第356話:狙われている獲物
都営新宿線、大江戸線へと続く地下街の京王モールは、通路の左右にファーストフードやパン屋、喫茶店や眼鏡屋などが並ぶ商店街みたいなもので、どこも店じまいを始めていたものの、ギリギリでその女性ものの靴屋にすべり込むことができた。
「あー、これならありそう!助かったー!」
・・・しかし。
僕なら閉店五分前なんて一瞬で選んでレジを済ませるところ、真木は何足かをピックアップして、履き比べに余念がない。年嵩の女性店員にチラチラ見られながら、「ど、どれでもいいんじゃない!?」と言いたくなるのをぐっとこらえ、・・・っていうか、カノジョでも何でもないんだし、僕は店まで案内しただけなんだから、もう帰ろうかな・・・。
「ねえ山根さん、これとこれ、どっちがいいと思う?」
・・・。
・・・見分けが、つかないんですけど。
「・・・こ、こっちじゃないかな」
「えー!?でもね、こっちはちょっとだけ小指のとこが当たるのね。ここんとこ」
「じゃ、じゃあこっち・・・」
「え、これ・・・?ちょおーっとこの辺のデザインがダサくない?」
僕は近寄ってきそうな店員の気配を感じ、もう気が気じゃない。
「あ、あとね、これもまあいっかなって思うんだけど・・・」
「ああ、それいいんじゃない?」
「え、山根さんもそう思う?」
「うん、うん」
果たして後ろから「そちらにお決まりですか?」と、にこやかながらややトゲのある店員の声。
「あ、じゃあこれで。でも一応、これの24.5ってあります?ないですかね?」
「・・・ございますよ」
そうしてまた履き比べをして結局最初のものを選び、ようやくレジに立つも、今度は「あっ、どうしよう手持ちが足りない!」。
他の店舗のシャッターが下りる中、僕は「あ、えっとおいくらですか」と四千八百円プラス税を払い、とにもかくにも店を離れた。
すると真木は僕に靴の箱の袋を持たせ、「ちょっとだけ待っててくれる?」とどこかへ行ってしまった。まあトイレだろうが、食事代やシップ代くらいならともかく、靴まで買うのはどうなんだろう。しかし、ややびっこを引きながら帰ってきた真木が「あの、ごめんなさいホントに、これ・・・」と差し出したのは、何と一万円札だった。トイレじゃなくて、ATMに走ってたのか。
「い、いや、いいって!」
「いやいやいや、たくさん付き合ってもらっちゃったし、最初私がコーヒーおごるって話だったのに、何か逆になっちゃったじゃん?だからもうお礼だと思って受け取って!」
「う、受け取れないよ!」
「じゃ、じゃあ靴代五千円だけでも!」
・・・それなら、とは思ったけど、しかし今度は、僕にお釣りを返せる手持ちがない。
「いや、そもそも、元はと言えば行かなくてもいい郵便局に俺が連れ出しちゃったのがいけなかったんだし、靴だって、その、禁止だって知らなくて買っちゃったんなら会社としても申し訳ないし・・・」
「え、で、でも、靴買ってもらっちゃうなんてそんな」
「いいから、まあ何か、支給された備品だと思って」
僕はそう言って靴の箱を押し付け、真木も、それでしぶしぶ受け取った。しかし、さっきまで「なぜ僕が靴代を?」と思っていた本人がどうしてそれを一生懸命正当化してるんだ。
「でも何か本当、悪いよ、ごめんね・・・でもありがとう」
「まあ、まあ」
「ホント助かった。これで明日、嫌味オバサンに怒られないし。山根さんのおかげ」
真木は少し戸惑いながらも笑顔を見せ、最後に「ありがとう」と両手で僕の手を握って帰った。
・・・・・・・・・・・・・・・・
帰りの電車で、携帯にメールが届いて、<黒井彰彦>の文字を期待して開いたら、<真木しずか>だった。
<本当に本当に今日はありがとう!これでもすごい感謝してます。また次は普通に飲みに行こうね!おやすみ>
おやすみの後にはいくつかキラキラマークがついていて、僕は車窓の外の曇った夜空を眺めながら、電車では誰も僕に話しかけてこなくて、こうして携帯もパタンと閉じてポケットに入れることができて、ありがたいなあと思った。
帰宅して、ようやく、<今日は色々お疲れ様でした、足もお大事に。おやすみなさい>と無難に返信。
そしてまあ、礼儀というか、決まりみたいなものとして「もし彼女とホテルになだれこんでいたら・・・」を少し想像し、さっき触った生足とか、あの胸を思い出してみたけど、なぜかさっぱりだった。
そして、それから黒井のことを考えて、去年の今頃はまさにリア充の総大将のようなものだと思っていた黒井と今は付き合っていて(本当に?)、本番はしてないとはいえキスをしたりはしているわけで、それを想像したら驚くほどすぐ身体が反応して、いったいどうなってるんだろうなあと思った。
・・・・・・・・・・・・・・・
十一月十三日、木曜日。
会社に着いて、火曜日に「今日、明日くらいで」と言われていたレクチャー会もいったん終わりということで、久しぶりに外回りに出た。ああ、ああ、やっぱり一人で歩くのはいい。自分のペースで歩けるし、誰とも話さなくていいし、ランチだって好きに選べる。非リア充上等だ。誰からもメールも電話も入らないし、予定だって何もない。
・・・ああ、土曜日。
うん、黒井とは付き合っていて恋人・・・ってことになるけど、やっぱり<リア充>というのとはちょっと違う気がする。土曜に恋人と会う予定が入っているのは立派なリア充だろうけど、何かが違う。
・・・とにかく、クロに、会いたかった。
会社じゃなくて、あいつの家で。
山根さんじゃなく山猫になって、黒犬と一緒にいたら、この浮足立った気持ちも落ち着いて、本当の自分のペースに戻れる気がして。
・・・いや、いや、でも、待てよ。
今はクロだって大変なんだし、そうだ、何も言ってはこないけど、もしあの一円ハゲが今もどんどん拡大しているんだとしたら、それどころじゃないんだし。
だめだ、僕がリア充女にちょっと振り回されてペースを乱し、それを戻すために会いたいだなんて、自分本位すぎる。
とにかく、レクチャー会も終わったんだし、僕も土曜日に合わせて調子を整えないと。
・・・・・・・・・・・・・・
夕方、帰社して明日の新人研修の準備。
プリンター前に陣取って七人分の資料を印刷していると、後ろから「おう、お疲れ」とややぶっきらぼうな声がして、振り向くと、新人を取りまとめる高浦グループ長だった。
「山根さ、今いい?お前、確か明日また研修って話だったよな?」
「・・・あ、はい、そうです。ちょうど今、資料を・・・」
「え、そうなの?ああそれじゃちょうどいいや。それこっち寄越してくれる?」
「え?」
そして、高浦の後ろからなぜか、あの真木が出てきた。その間にもソートされた資料がプリントアウトされるので、手は動かしたまま。
「あのね、こちらセミナー部の派遣の真木さん・・・ってまあ知ってるだろうけど」
「は、はあ」
「そんでね、明日、良かったらだけど、お前の研修に真木さんも参加していただいて、色々参考に・・・ってかまあぶっちゃけ、真木さんの練習台になってほしいわけ」
「・・・は?」
「ほら、セミナー部って外から来るお客さん相手だから、その前に、新人の研修会で練習しといたらいいだろ?・・・って話。分かる?」
「え、あの・・・そ、それで、僕は何を」
「まあ、だから、真木さんが研修講師の山根センセイのアシスタントってことで、手伝いに入るっていうかね。資料配ったりとか、・・・、・・・何すんだ、知らねーけど」
高浦は「とにかく小嶋先生から頼まれてるからさ」と、鼻で笑ったりため息を吐いたりした。ああ、課長も高浦も小嶋先生に言われて、それでなぜか僕にお鉢が回ってくる・・・。
「えっ、私はそれじゃ、結局山根くんの言うこと聞いてればいーい?」
「『いーい?』じゃねーよ、ったく、新人だったらぶっ飛ばしてるぞ・・・って、俺の受け持ちじゃないからどーでもいいけど。それじゃ山根、アシスタントさんに説明よろしく」
「え・・・」
真木はすっかり高浦相手にもなれなれしくしていて、高浦も満更でもなくそれに応えているようで、つくづくコミュニケーションというものが分からない。
すると後ろから「あーここにいた、高浦グループ長ぉー!」とねっとりした声がして、続いて「ちょ、ミオちゃん声大きいよ」と、二人組の新人の女の子。ああ、確か黒井を諦めて次は高浦を狙っているとかいう肉食系女子のミオちゃん、だ。
「え~、ここで何して・・・」
そして、僕の目の前で、高浦をはさんでミオちゃんと真木の視線が、まともにぶつかった。
一瞬、空気が固まる。
そこで先に仕掛けたのは真木で、「あー高浦さん忙しいじゃん、呼ばれてる!こっちはもう大丈夫だから、行ったげて?」と、しれっと微笑んだ。それを受けてミオちゃんの顔があからさまに一瞬引きつって、ああ、若さゆえ、余裕がない。
・・・いや、いや、何か怖いって。
しかし、すっかり逃げ腰の僕の肩にぽんと手を置いて、「そんじゃ始めよっかー山根くん!」と、真木は妙に密着してきた。高浦はミオちゃんじゃない方の女の子に話しかけながらこの場を去り、ああ、まさか、もしかして。
・・・真木はギャルというより、肉食系女子というやつであり、そして。
「山根くん、これホッチキスすんの?ここ邪魔だから、どっか別のとこで二人でやらない?」
・・・僕も、狙われてる?
・・・・・・・・・・・・・・
結局その後はセミナー部の真木の席まで連れていかれ、小嶋先生たちがいつセミナーから戻ってくるかとヒヤヒヤしながら、そそくさと作業をした。いつの間にか「くん」付けは定着していて、山根くん山根くんと連呼される。
真木の態度が、ただなれなれしいのか、僕を小馬鹿にしているのか、あるいは何がしかの好意を抱いて振り回しているのか、それとも「狙って、落とそう」としているのか、判然としない。
しかし、チャイムが鳴って真木が帰るとなった頃、何だかんだと面倒見のいい(?)高浦が顔を出して、何となくそれが分かった。
「おう、お疲れ。真木さんそれじゃ、明日よろしくね」
「はーい、了解でーす。っていうか、新人のセンセイっていうのが、高浦さんと山根くんなの?」
「・・・あん?いや別に、そういうわけじゃない。俺はまあ先生っつーかグループ長だし、小嶋先生に新人向けの講義をお願いすることもあるし、まあ・・・山根以外にも、センセイっつうよりガキ大将みたいなヤツもいるけど」
「ええ、ガキ大将?なにそれー」
「ガキ大将だろあれは。顔だけはいいから騙されるだろうけど、あれ中身は小学生だからな。真木さんも気をつけろよ」
「・・・はあー?顔はいいガキ大将?あ、それってもしかして、あの辺の席の、すごいイケメンな営業の人?」
「ああたぶんそれ。でもいいよ関わんなくて。そういうのがいるんだよ」
「えー、でも私、イケメンってもう興味ないかなー。何かね、懲りたっていうかね。それより全然、見た目じゃなくて、中身重視。人って絶対見た目じゃないと思う」
「それそれ、良かろうが悪かろうが、見てくれで判断すべきじゃないね。あれに比べりゃ、山根の方がだいぶんマシだから」
「ええっ、マシ?マシどころじゃないよ、そんな」
「え、何が?真木さん、そんな山根のこと知ってんの?」
「うん、知ってる知ってる。昨日二人で飲み行って、ちょっと・・・ね、私、プレゼントとかも貰っちゃったし」
「・・・」
高浦は「ほおー、意外だな」とか何とか言っていたが、僕は途中から体が固まって、聞こえていなかった。
飲みに行って・・・プレゼント?
じ、事実としては、そうなる、のか。
っていうか、狙われている・・・というよりすでに、脅されている?
いつの間にか真木の手が僕の腕に絡んでいて、「ねー?」とか言われ、その胸が少し当たっていたけれど、もう何だかよく分からなかった。
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