、ないんだった。

 今更わざとらしく気づいてみたり、する。本当は分かってたけど、さ。緊張して、つばを飲み込む。やだな、喉を鳴らしたりして、変なやる気、みなぎってるみたいじゃん。いけないいけない、とにかく、着替えて、歯を磨くんだ。着替え、歯磨き。今は、それだけ考えよう・・・。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 歯を磨いて、そのままその歯ブラシで洗面台を磨いた。

 いくら、ユニットバスの小さな洗面台を、ろくに使ってないからって。

 こないだはよく見てなかったけど、これはひどい。寝間着に着替えてもやはり腕まくりして、台所用洗剤で、ゴシゴシ磨く。そうそう、だんだん綺麗になってくる。金属が光ってくるところが好きだ。心が落ち着いて、秩序が回復する。いや、秩序が回復して、心が落ち着くのか・・・。

 結局そのまま、少ないけど皿も洗う。ついでに風呂にも手をつけたいが、それは明日だ。明日は早起きして、大掃除だ。そうそう。だから、早く寝なくちゃ。

 拭いた食器を片付けて、包丁も研ぎたいけど砥石もないし、もう、やり始めるときりがないからすべてを明日に丸投げする。人の家だと、自分のうちより少しそういう気力がアップするから不思議だ。何となく、他人事だから逆にちゃんとやるってところがあるんだろう。ふむ、そのあたりはもう少し何かありそうだな。状態を客観視できるところが基準を引き上げるのか、それとも非所有物であるがゆえに、判断に利己的な迷いがないのか・・・。

「ねこ、終わった?」

「あ?」

「寝ようって言って、もう一時間も経つんだけど」

「え、そんなに?」

「うん」

「そんなにかかってんの?洗面台と洗い物だけで?かかりすぎだろ俺。ぼうっとしてたのか?手を動かしてなかったのか?一時間って!本当に?」

「・・・もう、俺が泊まりに行った方が、良さそうだよね」

「う・・・ご、ごめん。・・・ん、いや?お前が来たって、結局掃除したぞ」

「あ、そっか」

「本当に、散らかすのは得意だな」

「まあね。エントロピーの増大に寄与してるの」

「は?」

「何でもない。寝よ?」

「う・・・うん」

 ・・・。

 部屋に、入った。後ろ手にドアを閉める。

 こうして見ると、えらく小さな、シングルベッド。ちゃんと、寝ようとして寝るのは、初めてだ。枕代わりのクッションが置かれていて、恥ずかしくなった瞬間、さっさと電気が消された。カーテンの隙間から、一センチくらい、薄い光が漏れる。

「俺、別に」

 いや、一緒に、寝たいけど。こんな、狭い、ベッド・・・。

「・・・床で寝たら、寒いんだよ?」

「え?」

「だから、ね」

 ・・・。どこかで聞いたようなせりふ。口調すら、真似て。

「それ・・・」

「俺、今布団あっためといた」

「・・・、さ、サルか」

「え?」

「俺は信長か」

「はは、そうそう御館様。どうぞお入りください」

「く、・・・くるしゅうな・・・いとか!言わせるな!」

 黒井は楽しそうに笑った。まあ、修学旅行、みたいな?


 二人で、狭いベッドで、ほとんどくっついて横たわる。同じ布団を、かぶる。肩が、腕が、冷たい足先が。

「じゃあ、あれだね、お約束」

「へ?」

「旅館で寝るとき、お約束なんでしょ?」

「あ、ああ?」

「・・・好きな女の子の話」

「・・・りょ、旅館じゃないけどね」

「そうだけど、さ」

「お、俺、そういうの、ないからって、言ったじゃん」

「うん」

「だから」

「じゃあ猥談?」

「却下」

「はは、何か、でもさ・・・こんなのってなかったよね」

「何、が?」

「普通に、こうやって、のんびり話しながら、寝るとか」

「・・・そうだね、いつも、俺、倒れてた?」

「そうだよ。俺、運んでばっか」

「・・・ごめん」

「いいよ、運ぶの好きだから」

「は・・・はあ?」

「それに・・・こないだは」

「うん?」

「話、出来たし。お前じゃ、ない、けど」

「・・・ああ」

「好きな女の子の、話・・・」

 なに、それ。どういう、意味?

「あのさ、俺、名付け親になりたいんだけど」

「は?」

「その、マヤちゃんってのは、どうかな」

「・・・え?」

「お前の、女の子」

「・・・その、マンガの?」

「うん。だめ?」

「・・・別に、勝手に、すれば」

「じゃあ、それで」

 で?そのマヤと、何、話したって?・・・って喉まで出てるけど、言わない。知るか、そんなこと。

 大人げもなく、体勢を変えて、あいつに背を向けてみたりする。こんなんだから、そのマヤって女にも、負けるんだろうけど。

「ねえ、あのさ」

「何?」

 そっけなく返す。せっかく、一緒に寝てるのにさ。他の女の、話とか。ああ、お約束、だからね。自分で言ったから、しょうがないか。でも、これなら、猥談の方が、マシ?

「実を言うと・・・お前さ、ひとつたぶん、勘違いしてること、あって」

「え、何が?」

「キスの、こと」

「へ?」

 何だよ、したのかよ。

 マヤと?まさか俺の布団で?・・・何だ、この腹に渦巻く、痛いくらいの怒りは。俺の、身体なのに。

「あの時の、唇の、傷のことだよ」

「え?」

「その、トイレ、の・・・」

「あ、ああ、そのこと?」

 何だ、そっちか。うん、あれは、僕だったよちゃんと。唇、切れた衝撃、覚えてる。何が起こったのかは、分かんなかったけど。

「あれね、本当は、キスじゃ、なかったんだ」

「・・・え?」

 ・・・何、それ。

 え?めまぐるしく頭が真っ白なんですけど。あれ、勘違い、なの?唇、触れて、なかった?キスしたと思い込んでたの?それって、すっごい恥ずかしくないか?

「違った、の?」

「いや、違く、ないけどさ。違う、んだ」

「なん、だよ」

「あの、唇、切れたの、どう、思ってる?」

「え、そりゃ・・・暗かったし」

「・・・うん。あれ、・・・ほんとは俺、キスじゃなくて、お前の唇、噛み切ったの」

「・・・は?」

「どこだったら、すぐ、血、出るかなって・・・」

 ・・・。言葉もない。・・・なんだって?

「頭、打ったじゃん。触ったけど、血なんて出てなくて」

「そりゃ、流血とか、そこまで」

「うん。だから、さ」

「・・・うん?」

「それで、キスして、紛らわしたんだ」

「・・・まぎらわした」

「いや、別に、仕方なくって意味じゃないよ。したかったから、したんだけど」

「へ?」

「だからさ、最初にキスしたいって、思ったわけじゃ、ないってこと」

「・・・え?」

「そういう・・・衝動だよ!もう、分かってよ!・・・分かんないか!」

 な、何。逆ギレ?

 黒井も、反対側を向いてしまう。背中合わせで、意味不明な怒りと、戸惑い。

 何だこれ?

 仕方なく、僕が黒井の方を向いてやる。背中に、そっと手を置いて、みたりして。

 もう、怒ってないからさ。

「・・・血、見たかったの?・・・別に、殴っても、よかったのに」

「違う。そんなんじゃない」

 え、何が、違うんだ?

 暴力的な衝動、とかじゃ、なくて?

「じゃあ、何だよ。・・・何でそんな話」

「・・・その、お前、あれ以来結局、何も訊いてこなかったけどさ。俺だって、どう思われたかなとかさ、考えちゃうよ。だから」

「・・・だから?」

「マヤ・・・ちゃんが、言ったじゃん。キスのこと・・・その、どうこうって。少なくとも、お前の中で、そう思ってるお前も、いたのかなって。だからってわけじゃないけど、俺も、お前に、ちゃんと言わなきゃって・・・」

 何の話、なんだ。

 僕の知らない僕が喋った、あのキスについての、<どうこう>。

 嫉妬も、あるけど。

 何を言っちゃったのか、その恐怖の方が少し上回って、何とか怒りを抑えた。

「・・・その、マヤと話したんだろ?じゃあもうそれで」

「いや・・・実は、言えてなくて」

「それを俺に今、言うの?」

 言葉に、険がある。あ、だめだめ、怒ってないって。

「だって・・・お前でなきゃ、こんなこと」

「ど、ゆ、こと?」

 訊くと、黒井は慌てた。どうしたの?ってくらい。

「お、お、お前も、覚えて、るんだろ?お前に、いや、マヤちゃんに、さ、あんな風に言われたら、無理だよ。俺、は、初めて、女の子に対して、自分を取り繕ったよ。見栄を張ったよ。・・・恥ずかしいよ。あんな、俺」

 何が、あったんだ?どうして僕は、覚えてないんだ。


 あのキスみたいな、そういうものを、あたしも、あげたいんだけど。

 ほんとうは、どうしたかったの?ね、おしえて?


「・・・」


 ううん、おもいだすだけでいいの。そしたらあたし、わかるから。

 クロがかんがえてたのと、おんなじこと。・・・そのさきまで、してあげる。


「・・・、クロ?」

「・・・う、ん」

「お、お前、・・・ああいうのに、よわいの?」

「うっ・・・ば、ばかばか、思い出すなって!その、なに、記録、されちゃってんの?やめてもう消去して!」

 黒井はこっちに向き直り、僕の首を絞めた。いやいや、そんなことされても消えないし、それに今のは記録じゃなくて、ふと降ってきたイメージなだけで。

 まあ、結局は、僕の脳みそだし。

 たぶんこれくらいのアレ加減か?なんて。

 だから、お前が何て言ったかは、知らないよ。

「く、う・・・」

 もう、馬乗りに、ならなくたって。

 死んじゃうってば。

「・・・っ」

 いや、これくらい、僕の忍耐にかかれば、大丈夫なんだけどね。

 エレベーターで息を止めるとか、よく、やってたし。

「・・・、っ」

 うん、たぶん、まだ・・・。

「・・・!」

 ついに手が離れて、黒井が覆いかぶさってくる。ごめんごめんと謝りながら、半分、えへへへ、と、妙にひきつった笑い。一瞬、視点が天井に飛んでいって、上から僕たちを見下ろす。うん、たぶん、ふつうじゃないね。こんなこと、誰にだって、言えやしない。

「お、おまえね・・・おれに・・・甘えてる、だろう」

 僕の、胸の、鎖骨の上で、黒井の頭が上下する。僕の荒い、呼吸に合わせて。

「こんくらい、なら、・・・しても、いいかって」

「・・・うん」

「・・・いいよ。別に、大丈夫だよ、全然」

 黒井は無言でむくりと上半身を起こすと、僕の肩に手を置いて、まるで幽霊みたいに、少しそうしていた。

「ね、大丈夫だって。ちゃんと、消えたよ」

「・・・ん」

「本当だよ。お前が何て言ったか、思い出せないんだ」

「・・・うそ」

「そう、だね。うそ。だって、はじめから本当に、覚えてないんだ、そこは」

「・・・」

「悔しいよ、俺も聞きたかった。そっか、こんな気持ち?じゃあ、俺も不機嫌に、なろうかな」

「なに、それ」

「俺がお世辞言うとこ、見たかったって」

「ああ」

「なっていい?」

「・・・いいよ。・・・ううん、やだって言ったら、どうすんの?」

「しょうがないから、やめてあげる」

「・・・」

「何だよ」

「離すんじゃ、なかったか」

「・・・クロ?」

「もう、お前のこと、好きなように、しそうじゃん!」

 黒井は突然離れて、また背を向けて寝てしまった。今までだって散々、好きなようにしてきたくせにね。

 二人とも、お互いの下半身のことは知らない振りをするくらいの理性はとどめたまま、初めてゆっくりと、何事もなく、倒れたり、遅刻する心配もなく、眠りについた。何か寝言が聞こえたような気がしたけど、僕は疲れに押し潰されるように、眠った。

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