第174話:失ったものは、新しい形で得る
圧倒的なジャングル。その大地を自由自在に駆け巡る、青い先住民ナヴィ。髪で覆った神経回路が、つまり頭蓋から外に出ているわけで、それを動物にでも植物にでも繋げられるなんてまるでUSBのリンクのよう。星全体がそのようなネットワークで繋がっていて、デジタルな人類とアナログな先住民の対比のはずなのに、ナヴィの世界の方がまるでオンラインゲームの中みたいで、どちらがリアルか、主人公のジェイク同様分からなくなってくる。
そして、躍動感。
そんなの絶対無理だろって場所を、どこまでも登り、そして落ち、駆け、翼竜に乗って飛んでいく。見ているだけで、こんなに自在に体を動かせたらどんなに気持ちいいかと、運動音痴の僕でさえ憧れてしまう。
そして主人公はナヴィの娘ネイティリに恋をし、伝説の勇者となり、そして最後には本物のナヴィとなる・・・。
<I See You>というキーワードが、ラストで体現される。ジェイクはナヴィとして目を覚まし、その黄色い瞳が印象的に映し出され、エンドロール・・・。
見入っていた。
このメッセージはこうあるべきで、ここの対立はこうで、このキャラクターは・・・なんていくらでも浮かんでくるけど、でも、とにかく映像に圧倒されていた。
・・・そして。
車椅子の細った脚と、ジェイクのアバターの力強さ。
こんな主人公だって、ほとんど覚えてなかったんだ。毎回、アバターのリンク装置の棺桶みたいな圧迫感と、動かない脚を手で持ち上げて車椅子に乗せるのが痛々しくて、・・・今まで出来ていたことが出来なくて、情けなくて、思わず「新しい脚をやる」と言う悪い大佐の言葉にすがりつく、それは当然のように黒井に重なって、<僕が選んだ>映画を通して傷を抉るような真似をしていないかと、いらぬ心配もした。
でも、お互い何も言わなくても、顔も見なくても、そうじゃないことは分かった。
ほんの一瞬の身じろぎとか、息遣いとか、空気みたいなもので、お前が純粋に楽しんでいることが伝わった。西沢なんかとは比べ物にならない、リンク率というか、しっくりなじんで、分かる感じ。ただそれだけで、理屈や評価なんてどうでもよくて、お前と映画を観れてよかったって思う。意味なんてどうでもいいんだ、一緒に飛んだんだから。
エンディングの曲を聴きながら、黒井が僕の方を向いた。晴れやかだけど、でも戸惑ったような顔。・・・いや、僕だってそうだ。え、何だこれ、現実?
「・・・な、何か、変な感じしない?」
「す、する。これ、目の前にいるんだよね?」
画面だけをひたすら見つめて、交互に訪れるCGと実写に慣れた目が、そしてリンクとアバターという世界観設定に順応した脳神経が、今の目の前の実際の物体を認識するのに違和感を感じている。
「お、お前、これ本体だよね?」
「そ、そっちこそ・・・!」
久しぶりに出した声さえ、自分で言ったように聞こえない。エンドロールも下がり続けて目の錯覚を起こすし、ちょっと・・・酔った?
黒井がふいに僕の顔に両手を伸ばし、眼鏡を持ち上げ、すうと、斜め上に取り去った。視界がぼやけ、脳の認識が追いつかない。でもここが、この裸眼で見える部屋と、テレビの画面と、そして黒井が、最終の現実だ。伏せていた目を上げると、目が合った。
「アイ、シー、ユウ」
黒井がおどけて言う。僕は何言ってんだ、って顔で笑おうとするけれども、何となく空気が少し、しんとした。黒井はゆっくりと眼鏡を脇に置いて、音量を絞り・・・僕の方に少し近づいて、顔を寄せて、もう心臓はどくどくと反応している。たぶん僕の顔は緊張で固まったまま、その唇が、ああ、もうだめだ。目を閉じると、ちゅ、と音を立てて、左のまぶたにキスをされた。唇が押し当てられ、あたたかくて、柔らかい。顎が頬に触れて、そのひげが少しちくちくする。息を浅く吸い込んで、そして、いったん離れ、次は右目。何かが見えてしまいそう。黒井がリモコンで電気を消したのは、目をつぶっていても分かった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・記憶がフレッシュなうちに、ね」
黒井が映画に出てきた女博士の口癖をなぞる。テレビの明かりだけが明滅して顔の半分を照らし、また違う陰影の現実。・・・さっきのは、ラストのネイティリのつもり?
本当に映画のそれのように、腕から胸、頬を手のひらで撫でられる。どうしていいかわかんなくて、「ナヴィのつもり?」と訊くと「うん」と言うので、僕も、手を伸ばした。
やっぱり、遠近感と現実感が、よく分からない。映画から現実に引き戻されて、普通は白々しく感じるはずなのに、まるであの世界の続きのような、仮想現実のような視界と感覚。
そして、透明の膜を一枚かけたような少しずれた現実の中で向かい合う二人。たぶん同じ感覚を共有して、少し、おかしな雰囲気に、なっている。メインメニュー画面に戻って小さく流れ続ける音楽が、この部屋をまだ惑星パンドラと繋いでいる・・・。
「・・・ほんとに、いる?」
「見えてる、でしょ?」
「・・・い、言わないよ」
映画のせりふを、その直後にかっこつけてのたまったり、するもんか・・・。
「言ってよ」
「・・・」
弱いんだ。
でも面と向かってなんて無理だから、その肩をゆっくり倒して、布団に寝かせた。ああ、押し倒しちゃった・・・。そして映画と同じく、横たわる主人公の両目にキスをしたら、生まれ変わる・・・。ああ、失った何かは、その形で取り戻すんじゃなく、全く別の何かになることで、新たに獲得するのかもしれない・・・。
そのまぶたは柔らかくて、奥に、眼球を感じた。
ちゅ、なんて音は出せやしない。ただ唇で軽く触れるだけ。それでも、もうどこか夢の中のような、幻覚のような・・・。
・・・キスシーンが、浮かぶじゃないか。
闇に光る幻想的な植物に囲まれ、でもうっとりするような綺麗なキスでもなくて、ちゃんと生々しい性欲も感じられたその場面で、何も考えなかったわけがない。
黒井がゆっくり目を開けたので、瞳に光が反射して、闇夜の生き物みたいだった。
僕はその耳に小さく、「I・C・U」とつぶやいた。集中治療室だよ、僕にはそっちがお似合い・・・。死ぬほど恥ずかしくなる前に黒井が僕の背中に手を回し、「・・・ただいま」と言った。僕は「お帰り、クロ」とそれに答え、「・・・よかった?」と訊いた。何がなのかは自分でもわからない。でもクロは「・・・よかった」と少し恥ずかしそうに返し、すうと一息ついて、何秒もしないうちにそれは寝息に変わっていた。僕は「おやすみ」とその耳にささやいた。
・・・・・・・・・・・・・・
膨張したそれを抱えてそっと部屋を出て、なるべく静かに洗い物をしながら、ふいに思わず皿をすべらせるくらい、恥ずかしさがこみあげた。
・・・だめだよ。
・・・は、恥ずかしいって!!
動けなくなってシンクのへりにつかまってしゃがみこみ、じっとしていたら勝手にさっきのことが脳内で再生されて、「・・・ちょっと!」と小声で叫んで頭を振った。
あり得ない、あり得ない。何だ今の・・・。
いや、いや、ちょっと映画に当てられただけだ。画面に酔って、現実感を見失っただけ・・・。
ともすると貧血さえ起こしそうなひゅうひゅうする体を引きずってシャワーを浴び、皿を片づけ、また一通り歯を磨いたりごみをまとめたりした。
そっと部屋のドアを開けてみるけど、出たときと同じで、テレビはメインメニューの映像を流し続け、黒井は布団の端で斜めになって寝ていた。
何秒か逡巡して、結局ドアを閉め、そこに座り込んでドアに背をもたれた。
・・・いる。クロが帰ってきて、うちに来て、寝ている。
帰って、来たんだ・・・!!
静かな感動がこみ上げて、胸がいっぱいになった。まだ実感がなくて、映画のせいもあって現実感もないけど、でも、確かにそこにいる。クロは僕の元に帰ってきてくれたんだ。
時計を見ると、時刻はもうすぐ四時半だった。
そして、睡眠時間としては少なすぎるけど、徹夜すると思えば有り余る時間で、いろいろなことを考えた。
・・・どうして突然、帰ってくるなり映画だったんだろう。海を見て触発された?それにしては海の話じゃない。
そして、あのスーツや無精ひげはどうしたんだ?今朝海で遊んでから帰ってきた?どちらにしてもすぐクリーニングに出さないと。
それから、こうしてひょっこり現れてまた当たり前みたいにうちに来てるけど、本当はそんなの全然当たり前のことじゃなくて、だから僕は黒井といる一瞬一瞬を大事にすべきだ。・・・だって、やっぱり黒井がいなきゃ何の意味もない。ミステリだって物理だって、僕のすべてはあいつの延長線上だ。
僕はふと背中の向こうにその存在を感じて、夜明け前の静寂の中、少し、涙が溢れそうになった。
・・・あ、ちょっと、だめかも。
一ヶ月こらえてきたものが、決壊して、出て来ちゃいそう。無意識の不安や、恋しさや、寂しさや、そういう、黒井といるようになってから感じるようになったものが、こみ上げてきてしまう。
ただいまと言って、抱かれた背中。
まさかお前も寂しかったとか、そんなことは、ないよね。今すぐ抱きしめてしまいたいけど、そんなことをしたらたぶん会社に行けない。そのままGW、五連休もしたらきっと人生を踏み外してしまう。
いいんだ、お願い、ここでほんのちょっとだけ泣かせて。帰ってきてくれて嬉しいし、会いたかったとか言ってくれて、本当はその場で倒れそうだった。胸がきりきりと痛い。嗚咽をかみ殺し、僕は僕の人生を言祝いだ。はは、何だか、何でも出来そうだ。徹夜明けで会社だって、なんてことないよ。
・・・・・・・・・・・・・・
七時前に家を出た。
黒井はよく寝ていたので、書き置きを残した。冷蔵庫のものは食べて構わない、出るときは合い鍵をかけて下さい、と。メモの上に黒井の家の鍵も置いた。うちの方のにキーホルダー代わりのヤモリをくっつけておいたけど、もう、そのままお互い持ってたっていいんじゃない?
会社で日課の写経をし、ちらちら三課を気にすることもなくて、穏やかかつ、ふとこみ上げそうになる何かをこらえる一日だった。胸がいっぱいになって、叫びそうになってしまう。勢い、昨日無為に買った菓子を西沢にあげてしまったりもする。満たされてるってこういうことか。しかも明日からゴールデンウイークだなんて、外回り中に献血でもしちゃおうかな!
「おお、これ見たことない!新しい味のホルンやないの。うわ、これもろてええの?」
「どうぞ」
「わあ、嬉しいわー。レモンとかゆうて、初夏っぽくてええやん。うわ、うま!」
「それは何より」
「さすがスイーツ部やね。やっぱ新作はすぐチェックすんやあ」
「な、何ですかそのスイーツ部って」
「え、こないだ言ってたやん。ケーキ焼いたりすんねやろ?」
「ケーキ・・・?」
ケーキなんか焼いたことないけど、そんなこと言ったっけな。
・・・ふ、と何かが頭をかすめる。
ケーキ?ケーキ・・・。
・・・誕生日?
「あ」
急いでカレンダーを見る。黒井の誕生日は確か10日で、来週の、土曜日。そうだった、誕生日がどうしたというより、ちゃんと帰ってくるのか、帰ってきてどうなるのかっていうのが先決で、考えていなかったというか、考えられなかったんだった。
まあ、ゴールデンウイークでゆっくり決めればいいか。
そう思って会社を出て携帯を見たらメールが来ていて、黒井が起きたのかなとにやけながら見たら、菅野からのカラオケのお誘いだった。
<山根さん、お久しぶりです。菅野です、覚えてますかー!?(笑)
お元気ですか?黒井さんも、出張から帰ってきましたか??
あたしもあれからいろいろなことがあって、少しずつ進んでる感じです!ライブの出演も決定して、他にも、藤井さん経由で(えへへ♪ちょっぴりお二人のことも聞いちゃいました!)ちょっとコラボというか、企画が持ち上がってマス☆
というわけで、前から言ってたカラオケのお誘いです(^^)
といっても、もしかしたら、そのコラボの人たちも合流するかもしれません。あたしも初めて会う人もいるし、ちょっと顔合わせ的な場になっちゃうかもしれないけど、別にその企画の練習の場ってわけでもなくて、フツーにカラオケを楽しむつもりなので、気楽に盛り上がりましょー!!
一応5月6日、新宿のカラオケ館あたりかなって思ってます。まだ予定が入ってなかったら、ぜひぜひ来て下さい!
P.S.会社の人たちもみんなお元気ですか?何かひと月しかたってないのに、もう懐かしい感じ!>
・・・。
カラオケ?
企画?
盛り上がる??
そんな会に参加したい気持ちは全くないけど、でも、僕が誘われているというより黒井に伝えてほしいんだろうし、なら伝えておくか。黒井が一人で行くならそれはそれだし、めんどくさいとか言って蹴ってくれればなあとか思うけど、そんなの僕が口を出すことじゃない。
地下通路を歩きながらメールを打ち、ぐだぐだ説明するけれども、読み返すとどうしても行かせない方へ誘導するような文になっていて、結局転送することにした。<菅野さんからメール来ました。お前のアドレスを知らないようなので、こっちに来たみたい>と添え、藤井とのあれこれのところだけ隠蔽工作で消しておいた。・・・ほ、本命はお前なわけで、変な勘違いされても困るし?なんて、いや、バカだな・・・。
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