第46話:恋の先、人生の先にあるもの

 壁側で、寝たもんだから。

 先に起きて、トイレに行こうとして、黒井をまたいで、その先の足を踏み外した。

「う、わっっ!」

 おかげで、思わずニヤけそうないい夢もすっ飛んだし、黒井を起こさないようにして幸せな二度寝を味わおうという企ても、同じくすっ飛んだ。

 低めのベッドだから大したことはないんだけど、ベッドのへりに叩きつけた手の指が、じんじんと痛んだ。まったく、何やってるんだか。

「んん?ねこ、おちたの?」

「・・・落ちたよ」

「おれの、せい?」

「違うよ」

「・・・よかった」

「あーそう」

 そんなに、寝起きのかわいい声出したって、騙されないぞ。

 とにかく、適当な朝飯を作ったら、僕は買い物に行って、今日はひたすら大掃除だ。

 しかし、冷蔵庫や棚を漁ってみても、食パン一枚見当たらない。こないだ僕が残していったとろけるチーズの残りと、ジャガイモがひとつあるだけだった。

 やっぱり先に、買い物なのか。

 時計を見ると八時二十五分。一瞬遅刻かと思って焦るが、今日は祝日のはず。そうだよな?一応何かで確かめたいが、カレンダーとかないのかこの家。

 あらためて部屋を見回すと、ろくなものがなかった。テレビもないし、パソコンすらない。本棚も、CDラックも、ファイルや書類の類もない。造り付けのクロゼットに入っているのかもしれないが、まあ、覗くわけにもいかないし。本当に、寝起きするだけの部屋みたいだ。家電も調理器具も最低限しかない。あるのはたまった洗濯物やゴミばかり。そうして見てみると、この男は、いったい何者なんだろう。

 何だか、妙に、変な気持ちになった。

 僕は、いったい、誰に恋してるんだろう。

 ぼうっと座っていると、背中を、蹴られた。

「・・・てっ!」

「ん、なんかあたった」

「クロくん、おはよう」

「あ、ねこだ」

 怒れないんだけどね。

 突き出た足の、その裏をくすぐってやると、うひゃーとか奇声を発して布団に戻っていった。面白い。っていうか、ただの、足なんだけど、その、素足とか、あんまり、まずいね。そんなのが、いつも、あのかっこいいダークブラウンの革靴に収まってるんだ。昨日から見てるけど、何だか、はだけた胸元よりも、ぞくぞくした。・・・いかん、買い物だ。

「俺、買い物してくるから。鍵、借りるよ」

「ん、早くね」

「何かあんの?」

「おれがさみしい」

「・・・あっそ」

 だったら、荷物持ちでついて来てくれればいいだろ。持たないんだろうけど。


 人の家の玄関の鍵をかけて、朝の住宅街を歩いた。昨日と同じ格好で、知らない街を。

 毎朝、毎晩、黒井が通っているであろう、道。

 あの人は、今は新宿の中堅企業に勤めるサラリーマン、という肩書きでこの街に住んでいるけど。

 本当は、いったい、誰なんだろう。

 そんなことを考えた。

 別に、どこかの国のスパイだとか、異次元や未来から現れたどうのこうのってことではないけれど、それでも、こうしてほんの少し私生活に入り込んでしまうと、人の生活とか、人生って何だろう、などと思う。起きて、出掛けて、帰ってきて、寝て。その間に何かを見たり聞いたりし、何かを考える。そういう蓄積を経た一個の個体が、ああして部屋のベッドで、僕を蹴ってきたりする。いったい、何なんだろう。

 道が、あって。

 両端には、家、家、アパート、マンション。

 これら全部に人が住んでいて、それぞれが、個体としての生を、今生きていて。

 地球の上を、生き物が歩いているだけなのに。

 生活とか、人生とか、社会とか。黒井とか、山根とか、名前をつけると、途端に意味があるように思える。どこかに何かの基準がある気がする。

 たとえば、どの洗剤を買えばいいか、とか。

 あの風呂のタイプなら、どのブラシか、どのスポンジか、とか。

 選択肢があって、知識と経験を元に、選ぶ。そういう、積み重ね。まるで、フローチャート。

 ・・・少なくとも、洗剤とブラシくらいなら、飽きるくらい買う金を持っている。それくらいなら、好きに、自由に、使ったって、捨てたって。

 そのために働いてるんだよな。

 そんな馬鹿みたいな自由のために、月曜から金曜まで。まあ、今日は祝日だけど。うん、本来なら、別に曜日とかいう概念に縛られなくたって、朝だろうが夜だろうが、僕が地球上のどこをほっつき歩こうが、自由なはずだ。お金って名前の紙や金属を持っていようがいまいが、関係ない。会社とか、税金とか、売上とか、そんなの、人生という地平にいったい何の意味があるんだろう。宇宙から見れば、生き物が歩いてるっていう以上の意味なんか、見つけようもないのに。

 ・・・思考が、飛ぶなあ。そもそも、何だっけ?

 たぶん、黒井との距離が急激に近くなって、ちょっと、わけわかんなくなっちゃったんだろう。南極点や北極点の近くでコンパスを使うみたいに。

 だって、昨日、なんて。

 僕はあの昭和のバスの中で、大真面目に、「俺のこと好き?」なんて、聞いてしまったのだ。しかも、「うん」なんて答えるから。

 ・・・。

 え?

 そう、だっけ。

 ・・・まあ、別に、嫌いじゃなければ、「うん」っていうしかないよな。あんな、泣きそうな声で、思いつめた顔で、聞かれたら、誰だって。

 別に、そういう意味があろうが、なかろうが。

 僕という人間は浅はかで愚かで、理屈をこねたって次の日にはボツになってることが多いんだけど、黒井と会って、好きになってから、変わらない真実の気づきがひとつだけあった。

 それは、たとえ、告白しようが、キスしようが、その先までいこうが、だからって「それ以上」にはなれないってこと。いつも、必ず、思考はそこで止まった。

 ・・・なれない、のかな。

 どうなんだろう。今日は、ちょっとだけ、疑問を挟む余地が残った。

 今までその思いは揺るがなかった。たとえ身体の関係を持っても、戯れで好きだのなんだの言ってみても、それはそれだけのことだ。そういう事実以上の意味はない。まるで高校生の恋愛みたいに、誰々と、こういうことがあった、というだけの、人生の一部分。

 でも。

 今までは、確かにそうだった。突っ走ってドキドキするだけの恋。

 でも、昨日。

 いや、黒井が、恋に落ちた云々と言ったせいじゃない。それは関係ない。それは、事実止まりの方だ。

 そうじゃなくて。

 ・・・自分の人生に、本気になった、とか。

 そんなこと、言ってなかったか。

 自惚れかもしれないけど、それが、僕によってそうなったのなら。

 いったいあいつの中の、何がどうなって、人生なんて大きな話が出てきたのかさっぱり、少しも分からないけれど、もしかしたら僕は、黒井の<特別>に、食い込むことが出来たのかもしれない。それは、まあ、僕の覚えてない、僕じゃない僕の功績かもしれないけど、それだって一応僕なのだから、百歩譲ろうじゃないか。

 僕と、あいつが、それぞれ、お互いに、影響を受けている。

 それって、恋だのキスだのっていう「以上」の、話なんじゃないか。

 どれくらい大きな話なのか、スケールが、まだうまくつかめない。でも、とんでもなく大きい話、という気もする。この、今ここに見えてる景色は道路とビルとマンションだけど、地続きで、これは地球であり、透明の大気圏をはさんでその先は、宇宙であるように。見えてるものは、明日の出社とか、粗利計算書だけど、その先は、どこか・・・、行けるような、気が。徒歩では無理でも、何か、車輪一個、火薬一個、手に入れたなら。もしかしたら、どこかへ、行けるのかも、しれない。

 今は、見えなくても。明日には虹がかかって、そこからどこかへ、行けるかも。

 僕はたぶん会社に入ってから四年だか五年だか経って、初めて、「その先」に希望を見た。

 何の確証もない、雲をつかむより漠然とした話だけど。

 あいつが、人生に本気になった、なんて言ったから。

 その先が、信じられるような気がした。

 やっぱりお前は、魔法の石だ。

 どんなに調べてもただの石で、その部屋には洗濯物しか落ちてないけど。

 それでも、信じられる。特別だって、感じることが出来る。

 ああ、すごく、わくわくした。

 うん、そうだ。

 僕は、はやく帰って、あいつの風呂を、洗ってやらなくちゃ!!



・・・・・・・・・・・・



 ・・・と思ったけど、残念ながらスーパーが開くのは九時からで、今はまだ八時五十分。僕は適当な壁に寄りかかり、携帯のメモ帳に買う物をリストアップして、準備を怠らない。この僕があいつの風呂を洗ってやるんだから、完璧に仕上げなければ、気が済まないじゃないか。どうしてこんなに風呂掃除に燃えているのか、しかし開店準備でのぼりを掲げに来たお兄さんに「おはようございます!」と挨拶してしまうほどに、爽快な気分だった。

 開店とともに、掃除用品コーナーへ、大股で、早足で。

 おっと、早速気が急いた。カゴと、カートも引かなくちゃ。こういうところで抜けがあるのが僕の悪いところだ。

 そして、ようやく掃除用品コーナーへ取って返したところで、携帯に着信。

「はい?」

「俺だよ」

「知ってる」

「ねえ、まだ?」

「まだ」

「お腹すいた」

「うん。待ってて」

「暇だよ」

「うん。待ってろクロ公、飯も作るし、掃除もするから」

「ほんと?」

「ああ、今スーパーが開いたところだから。なるべく急いで帰るからさ」

「俺、何して待ってる?」

「洗濯するものをまとめておけ。他は触らなくていい。洗濯機もまだ回すな。俺がやる」

「うお、何か、かっこいい」

「本来はお前がやることなんだよ。明日からは自分で頑張ってくれ」

「ええー」

「じゃあな」

 自分から電話を切った。黒犬は家で待たせて、やることをやってしまわなくては!

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