第180話:居酒屋、蜜の雫にて

 通された席は忘年会の座敷とは全然違って、薄暗い、半個室のブースみたいなところだった。向かい合わせの、列車のボックス席みたい。

 タバコのにおいと、喧騒。黒井はメニューを楽しそうに選んでいる。僕は熱いおしぼりで手を拭きながら、僕たちはここから始まった、いや、始まらなかったのか、と思った。僕たちは<蜜の雫>じゃなくて<みつのしずく>に行ってしまい、黒井は僕に電話したけど僕は取らなくて、それがもう、半年前?いや、まだたったの半年?

「あのさ、これにしない?青じその、棒餃子?」

 残念ながら普通の羽根付きのギョーザではなかったけど、やっぱり黒井はそれを選んだ。

「何笑ってんの?」

「ああ、いや、さっき夢でさ、お前がギョーザ食ってた」

「えー、何それ?」

 先に頼んでいたビールとウーロンハイが来て、しゃがんで注文を取るお姉さんに黒井が笑いかける。「ねえ、これって辛い?」「えっと、そう、ですね。少しピリ辛です」「じゃあやめ。こっちにする」「はい、かしこまりました」・・・ねえ、どうしてかな、あんまり嫉妬を感じない。でも全然、好きだ。大好きだ。「ありがとうね」なんて一言でお姉さんをイチコロにしてしまうお前が、かっこよくて、何だか誇らしくて。

 今日シフト入れといてよかった、って顔に書いてあるお姉さんが行ってしまうと、二人ともグラスを持った。なら、乾杯?

 僕はグラスを持ち上げて、「お前が生きて帰ってきたことに」と言った。何だよ、くさい?

「・・・はは、じゃあ、俺が生きてお前と再会できたことに」

「・・・乾杯」

「乾杯」

 カチャ、とグラスを合わせ、半分くらい一気に飲んだ。熱くなった顔を冷まそうと思ったのに、久しぶりのアルコールが後からふわっときて、逆効果だったかな。いや、結局顔が赤くなるなら、どっちにしても照れ隠しになるか・・・。

「ぷはあ、うまい。ああ、それでさ、こないだ言ってた、お前に似たやつがいたって」

「う、うん?」

「別に顔とか全然違うんだけど、何か、雰囲気がさ。ほんと全然、かわいくないんだ」

「な、何だよ、悪かったな」

「俺のこと馬鹿にしてるくせに、でも、うん、お前とは違うんだ。神経質なとことか、群れないとことかも似てるのに、どうしてだろう」

「そんなの、俺が知るか」

「あの、不破くんは・・・あ、そいつ不破くんっていうんだけど、そいつはさ、何か、完結しちゃってるんだよね。今日やっぱり分かったけど、お前は全然、不完全」

「・・・何だそれ」

「あのさ、すごいでしょ。俺だってお前みたいにプロファイリング出来るんだ」

「す、すごくないよ。全然わかんない。論理的でない」

 <No Logic>。まったく。

「はは、確かにね。でもいいんだ、俺が分かったんだから」

 そういえば片付けの時見なかったけど、ということはそのシャツ千葉で着てたわけ?僕より先にみんなが見たってわけ?

 そして黒井は、若人たちのことをいろいろ話した。みおちゃんとナナちゃんはアイドルの追っかけで、ジャニーズに入れるとか、彼女はいるのかとしつこかったこと。岩城くんとシゲやんは格闘技の実践ばかりして何か備品を壊したこと。真田くんと澤村さんがさっそくイイ感じになってしまい、何か間違いが起こらないかと半ば期待して見守ったこと・・・。

「俺、全然尊敬されないよ!段取り悪いし忘れ物ばっかだし、っていうか研修なんて俺にとって海に行くついでだから、別にどうでもよかったんだけど」

「お前ね、ちゃんと仕事しろって」

「だってそれどころじゃないんだもん。俺がこれからどうするか、どうやって生きるか、それで精一杯」

「・・・うん」

 テーブルに並んだ棒餃子や竜田揚げや出し巻き玉子や、二杯目のグラスを空けながら、僕は結局、本題に足を突っ込んだ。若人のあれこれを聞くのは楽しかったけど、でもやっぱりお前の人生が俺の人生で、だから言いにくいことでも言わなきゃいけない。スマートにさらりと答えを出せないのが情けないけど、ごり押し、力任せで岩を崩していくような泥臭さで、それでも、前に、進めなくちゃ。

 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



「あの、実は、そのこと、なんだけど」

「うん?」

 隣のボックスの騒がしい男女が席を立って、僕と黒井は何となく顔を寄せ、声も一段落とした。

「あの、ごめん、結局、こんなことがあって・・・っていうのはうちの、その親戚のことだけどさ。それで」

「・・・うん?」

「もう、連休も二日も終わっちゃってさ。せっかくの休みなのに、全然予定なんか立てらんなくて」

「・・・」

 僕は注射の針を刺される時みたいな感覚を味わいながら、言葉を続けた。グラスからしたたるしずくをおしぼりに含ませて、しかし酒が回ってきたらしく、頭が、ふらふらする。

「お前がどういう風にしたいのか、何をしたら何がどううまくいくのかって、いろいろ、考えたんだ。その、お前が言ってたこととか、お前の性格とかも、考えて・・・でも」

「・・・うん?」

「ちょっと、うまく、いかなくて。考えすぎてわかんなくなったり、俺の・・・俺の恣意的な感じに、なっちゃったり・・・今日もお前にその、泣きついちゃったりして、情けない」

「・・・うん?」

「ごめん、ほんとに、ちょっと・・・」

 僕はテーブルの濡れたおしぼりにてのひらを開いて乗せ、無意識のお手上げを示した。

「あの、・・・あのさ」

「うん」

「お前は、何がしたい?」

「え・・・、いや、俺がどうとかじゃないよ。お前の、人生の、話・・・」

「俺が、やりたいこと?」

「うん、そうだよ」

「何言ってんだ、そんなのないよ。俺は、ただやりたいんであって、やりたいことなんかない」

「・・・え?」

「俺のやりたいことなんか考えなくていいよ。そんなのないんだから。好みとか、性格とかも、どうでもいい。100%お前の恣意的でいいんだよ。俺は、お前がくれる餌を待ってるワン公なんだから」

 黒井は体を乗り出して、僕に向かってわん!と吠えた。

「え・・・でも、そんなの」

「俺はさ、自分の餌も取ってこれないバカ犬だよ。それに気づくのが遅かったけど、気づいただけ偉いんだ。気づいて、それを自分で認められたっていうのは、お前のおかげだよ。だから、その・・・」

「・・・うん」

「ね、一緒に何か、おもしろいこと、しよ?」

「お、俺、面白いこと、なんて」

「何でもいいんだ、ほんと、棒きれ投げてくれれば取ってくんだよ。そんなくだらないこと、この年でもう、誰もしてくれないじゃん」

「で、でも・・・お前、お前だって分かるだろ?俺、友達なんかほとんどいないし、遊び方とか、知らないんだよ。お、お前の誕生日だって、何していいか・・・」

「・・・そんなこと気にしてんの?」

「こないだの本番だってほとんど俺の趣味、っていうか悪趣味だし、物理だってちゃんとやれてないし」

「別に悪趣味じゃないよ、楽しかった。それに物理もさ、やっぱりただ本を読んで理解したって何にもなんないよ。それをどうしていいかも、俺はわかんないし」

「どう、するって」

「だって物理学者になれるわけでもないし、学んだって何をどうするあても・・・」

「あても、・・・ない?」

「・・・何か、ある?俺今からまた大学とか、やだよ」

「う、うん・・・」

 僕はふと、あの書きかけのどうしようもない小説もどき、というかイメージ描写のかけらみたいなものを思い出した。論文は書けなくても、くだらない創作なら、出来る、けど・・・。

「物理、なのかな・・・やっぱりお前のやりたいことって」

 そして、三十万のアインシュタインを思い出す。うん、やっぱりこうして考えたら、お前らしさって、お前が単なるイケメンと違うところって、オシャレ雑誌じゃなくて物理の本を読んでるところじゃないか?

「それは、そうだけど、でも、もうやりたいこととか別に関係なくて」

「いや、やっぱり大事だよ。結局お前の中で何か引っかかるものがあるから、物理なんだ。ただちょっとかじるなら何年も続いたりしない。主人公はさ、結局最後には、自分が持っている何かで勝負しなくちゃなんないんだ」

 何だかだんだんまぶたが重くなり、思考の論理力と口から発声する言葉を中継する回路が、酒の力で溶けかけているみたいだった。

「・・・主人公?」

「やっぱりお前と話さなきゃ、地図は埋まんないよ。お前は医者なんかじゃなかった、でも物理学者でもないのかな。はは、お前は、誰なんだ?」

「な、何の話?」

「うん、あのさ、物理をどう、ってさ、どうでもいいんじゃないかって、思うんだ。山に分け入ったって、でも観光客と一緒に山登りしてちゃしょうがないよ。ただ何もなしじゃそりゃ、どうにもできない。テーマだ。主題がなきゃ、プロットポイントもあやふやになる。そうか、物理でよかったのか。よし、それをしよう。俺と、やって、くれるだろ?」

 何だか調子に乗って、立ち上がって、右手を伸ばした。これ、俺が喋ってる?

「・・・そ、それ、俺のせりふ、なんだけど」

「ごめん。じゃあ、お前が言って」

 黒井も立ち上がって、笑いをこらえて僕のウーロンハイを一口飲み、咳払いをして、目を開けたら真顔だった。

「俺と、やって、くれるだろ」

 一秒、二秒、・・・え、何て返せばいいんだ?はい、とか、喜んで、とか、もちろんです、とか・・・?

 僕も一口それを飲んで、ああ、そっか。黒井なら何て言うかって考えたら、それだ。

 出された右手をしっかり握って、僕は、「・・・上等!!」と。そして二人で大笑いして、黒井が僕の席まできて奇声を発しながら僕を抱きしめた。両腕を首に回し、急にふらりと酔いか、めまいか、貧血がやってくる。「うお、なんか、楽しそう!」とはしゃぐ声が少し遠い。もう少しだけ、一秒でも長く、お前の肩に頭を預けて、その体温に包まれていたい。吐き気がして、じっと我慢していたら、黒井が何度か呼びかけていた。



・・・・・・・・・・・・・・・・・



 酒も久しぶりだったし、でも、貧血もめまいも久しぶりだ。

 お前がいない一ヶ月、全然、大丈夫だったんだけどな。

 肩を抱かれて、トイレまで行った。そしてその前の竹のベンチが目に入って、ああ、僕は瞬間、体の感覚を忘れて、それに手を伸ばした。

「お、おい、大丈夫か」

「はは、これ、これだ」

 しゃがみこんで、手のひらでそれを撫でた。お前はここに座って首をうなだれてた。僕はそれをどうしたもんかって、じっと考えてた・・・。

「懐かしい」

 あの時、ここでお前が幹事をまだやれるのかって、僕が代わるのかって逡巡してた時、僕はまだお前が、お前のことが好きだってことに、気づいてなかった。そんな自分が、かつてはいたのだ。そんな時代が僕にもあって、まるで恐竜が闊歩しているような遥か昔に思えるけど、ほんの半年前の話。そいつに言ってやりたい。俺たちはもうここまで来た、俺は黒犬をここまで手懐けたって・・・。

「クロ、ねえ、クロ」

「うん、なに?」

 ほら、こんなに気安く、呼んだら隣にしゃがみこむ。「覚えてる?」と言って腕に触れたら、「何のこと?」と背中をさすられる。俺のために生きてくれとか、俺とやってくれとか、そんなことを言われてしまうような・・・。

「ねえ」

 キスして、と言えば、してくれる?

 ・・・言えなくて、「起こして」とつぶやき、トイレまで連れて行かれた。


 本当は僕もしたいけど、隣でするのも一つ離れてするのも踏み切れなくて、洗面台で顔を洗った。部屋のトイレと違って後ろ姿が丸見えなんて、卑猥じゃない?もっとシャワー室みたいに、全部ちゃんと仕切るべきじゃない?

 黒井が用を済ませて隣で手を洗うけど、自分がするのも恥ずかしくて、結局口をゆすいで我慢した。好きな人の前でおしっこできないとか、女の子か!・・・い、いや、男だって同じだろ!


 しばらく水を飲んだり、黒井が頼んだあんみつみたいなデザートを食べながら過ごして、貧血は治まっていった。トイレまで歩くときは、まるで動く歩道から降りた直後みたいな、歩いてるのになかなか進まない感覚に襲われたけど、たぶんもう大丈夫。じゃあどうしよっか、と訊かれ、でも具体的なプランもないので考えあぐねていると、「・・・うちに、来る?」と微笑まれ、慌てて首を振った。

「あの、いろいろ、調べたりしなきゃいけないし。お前んち、ネット、ないしさ・・・」

「ああ、そっか」

「ちょっともう一回、トイレに」

「うん」

 ようやく小便を済ませて帰ってくると、席は空だった。僕たちが飲み食いした皿とグラスだけが残っている。一瞬あの夢が思い出されて、またはぐれたのか、と不安に襲われた。テーブルを探すけど伝票もなくて、じゃあ先に、帰ったのか。

 別に、途中まで、一緒に帰ったって・・・。

 仕方なく外に出ると、エレベーターを待っている後ろ姿。片手を腰に当てて、階数表示を見上げている。

 いろいろ忘れて、ただ、眺めた。

 少し伸びた髪とか、Yシャツの肩幅とか、足の開き方。まくった袖から見える腕の筋と、手首の骨。

 黙って隣に並ぶと、こちらを見ずに、「あそこ、行こうよ」と。

「え?」

「ほら、前行った、マンガ喫茶。ネット、あるでしょ?」

「あ、ああ・・・」

 顔を見て、ようやく気づいた。

「あれ、ひげ剃った?」

「・・・今更?だって、お前が似合わないって」

「別に、そんな、いいのに」

「やだよ」

 そしてエレベーターが開いた。二人きりで乗って、密閉され、前を向いたまま僕は「ごちそうさま」と言った。

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