第243話:ランチは千二百円まで
火曜日。
朝から行程表の狭い担当印の枠に二人でぎゅうぎゅうにハンコを押しちゃったりして、もう、どんだけラブラブなの?俺たちもうくっついてるっていうか重なってるっていうか、交わっちゃってるでしょう。
「お、お昼、何食べたい?」
「えーとね、今は天丼。っていうか天ぷら?でもたぶん下行ったら暑くて変わる」
確かに、午前中は冷房が効きすぎていて、でも午後からやたら蒸すんだ。
「そうだ、上行っちゃう?」
「上のレストラン?え、いや、お偉いさんとかいたらちょっと・・・」
「別に、そんなん関係ないじゃん」
「まあそうだけどさ、居心地悪かったら食べられないし」
「うーん、じゃあ隣のビルのスカイレストランは?」
「うっ、いや、そんなに切腹できない、じゃない、割腹できない、じゃない・・・」
「何言ってんの?」
「・・・わからん。とにかく、ランチは千円までだから」
「税抜き?」
「税込み」
「ふうん・・・じゃあ天丼か」
「い、いいよ今日は千・・・二百円まで」
「よしじゃあ天ぷら!」
「はいはい・・・」
軽く肩をたたかれ、去り際、僕の渋りきった顔を見て黒井は「もおー、いいでしょ!?」と片目をつぶる。はは、別にケチで渋ってるんじゃないよ。いくら出したって構わないよ。ただ、しょうがないなって顔を作るのが大変で、にやけ顔と混ざっておかしくなってるだけだ。ちょっとでも気を抜いたら「ふふふ・・・」と笑いながらしゃがみこんで、その場で尻もちついて起きあがれないだろう。手土産の心配の前に、この挙動不審を何とかしなきゃか?
しかし、ぎゅう詰めのエレベーターで下に降りたらやっぱり黒井は「冷やしうどんにしよう」と言い出した。いや、今のエレベーターでちょっとくっつけたし、天ぷらでもうどんでも何でもいい。
・・・まあ、天ぷらならもしかして、座敷でゆっくり食べれたかもしれないけど。
安っぽいカウンターで冷やしたぬきの食券を出すのだって、全然、構わないんだ。
特別なことは何もないまま十五分で食べ終わり、涼を求めてコンビニに入るも人でいっぱいで、自販機でジュースを買って結局会社に戻った。僕は午後ティーのストレート、黒井は桃の天然水。
オフィスはガラガラで、佐山さんたちもどこか別のところで持参のお弁当を食べているみたいだ。
どうするかなあと思っていると、黒井が西沢の席にさっさと座り、ぐるぐると無駄に左右に回った。確か西沢は昼前に出て行ったから、まあ今すぐ帰ってくることもないだろう。
「あー、桃天うまい。ひゅーひゅー」
後ろにだらしなくもたれて、長い足を放り出す。おいおい、シャツの裾が出てるぞ。
僕は何となく、というか盛大に照れてきて、卓上カレンダーを手にとって見るともなく見つめた。青々とした山をバックにトラクターが道路を颯爽と走っている。
黒井は後ろ、つまり三課の方を向いてまだ小さく左右に揺れながら、「明日まで、だね」とつぶやいた。僕のカレンダーを見たのか偶然なのか、僕は前を向いたまま「そうだね、何か早い」と返した。
僕は、最初に黒井と会った時のことを思い出した。
マウスパッドの裏に、まだ<ねこ、さんきゅ>のふせんが貼ってあることを、お前は知ってる?
あの時お前が「やまねこ」と僕に声をかけてから、こうして、こう、なったんだ。
あれから九ヶ月も経ってるのに、どうして僕はいまだに、まともにお前の顔を見れず、心拍数の上昇なしに喋れないんだろうね。
・・・恋、してるんですけど?
ねえ、わかってる?
・・・・・・・・・・・・・・・
その後、よほど外回りは明日にうっちゃって黒井と内勤しようかと思ったが、まあ隣で一緒に出来るわけでもなし、甥っ子の土産の件もあるし、出かけることにした。席を立って、用もなく鞄を整えたりして、おもむろにちらっと三課を見て「うっす」「行ってらっしゃーい」みたいな目線のやり取り。もう何だろうね、何なんだろうね俺たちは!
しかし結局黒井から何かの話があったわけでもなく、夕飯も花火も、本当にただ誘われただけだったのか?それとも、天ぷら屋じゃなかったからゆっくり話せなかっただけ?
別に、何か隠してるとか、そわそわしたような素振りもなかったし、僕が素直じゃないってだけかな。
・・・ま、まさか、告白されようとしてる?
急にそんな思考が舞い込んだ。な、何を言ってるんだ。
・・・でも、そういう予兆、的な?
あ、あは、ははは、ま、まさかね。そんなの人生で感じ取ったことないけど、もしかして、帰省という大きなイベントに伴って、そんな事態が水面下で着々と・・・。
い、いえいえ、その、告白されて困ることはまったくないのですけども、でも、まだちょっと準備が整わないというか、いや、準備期間は何ヶ月もあっただろうって、確かにそれはそうなんですが、いざとなるとこう、いったいどういう態度を取ればいいのかとか、現実的にどういう顔をして生きておればよいのかとか、その、事象としてのそれは原理的に把握できるといたしましても、現実的な運用をですね、実際取り仕切るのはわたくしでございまして、ええ、その、申し訳ありません、シミュレーション不足でございまして、どうしてよいやらさっぱり分かりません。
・・・その時は、その時か。
ああ、人生最初で最後、かつ最大のイベントに際して、出たとこ勝負の行き当たりばったりなのか僕は?今まで事あるごとにやってきた準備や計画や目標設定や進捗管理は何の役にも立たないのか?黒井には偉そうに、きちんとやれば達成できて、そしたら次もうまく出来て、基礎が出来れば応用も出来るとかのたまったけれども、こりゃ全然だめだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
京王の上の子ども用品売り場に行って、何ていうか、浮いていた。
一応このくらいの子どもがいたっておかしくはない歳なんだけど、いや、やっぱり場違いな感じだ。
幼児向けのおもちゃは何だか高級志向のものばかりで、何とかの化学物質を一切使っていない木馬だの、知育の何たらだの、値段を見たらウン万円もして、おいおいという感じ。
もうちょっと、千円、二千円くらいで何とかならないか?
別にケチってるんじゃなく、その、いきなり知らない人に高価なものを持ってこられても、向こうだって困るだろう。
適当な、小さいパズルでもないかなと探して、ああ、そうだ、僕が好きだった日本列島パズルはどうだろう、と素晴らしい思いつき。何歳なんだか知らないけど、僕は幼稚園の間はずっと楽しんでいたように思う。小学校に上がる前ならちょうどいいんじゃないか?いや、二歳とかだと小さいピースは食べてしまうか?
小さいのは東京、埼玉、沖縄、一番は香川かな。鳥取もやや小さめ、徳島も、それから大阪だけは縦に細長い・・・。
あ、あった。
あったよ、これこれ・・・、って、ち、違う!
こんな、こんな民放の天気予報みたいな、どうでもいい形の日本列島じゃない!
いくら何でもデフォルメしすぎだろう。これじゃ都道府県のカタチが分からないし、っていうか都道府県名と県庁所在地名が何だかごっちゃだし、県庁所在地の位置にしても大雑把どころかどこでもいいって感じだし、等高線的な、標高みたいな概念も皆無だし、盆地も山脈もありゃしない!これなら意味も分からず地球儀でも回していた方がマシだ!・・・地球儀は七万円?ちゃっちいビーチボールタイプは千四百八十円?推定二歳から五歳の男の子に対し、僕が贈れるものはいったい何なんだ!
それから一時間近く悩んだ挙句、とにかく良かろうが悪かろうがさっさと使ってしまう消耗品で、でも食べ物じゃない、服でもないもの・・・と考えて、結局僕は何の変哲もない<がようし>と十二色クレヨンを買った。こんなの今時百均で売ってるよと思いつつ、プレゼント用にしてもらい、千五百円でお釣りをもらった。
・・・・・・・・・・・・・・
八月十三日、水曜日。
朝起きてカレンダーに忘れていた昨日の分の×をつけ、いよいよもう明日だ。
実感はわかない。
・・・死んでしまったな。
ああ、夢だ。とうとう僕はきちんと死んだ。
必死に思い出したが、思い出せたのは、自分が何やらお祭りみたいなものの最中に道路の真ん中で死んだこと、そしてその後死んだことに気づき、情けない、とか、そういえば死ぬ瞬間ってどんなだった?とか思い返していたことだった。
そして、思い返している自分に気づき、じゃあ死んでないわけ?仮死状態だった?となり、でもそれは、夢や思考が続いていることに対して僕が後づけした理屈であって、いったん死んで生き返る夢を見た、というのとは違うと思う。
死ぬ夢の前には、何だか妻と息子がいて、この女性もよく僕なんかと結婚したな、とか思った。妻も息子もまったく人間味はなく、サスペンスドラマの中の未亡人のヒロインみたいだった。地味で清楚な茶色いワンピースに、肩までの黒髪、だったような。これは甥っ子とお姉さんのイメージだろう。
・・・未亡人?
夫である僕が死ぬ前からそういう印象だったのか?
よく分からないけど、その後炎天下の道路で僕は倒れた。車に轢かれたんじゃない。道路は通行止めで、お祭りの何かが練り歩いていて、それはたぶん花火大会のイメージだろう。
それからたぶん、棺に入った、のかな。
横向きで、ちょっと膝を折って、寝ていた。
しばらく頑張ったみたいだけど、後から思い返したところによると、途中で力尽きて、眠るようにすうと落ちて、その後、ご臨終だったようだ。
もうちょっと何とか出来なかったのか、と。
クロが、いや、明確に思ったわけじゃないが、大事な人が悲しんでいるだろうに、と思った。
うん、悲しむのとはちょっと違うか。「えっ、なに、あいつ死んだわけ?」などと思わせてしまうな、と思った。
・・・ああ、終わってしまったんだ、人生でただ一度、死んでしまったんだ、と、思った。
いつもなら、ああ夢でよかった!と冷や汗をぬぐうところだけど、ここ最近の夢事情により、そうも思えなかった。まだぼうっとしてしまって、分析までは出来ない。黒井には「考えてみてよ」と言われているが、どうなんだろう、考えて、結論を出さない限り、警告のように死ぬ夢は続くんだろうか?それとも、僕が感じたように、もう終わり、手遅れ、なのか?
・・・・・・・・・・・・・・
歩いて数分のビルに一件、お盆もなしで営業中のお客さんがあって、様子伺いがてらそこを訪ねた。受付で内線を押して呼び出すといつも私服の事務の女の子が開けてくれて、その部署まで歩く間、天気の話や、パーテーションが変わって狭くてすみませんとか、外回り大変ですねとか声をかけてくれる。
「山根さんは、お盆休みあるんですよね?」
「ええ、まあ一応」
「えっと、どれくらい・・・?」
「明日から、五日間ほど」
「ああ、いいですねー。どこか行くんですか?」
「え、えっと、ちょっと帰省を」
あ、しまった、下手に故郷の話を出すのはNGだ。社内でも客先でも、あの人はどこの人だとかどうでもいいことが広まって、その後場を繋ぐ世間話の大半を担うことになってしまう。
「えー、どちらですか?」
「それはその、西の方で・・・いや、帰省といっても実家じゃなくて、会ったこともない親戚のうちで」
おいおい、何を口走ってるんだ?
「あの、ちょっと法事の集まりで・・・」
「そうなんですか。お休みがあってもデートや旅行とはいかないんですねえ」
「え、いや、まあ・・・」
デート兼旅行兼、未来の親戚って可能性も・・・って、いやいや。
最後は適当に濁し、せわしなくうちわを扇いでしかし暇そうな上司に挨拶。一つとなりのパーテーションに移り、先日、さきほどの女の子が日付を間違えて入力し、「よろしいですか?」の表示が出なかったからそのまま押してしまって2011年のデータが出来てしまったと聞かされた。
「えっと、過去の日付で更新されて、エラーメッセージも出なかった?」
「うん、どうなってたんですかね。そういう運用じゃなかったと思うんですけど・・・いや、まあどういう入力なんだか、私は把握してないんで本当のところ分かんないですがね!」
おいおい、声がでかくて隣まで聞こえてるし、それに、たった三、四人の部署で上長が把握してないって大丈夫なのか。
「と、とにかくそれじゃ、一日分飛んでしまってるんですよね?月締め前なら修正できると思うんで、ちょっと、今月中にどこかでお時間取ってもらえませんか」
「それって、日々の締めの後の作業ってことになりますか」
「そう、ですね。その方が」
「うーん、ほら、うちの仕事って日々まちまちなんですよ。要するに月ナカとか、暇な日がいついつってものがないので、16時ごろ締められる日があるかな・・・」
「あ、別に、17時とか18時でも伺いますよ」
「いやいや、それじゃ私が帰れないから!」
「あ、そ、そうですか」
「16時ごろ締まったら呼んだりとか、無理?ほら、近くだから!」
「は、はは、そうですね。作業の者が空いてれば、可能かと」
「えー、でも山根さん明日から休みなんでしょ?じゃあその後か。あー、おれも休みたい!もう帰りたい!」
「そ、そうですね。お察しします・・・」
「でしょー?だってこの会社有給使わせてくんないんだもん。なんて、ハハハハ!」
「あ、ははは・・・」
そして、会話が途切れて一瞬間ができたので僕はこの場がお開きになる合図を待ったが、上司は締めくくりの言葉を探しているのではなく、ただ別の話題を探していただけだった。僕は浮かしかけた腰をおろし、法事で<会ったこともない親戚>に絡まれるという想定にして、程よい相づちを続けた。
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