第193話:12時間後の悲劇

 駅に着いて、来ていた電車に乗り込み、ほとんど貸し切りの車両で大胆にイスを占領した。

「あ、コーヒー買わなかったじゃん」

「ほんとだ」

「お前の駅で降りて、買って」

「ええ?・・・まあ、いいけど。いったん降りて次の電車、結構待つと思うけど」

「いいよ、飲んで待ってる。ん、ああ、でも電車で飲みたかったんだけどな」

 何となく、ちょっと、嫌な予感はした。

 そして、案の定、そういうのって当たる。

 ホームの自販機から、気が早くも<あたたかい>飲料は消えていて、冷たいコーヒーしかなかった。

「どうする?」

「じゃあいらない」

 出した小銭を引っ込めて、ちょっと緊張して、ベンチに座る。灰色のビニールを挟んで、一つ隣に。

 少しの沈黙に、何となくそわそわして、何か言わなきゃ、と話題を探す。いつもは黙ってたって平気なのに、どうしてこういうの、ほんの僅かな空気の違いを、人間、読み取るものなんだよな。

「・・・そういえば、昨日さ、トイレ、分かった?」

「・・・え?」

「はは、さては、立ちションしたな?」

「は?してないよ」

「あ、そう」

「いつのこと?」

「え、夜中、お前一回、起きたじゃん」

「・・・起きないと思うけど」

「・・・そうだっけ」

 たぶん寝ぼけてたんだろう。よく寝てたみたいだけど、でも結局いつ帰ってきたのかわかんなかったな・・・。

 ・・・。

 あれ?

「ねえ、ねこ、あれ」

「・・・うん、なに?」

 いつの間にか立ち上がってうろうろしていた黒井が、ホームの外を指さして言う。

「あそこ、自販機、あったかいのあるんだよね、赤いの」

「うん?」

 柵の外の、すぐそこの駐車場の敷地内。

 目を凝らしても見えないけど、ま、要するに買ってこいということか。

「・・・乗り越えて、戻ってこよっか」

「だ、だめだって。俺、買ってくるから」

 時計と時刻表を見て、あと四分あるから、まあ、走れば戻ってこれるかな。

「何でもいい?」

「微糖以上」

 僕はナップザックを揺らして軽く走り、改札を出て駐車場へと回り込んだ。ホームの黒井を振り返るけど、ベンチに座った後頭部だけが見えた。

 そして、唯一の<あたたかい>で<微糖以上>のワンダが、一本買ったら、売り切れた。

 まあ、別に僕の分は、なくてもいいか。

 戻る途中、ふと見ると、さっきの柵のところから黒井が手を挙げた。

「最後の一本だった。買えたよ」

 ホームの方が高いので、柵越しに見上げる。

「ちょうだい」

 しゃがんで柵の隙間から手を出すので、ポケットに入れていた熱い缶を渡した。

「何か、飲みたかったんだ」

「うん」

「俺、運がいいね」

「そうだね」

 何となく改札の方を見て、戻ろうとするけど、黒井は「あのさあ」なんてのんびり話しかけてくる。

「うん?」

「・・・えっと」

「う、うん?」

 柵の手すりに缶を置いて、爪の先でぐらつくそれを支える。そして、早朝の静かなホームに「でんしゃが、まいります・・・はくせんの、うちがわにさがって・・・」と、上り電車は女性の声。

 黒井はちら、とホームを振り返り、そして、缶のタブに指をかけてそれを開け、またしゃがんで僕に差し出した。

「え?」

「ひとくちあげる」

「う、うん?」

「見送りはここでいいよ」

「・・・」

 僕は受け取ったコーヒーをゆっくり傾け、熱い液体が舌に触れたけど、口を離すのを我慢してそのままひとくち飲み込んだ。舌も、口の上側も、喉まで熱い。「・・・っ、あ、あち!まだ熱いよ!」って、犬みたいに舌を出し、失望を隠して缶を返す。木を隠すなら森、嘘を隠すならリアルの中。

「はあ熱かった。ありがと、お前も気をつけろ」

「はは、わかった」

「電車、寝過ごすなよ」

「うん」

 やがてホームに電車が来て、黒井はもう一度そちらを振り返った後、「それじゃ、またね!」と微笑んだ。熱い缶の上のふちを指でつまんで、後ろを向いて歩いていく。僕は「気をつけて」も「寝過ごすな」も言ってしまったし、でも「またね!」も出てこなくて、ただ、またもや苦くて熱い液体でひりつく喉から、自分だけに聞こえるくらいの「・・・うん」が漏れただけだった。



・・・・・・・・・・・・



 あいつのことだから、またふいに、電話が来るかもしれないし。

 っていうか、プレゼントもコーヒーも、受け取ったって「ありがとう」も言わないやつだ。

 気分じゃなきゃ、「おはよう」も言わないんだって?

 でもちっとも嫌悪感を感じないのはたぶん、そこに裏表がないからだろう。僕みたいに、心を押し殺して自分で買ったコーヒーのお礼なんて、言うことはないんだろうね。だからきっと、「またね」と微笑んだその笑顔にも嘘はないはずだ。

 ・・・そう、だよね?


 うちまで歩きながら、無意識に、自販機と<あたたかい>を目で探していた。それから思い出して、ナップザックから黒井が使ったティッシュとアルミ箔の切れ端が入ったビニールを取り出し、コンビニまで行って捨てた。<家庭ゴミの持ち込みは固くお断りします>と書いてあるので、サンドイッチを買ってそのレジ袋に入れ、外でサンドイッチの包みも開けて、それと一緒に。今日くらいそんなの意に介さず捨てちまえと思うけど、別に、僕の都合と世間の都合と、そして書かれた文言の意味の純然性はまた別のものだ。

 まあ、あれが<家庭ゴミ>に当たるのかって、定義の揚げ足を取ることも出来るけどね。

 サンドイッチを歩き食いして、人が来たら別の路地に入って、うちに着いて、洗濯機を回して、寝た。布団に倒れこんで、ジーパンを脱いで、でも、何もせずに。


 昼過ぎにいったん起きて、電話もメールもなく、僕は本格的に拗ねた。

 プレゼントを渡したのは実は誕生日より前で、そして今は、せっかくの土曜をただ無為に過ごしている。

 ・・・誕生日だからって、恋人でもないのに、一日中一緒に過ごさなきゃいけないわけ?きゃっきゃウフフとショッピングやディナー?プレゼントだって、渡したら大喜びで「ありがとう、こんなの欲しかった、嬉しい!」って抱きつかれなきゃ不満?繰り返すようだけど、恋人でもないのに?

 ・・・だって、あんなことまで、したじゃないか!

 あれから朝まで愉悦に浸ってにやけていたのが嘘みたい。飲むなんてあり得ない、ドン引き!ってならずに、僕が口をつけたコーヒーを受け取って帰ったんだから、一体何が不満だ?いや、口をつけたとか気にしてないのか。俺が<飲んだ>とか、気にしてないのか。

 いや、一応、飲ませる気はなかった的な感じ、だったみたいだけど。

 それにしたって、一晩たてば元通り。

 いや、悪い方に進まなくてよかったんだけど、でも、やっぱりこうして、一喜一憂は変わらない。

 だったら、たった一言、「夕飯も一緒に食べようよ!」って、言えばよかったじゃん。

 ・・・い、言えない。頭の中で発音することすら出来ない。

 「美味しいお店知ってるから、誕生日だし、奢るよ」なんて、夢のまた夢。無理、無理、たとえネットで頑張ってレストラン見つけたって、また電話するとか、しつこくて厚かましい!

 ほんとは、一緒にいたいくせに。

 おまえんち押しかけて、夕飯作って、ケーキ焼いちゃうぞ。

 はは、出来ないこと言ってら。

 ・・・ケーキって、何で作るんだ?小麦粉?

 

 ボールに泡だて器、計量カップに焼き型。まあ、黒井の家にないのは知っている。これから一式買って押しかけたりしないよ。最初はシンプルなショートケーキがいいけど、イチゴってもう売ってないかもしれないし。いやいや、だから、作らないって。

 14時になり15時になり、洗濯物が乾いても黒井からの着信はなかった。

 いや、でも、誕生日って、本人が誘うんじゃなく、やっぱりこっちから誘うべきじゃない?

 ・・・だから、もう誘い終わったじゃん。五月十日を六時間、一緒に過ごしたじゃん。

 どうしてそれで満足しないんだろう。

 喧嘩したわけでもないのに、心がきりきりするんだろう。

 しかもあんなことまでしたのに、一日中妄想に浸るでもなく、まだ足りないわけ?十分すぎるほどの餌をもらってるのに、次の皿、次の皿?

 でも、後から、「お前誘ってくんないから、一人で弁当食ったよ」とか言われたら、死にそう!!

 ・・・せめて、18時くらいまで、待とうか。

 まだ寝てるかも、しれないし。

 

 そうして携帯を睨んで18:00、いや、ぴったりってのもアレだし、って18:08。さあ、どうすんだ俺。

 電話なら何て言う、メールなら何て書く、って、さらっとして粘着質でない文言を探すけど、空腹の胃が痛むばかりだった。

 お前と食べるかも、って思って、朝のサンドイッチだけしか手が付けられない。

 どうしよう、何してる?ねえ、部屋で一人で惣菜食べるくらいなら、せめて僕と電話しながらにしない?っていうか、誕生日にそんなことしてちゃだめでしょ。お前みたいないい男がコロッケとコンビニのケーキを自分で買って食べるとか、いや、まあ、僕が一緒だったら素晴らしいってわけでも、ない、けど。

 じりじり待って、18:45。

 ついに、電話、した。



・・・・・・・・・・・・・・・



 長い呼び出し音の末、切ろうかと思ったとき、通話に切り替わった。

「・・・はい。はい!?」

 騒がしい音と、何だかいつもと違う声。反射的に切ってしまうところだったけど、「もしもし!」と言われて、「・・・あの、もしもし」と返した。

「なに、どしたの?」

 ゆったりした落ち着く声じゃなくて、ちょっとだけ焦ってるような、何かを気にしているみたいな。

 ・・・ああ、誰かと、一緒なんだ。

「ご、ごめん、何でもない」

「ええ?」

「あの、疲れてたみたいだったから、風邪でも引いてないかって、そんだけ」

「え、大丈夫だよ?」

「う、うん。だから、何でもないよ」

「そう?・・・あっ」

 ちょっとお前ら待てよ!と、どこかに呼びかける声。

「ごめんまた電話する」

「・・・いいよ気にしないで」

「うん。じゃ」

「・・・うん」

 ぷつりと、電話は切れた。僕も切れて、布団までたどりつけず倒れた。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 黒井が、誰かと一緒にいる。

 「お前ら」って言ってたから、女の子と二人きり、ではないんだろうけど。

 いや、別に、どっちだって同じか。

 僕以外の誰かと、誕生日の夕餉を楽しんでるんだ。

 ・・・。

 泣くなよ、みっともない!!

 ちゃんと昨日、「これから会えない?」って言ったら、サンダルで飛び出してきてくれたじゃないか。「今出して」って囁かれて、そうしたじゃないか・・・。

 でも、だって、だって・・・!

 悲しいんだからしょうがない!悔しいんだからしょうがない!!

「ううっ・・・」

 ティッシュで目を押さえる。なんてみじめでかっこ悪いんだろう。

 もっと早く誘ってれば、誕生日は丸一日空けといてって約束してれば、今一緒にいれたの?水曜日の時点で、<電話ください>の後、<気にしないで>じゃなく、<大事なことだから絶対!>ってメールしてれば、こうはならなかったの?

 ・・・それはわかんないか。

 たとえそうしてても、ごめんねと言われたら、それまでだったんだし。

 おかしいな、あの時はめげないぞって気持ちだったけど、今は全然だめだ。嫉妬すらなくて、ただぽかんと悲しい。頭ががっくりと滝つぼか谷底に落ちていきそう。

「へへ、えへへ・・・」

 泣き笑いが漏れる。くうう、と嗚咽。朝の「それじゃ、またね!」を思い出し、「・・・っ」と唇を噛んで、涙が流れた。かっこ悪い、っていうか、気持ち悪すぎる!でも、だって、こんな俺だよ。二十七年目の、こんな俺だよ!


 涙で枕を濡らして、明日は日曜だし、もうどうでもいいや、と空笑い。

 お前はどこ行ったんだろうね、誰と一緒なんだろうねって、でも菅野くらいしか思い当たる人はいなかった。またあのメンバーでカラオケしてるなら別にいいけど、でも、だったら誘ってくれたって・・・。

 菅野に「お前ら」とは、言わないか。

 もしかして、同期の連中?

 望月や榊原に誘われた?

 別に誕生日とか関係ない、ふつうの飲み会だろうか。僕にはもう飲み会のお知らせなんてまわってこないから、知らなかっただけ?

 ・・・だからって、望月に「今飲み会してる?」なんてメールするわけにもいかないし。まあ、してたって、してなくたって、どうしようもないし!

 ・・・もう、諦めろって。

 昨日、電話して、プレゼント渡して、あんなこともして、よかったじゃないか。

 リスク負って走ってるんだろ?なら転ぶことだって、負けることだってある。今だって、電話したから分かったんじゃないか。そうじゃなきゃ、何も言わずのこのことケーキ持って押しかけて、合コンで女の子をお持ち帰りしてきたとこに鉢合わせして、挙動不審で逃げ出してたかも。あるいは、一人で夕飯食べてるのかって、余計な心配と後悔でじりじりしてたかも。

 とにかく、黒井は誰かと楽しくやってるんだ。別にいいじゃないか。僕だっていい思いをしたんだし、僕だけと一緒にいてなんて、そんな束縛癖やめろって!

 ・・・だって、だってさあ。

 あいつ、あんなイケメンでリア充そうなのに、いつも俺とばっか一緒にいるんだもん。

 他の友達とか、気配すらないんだもん。

 ・・・友達くらい、いるか。

 僕じゃあるまいし。

 東京の、世田谷育ちなんだし、地元の友達や同級生だっているだろう。

 いいじゃないか、そんな中でも今は僕が一番だって、親友以上のことしてるって、そう思って満足してなよ。

「・・・はあ」

 ため息。

 ・・・振られた?・・・とか、気持ち悪いよね。あんなことしたとはいえ、いや、したからって、どれだけつけあがってるんだ。たとえ人生で一緒に何かをやるパートナーだからって、そんなの、テレビのお笑いコンビとかフォークデュオだってみんなそうじゃないか。相方の誕生日の過ごし方に文句をつけるか?プレゼントを渡して、でもその夜に他の誰かと出かけたら「どこで誰と何してるんだ」って問いつめるか?僕は何か勘違いしてるんじゃないか?

 ・・・そうだろうね、そうなんでしょうね!

 信頼が、足りないんでしょうかね!

 もう、ふて寝だよ、ふて寝!

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