第84話:勝負の行方

 ・・・寒い。

 体が冷えきって、痛い。

 凍死、とまではいかないけど。

 体中の感覚がなくて、どこがどこに乗っかってるのか分からない。腕の先はどっちにある?指先の動かし方が思い出せない。何とか、してほしい。文明の利器でこの状況を即座に何とかしてほしい。こんなんでよく何万年も生きてきたな人類は。

 ぎぎぎ、と軋みそうな肩を動かし、床に手をつく。力を入れても手の感覚が全くなくて、たぶん釘で刺しても気づかない。何度かドンドンと床に叩きつけるけど、ちょっとした振動しか伝わってこなかった。

 起きあがって、たぶん、あれから二十四時間ぶりで、僕は同じ場所にいる。昨日は水までかぶって、一人でよく帰ってきたな。今日の方がだめみたいだ。気が張ってなくて、緩んでる。甘えがある。どこかでさっさと安心してしまっている。勝負はまだついてないのに。

 眠い目をこじ開けて、ポケットから苦労して携帯を取る。11:26。あれ、まだそんな時間・・・。

 ん?

「わ、わあ!」

 お、起きろクロ、寝坊した、夜明けなんかとっくに過ぎて・・・!

 感覚のない手で隣を叩くけど、何にも当たらない。手を振る距離が長い。床まで、届いてる。

「あ・・・っ!」

 してやられた!僕だけ寝過ごした!

「あ、ああ!え、なんだ、どうしよ」

 何だっけ、何だっけ。ええと、ええと!

「こ、駒。猫・・・どこだ、猫!」

 足がもつれて、起きようとして転んだ。シーツがすべって、く、靴を、どこだ?

 搬入口の窓からの明かりで、少しだけ見えてくる。四つん這いで、手探りで靴を履く。何だっけ、猫を、取って、そうだ、<ハンニバル>で勝ちだ。今更他の選択肢は思い浮かばない。もう、過去の僕の推理に賭けるしかない。自分を信じるってこういうことか!つまり、今の自分が役立たずってことだ!

「くそ、ちくしょう!」

 汚い言葉を吐いてライトを探す。つるりとした、ウイスキーの銀に触れた。かじかんだ手でもどかしく蓋を開け、一口呷る。・・・なんだ、ほんのちょっとか。舌にとろりと苦い液体のしずく。待て、昨日最後に飲んだとき、もっと残ってたはずだ。

「覚えてろ・・・!」

 ぽいと投げ捨て、シーツにカサリと落ちる。

 ナップザックに手を突っ込んで、マイナスドライバーに火傷の痕をつつかれながらライトを探し出し、スイッチを入れる。あれ、つかない?電池切れ?いや、妙に軽い・・・。

 徐々に熱を取り戻し、感覚の戻ってきた手でペンライトの底をひねる。・・・やられた。電池が抜かれてる!

「くそっ!」

 用済みのライトも投げ捨て、携帯のボタンをもどかしく操作した。何度も何度もやり直して、カメラのライトをつける。まぶしいけど、遠くまでは全然届かず、手元を照らし出すだけだ。

 ふと気づいて、シーツに触れる。・・・そこまでは分からないか。自分がいたところはほんの少し熱が残っていたが、隣は冷えきっている。少なくとも数分前までいたということはない。

 あ、そういえば。

 ・・・狼は?

 シーツとその周りを丹念に照らすけど、当然なくなっている。何だ、じゃあ、猫は捕まったまま、宝が見つかったら負けだ。

「・・・どうしよう、ええと、ええと」

 焦りまくって考えがまとまらない。あと何分?

 クセで左腕の袖をまくり、腕時計を見る。携帯のライトで照らすと、八時五十五分。え、何だ?どういうこと?

 時計を耳にくっつける。秒針は、動いてる。携帯は?11:32。どっちだ?本当は何時なんだ!

 あ、そ、そうだ。時報!

 ・・・何番だっけ!

 えーと、確か・・・。

「・・・ピンポンパンポーン。・・・気象庁予報部発表の・・・」

 て、天気予報じゃないか!

 177じゃない、117か!

「・・・ツ、ツ、ポーン。二月、一日、午前、十一時、三十三分、ちょうどをお知らせします・・・」

 携帯が合ってる!時間がない!

 急いで駆けだそうとするが、一体どっちへ?猫がありそうな場所は?レクター博士なら、どこに隠す?クラリスの銃はベッドサイドに置いてあったか?尊敬していた、好きだった男性の形見。もう一度床を隅々まで探すけど、何も見つからない。待て、こんなときはグリッド捜査だ。床は二次元だが空間は三次元。壁は?宙は?床を四角く区切って、それを立体でキューブに区切って、その一つずつを全部<クリア>にしていくんだ。FBIが突入するときみたいに、一つずつドアを蹴っとばして、部屋に犯人がいないか確認したら、<アルファ、クリア!><チャーリー、クリア!>。

 だめだ、こんなライトじゃ間に合わない。でも何で、電池を抜いて時計に細工して、携帯だけは残したんだ?ポケットで気づかなかった?それともこれも何かの罠?

 ・・・あいつは今、持ってるのかな。

 鳴らしてみたら、居場所が割れるか!

「ツ、ツ、ツ、ツ・・・」

 呼び出し音が始まる。どこだ?どこで鳴る?電源は切ってない。耳を澄ます。さあ、どこだ?


「・・・おはよう、クラリス」

 くそっ、ワンコールで出やがって。お前はどこだ!

「・・・おはようレクター博士。よくも騙してくれたな」

「ん、んー。人聞きが悪いな」

 ゆっくりと低い声。近くでは聞こえない。少なくとも搬入口にはいない。でも、それ以外ならどこにいてもおかしくない。

「ウイスキー、飲んじゃっただろ」

「少し、失敬した」

 時間を引き延ばせ。何か、大きくて、重いもの。ないか?この辺に・・・。

「いいのか、答え、喋っちゃって・・・」

「さあね。正解とは限らない」

 だめだ、見つからない。脚立でもあればいいけど、手が届くのはスキットルだけ。

「正解みたいなもんだよ。でも、何でお前は・・・」

 半地下を出て、一階の廊下にでる。つきあたりの正面玄関から小さく明かりが差し込んでいる。左右に並ぶドアの隙間からも、僅かに。ここじゃだめだ。階段か。

「他の本のこと、知ってるんだ。見えないように、捨てたはず・・・」

「簡単なトリックだよ」

「トリック?」

「鉛筆でこすった。それから・・・」

 鉛筆?何だ、ノート?あの時書いたノートの、次のページ?そうか、地図とPCアドレスを書いて渡したんだった・・・。僕も詰めが甘いな。

 明かり取りの窓のおかげで目が利いた。まだ声はしない。二階か、三階の廊下?

「それから、何だよ?」

「お前を尾けた。本屋まで」

「・・・っ」

 そうか、七冊のうち、本屋にあるものは全部手に取った。コクーンタワーのブックファースト。あれを、見られてた?

「・・・そう、そんなことまで」

「まあ、偶然だよ」

 音を立てず、急いで階段を駆け上る。踊り場まで。

「気づかないとは、俺も、まだまだ、だ、ね・・・っ!」

 振りかぶって、思いっきり。

 階段の踊り場の壁に、スキットルを投げつけた。カン、とくぐもった音。意外と響かない!しかしその後階段を落ちていって、各段の滑り止めのアルミに当たり、カン、カン!と鳴った。電話の向こうは?どれくらい反響が聞こえる?

「・・・どうかした?」

「・・・何でもない。暗くて、こけたよ」

 少なくとも、踊り場から遠い。誰だ、電話の向こうの反響までの秒数を音速で掛けたら距離が割り出せるだって?そんなにうまくいくか!

 二階か、三階の、廊下の奥か?もし二階の入り口なら、宝のカンが近い!

「お大事に、ね」

「どうもありがとう」

 僕は通話を切り、階段を上った。廊下の脚立で今にも天井裏を開けられてしまいそうな気がした。何時から起きている?一階から三階まで、天井裏なんて十何個しかない。全部開けても一時間もかからない。バインダーは?置いてきた!見取り図がない。猫はどこだ!

 とにかく二階の通用口に急ぐ。廊下の先、そこにいるのか?

 ・・・。

 まあ、待て。

 勝利条件をもう一度思い出すんだ。

 携帯を取り出す。今、11:44。あと十六分。それまでに僕が猫を見つけて、<ハンニバル>の紙片と一緒に出入り口に置けば、僕の勝ちだ。

 しかし、あいつが勝つには?

 宝のカンを見つけて、狼と猫もここに置けばあいつの勝ち。しかし、もし見つけられなければ?判定のルールは何だっけ?

 猫は、出入り口に近い方。

 狼は、宝に近い方。

 ・・・つまり?

 猫の行方は全く不明だから、僕が出入り口に猫を近づけることは今のところ出来ない。

 狼はたぶん、あいつが持ち歩いてるだろう。宝を見つけたら隣に置いて、時間が来ればそれで判定勝ちだ。出入り口まで持ってくるまでもない。

 ・・・うん?判定に持ち込まず普通に勝つ気なら、全部揃えるんだから、猫も持ち歩いてるだろう。両のポケットに狼と猫を入れ、宝を持ってここに立てばあいつの勝ちだ。でも宝を見つけられないまま判定勝ちを狙うなら、猫を出来るだけ出入り口から遠ざけておくだろう。ここから一番遠いところ、せめて一階か三階だ。狼はうろうろしながら、偶然でも宝に近づいていれば勝つのだ。

 ・・・どっちを、狙ってる?

 つまり、猫を持ち歩いているのか否か。

 僕はあいつを見つけるだけでいいのか、それともあの小さな猫の行方を、またトイレや非常口の蓋を開けて探すのか。

 ・・・そんな暇、ないか。

 こんなところに立ってないで、出入り口から遠い場所を探さなきゃいけないんだ。

 ・・・待てよ。

 もしかして僕は真っ先にここへ来て、宝の場所をあいつに教えてしまってる?まんまと引っかかった?そうだ・・・猫を探してるなら、出入り口近くに隠してあるはずがない。それなのに、まず最初にここに来てしまった・・・。

 気配を探るけど、近くにはたぶん、いない。三階、かな。でも三階で待ってて来なかったら、階段は一ヶ所しかないんだから、降りてくる、か・・・。僕が今起きて動き始めたことはバレちゃってるんだ。っていうか自分でまんまと電話でいの一番に教えてしまったんだ。ああ、もう!

 ・・・。

 ・・・逆に、おびき出すか。

 通用口の近くに宝を隠したのは正解だ。鴨がネギしょってやってきてくれれば、勝てるかもしれない。だってもう、通用口のドアに、答えの紙片は突っ込んだんだ。猫を持たないまま動けないから、お前が脚立に上って宝を取るのを邪魔は出来ないけど、ポケットから猫が顔を出していれば、そっと取り出したって構わないんだ。狼の本体に邪魔されなければ、寝てると見なして人質を解放する。そうだ、それがいい。この場で僕はちくしょうって顔で宝を発見されるのを見ててやるから、にやにやしながら取るといい。

 ・・・。

 携帯を見る。あと、九分。

 どうだろう、あいつはもう宝を探すのをやめたかな。猫は隠して、判定勝ちを狙うかな。・・・思考はまとまらないけど、歩き始める。僕は、何をしてる最中ってことにすればいい?どうしたら、あいつはしたり顔でやってくる?焦る僕を尻目に、余裕で宝を探し当てる?僕は何を・・・。

 ・・・。音がした。

 カシャン・・・カシャン・・・。

 軽い音。脚立だ!あいつは脚立を持って歩いてる!階段?降りてくる?携帯のライトをかざすけど、よく見えない。本当に外は真昼なのか?でも車の音や、ざわめきが、夜じゃない。やっぱりもうすぐ、タイムリミットなんだ。

「・・・やあ、よく眠れた?」

 前から余裕で歩いてくる。猫は?持ってるのか?

 足音が近づく。うっすらと輪郭が見えてくる。

「まぶしいよ、それ」

「悪いね、これしかないもんで」

 言われてもなお、ライトを顔からおろさない。表情読まなきゃ、わかんないよ。

「ねえ、どこ、行くの?」

 まともに光を向けられて、でも、瞬きすらせず淡々と訊いてくる。

「ちょっと、迷い猫を、探しにね」

「ふうん、頑張ってね。ここにはなかった?」

「・・・たぶん、ね。そっちこそ、脚立抱えてどうしたの?」

「あとは天井、だけなんだよね」

「・・・そっちこそ、頑張ってね。時間、もうすぐだよ」

「そうだね、俺、アラームかけてるから、鳴ったら終了ね。ゴルトベルク変奏曲がかかるから」

「・・・ああ、好きな曲?」

「もうすぐ、だよ」

 僕はそのまま歩きだして、黒井とすれ違った。・・・ぎりぎりだ。ぎりぎりまで、待つんだ。

 そのまま進んで、階段を上がった。携帯を見る。11:54。

 あいつは、猫を、持ってるか?

 あとたったの六分で、見つけられると思ってるか?

 ・・・。

 持ってるかも、しれない。

 直前で全力で投げれば、廊下をすべって距離が稼げる。出口に近ければ勝てる。

 いや、もう。

 持ってると仮定して行動しない限り、僕にも時間がない。それで行く他ない。もし三階の天井に隠されてたなら、脚立がない僕に勝ち目はないんだ。

 三階を探す振りをして、あいつが脚立に乗ってる隙を狙って、猫を取り返して、ラグビーみたいに出入り口にトライするしかない。でもそしたらその後取り合いになって投げられちゃうから、本当にぎりぎり、そのアラームが鳴る十秒前くらい・・・。

 じりじりと、廊下をうろうろする。携帯を見つめながら、暗闇を歩く。画面が明るくて、暗闇に目が慣れない。一秒が短く、でも十秒が長い。

 11:57。

 そろそろ、か。

 


・・・・・・・・・・・・・



 ゆっくりと階段を降り、廊下を歩いて、ああ、階段側から見ていって、とうとう例の天井裏に脚立をセットしてる。通用口からの明かりでぼんやりとそれが見える。手が震える。勝負、だ。

「・・・ああ、俺の負けかな。見つからないや」

「・・・ん?降参?」

 脚立に乗った黒井が、天井に伸ばした手は止めずに答えた。見物客よろしく、無遠慮にライトを向ける。ちょうど、ボタン型の留め具の溝にコインを当てているところ。左手に懐中電灯、右手に五百円玉?僕なんか一円玉で頑張ったのに。

「・・・大変、だね。手伝おうか・・・」

 近寄って、そのジャケットのポケットをそれとなく探る。膨らんでる!ライトで見るとしかしそれは黒い狼の顔だった。こっちじゃない!

 携帯を見る。11:59。よし、時間だ。

 携帯をポケットに戻すのももどかしく、そのまま落としてジャケットを探した。反対側のポケットは?空だ!

「・・・諦めなよ、持ってない」

「そうかもね、でも、そうじゃないかも!」

 天井の蓋が開いた音。懐中電灯は手放せないだろ?どこだ、内ポケットか?ズボンか?

「や、やめろ、くすぐったい!」

「ええいうるさい、どこだ、俺の猫!」

 ここで脚立から落ちて転んでる暇もないし、ろくに抵抗できまい。宝を見つけたなら手を伸ばすんだから、余計にだ。

「やめ・・・あ、あった!」

 見つかったか。い、急げ!

 ポケットも、懐にもない。あ、あとは・・・え、まさか?

 だぼっとしたワークパンツの、・・・股間。思い切って触ってみる。何かある!

「おい、どこ触ってる、いやらしいな!」

「い、いやらしいのはお前だよ!俺の猫を、こんなとこに・・・!!」

 お、おい、何てことするんだ!手を突っ込んで取るしかないのか?ええい、もう時間だ、こうしてられない!左手で腰回りを引っ張って、右手を突っ込んだ。

「ひい、冷たい!」

「うるさい破廉恥!」

「どっちが!」

 カンを取って、黒井が懐中電灯を下に落っことす。僕が猫をいけないところから救出して、通用口に走る。後ろからすぐ追いつかれて、羽交い締めにされるけど、投げちゃえば、俺の勝ち!しかし投げた瞬間体は離されて突き倒され、黒井が通用口に突っ走った。僕の猫が床をすべり、黒井がそれに追いついて、そして!

「うわっ」

 大音量で、ピアノ曲が流れた。なに、どうなるの、もしかして・・・引き分け?



・・・・・・・・・



 しばし呆然としていた。美しい旋律が、おかしな現実を演出している。何だ、勝ったのか、負けたのか?

 とりあえず立ち上がって、黒井の元に歩く。アラームが止まって、クラシックも止んだ。

 通用口に、二人の勝利条件すべてが、同時に揃ってしまった。やっぱり、引き分け、ってことか。

「・・・俺の勝ち、だね」

 黒井が言った。え?

「引き分けだよ」

「何で?俺、勝ったでしょ?」

「だって、ほら」

 僕は通用口にはさんでおいた紙を取り出した。

「あ、こんなとこに・・・え、どういうこと?」

「だから、お前も全部揃ってるけど、俺だって揃ってるんだよ。だから、引き分け」

「・・・答えが合ってれば、でしょ」

「あ、まあね」

 あ、そうか、一応答え合わせが残ってたのか。でも当たってるよ。残念だけど。

「じゃ、開けるからね」

 黒井がしゃがんで宝のカンの留め具を外し、中を開ける。たった一週間のタイムカプセルだ。

「・・・え?」

 折り畳まれた小さな紙を取り出して、開く。え、まさか。


<模倣犯>


「え・・・」

 言葉が、出てこない。模倣犯?

 ・・・模倣、して、た?

 いや、そういう趣旨の物語じゃなかったろう!

「なりきったんだ。<ピース>になりきって、生まれ変わって仕返しするならどうするかって考えた。逆手に取った意趣返し。それしかないよ」

「な、何だ、それ・・・」

「他の本も読んだけど、一番近かったな、俺に」

「え?」

「努力しなくても何でも出来て、ちやほやされて、自分を過信してて、それが崩れそうになるとキレるんだ。見抜かれて、俺も悔しかった」

「・・・」

「小説なんか読んだの、久しぶりだったんだ。入り込んで、帰って来れない。ああ、やっと話せるね」

「・・・うん」

「ファミレス、行こっか」

「・・・うん」

 ・・・。

 負けた、のか。

 ・・・。

 黒井の論理も、元々の趣旨も、ルールもよく分からなくなってきたけど、でも、負けたんだ。ああ、そっか。

 ・・・。何だか、清々しい。

 通用口を開けたら、まぶしかった。

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