第320話 夢の終わり
「え?」
穏やかで、力のある目付き。
「退位するの」
「いや、表現の是非じゃなくて」
「次の皇帝はあなたよ」
「ちょっと待って、待って」
強い決意のある瞳。
対するケイは、額を抑えるしかない。
「何言ってんの?」
「戦争は終わったわ。これからは新しい時代が来るの。来させなければならないの」
「自分でやればいいじゃん」
「たしかに、ここであなたに丸投げするのは酷な話よ。だけど」
「そうじゃない!!」
思わず彼女は、額を抑えていない右手の方で机を叩いた。
「お姉ちゃんが! 自分でやっと勝ち取った地位と平和でしょ!?」
しかし、彼女の感情のように茶は溢れても、
「そうよ」
シルビアの心は凪いでいる。
それがまた、ケイの神経に火を注ぐ。
「だったらなんで手放そうとするの! これからなんだよ!?」
彼女だって怒っているわけではない。
「分からないよ! 説明してよ!」
ただ、姉の苦労を誰よりも知っている。
だからやすやすと投げ出させては、過去のシルビアが救われないのだ。
納得がいかないのだ。
「そうね。よく聞いて」
そんなことは当の本人が一番よく分かっているはず。
「これはジャンカルラ、同盟のカーディナル提督の受け売りなのだけどね」
シルビアは諭すように、普段よりやや遅いペースで言葉を紡ぐ。
「戦争には四つの時代があるの。『始める時代』『戦う時代』『終わらせる時代』『顧みる時代』が」
ケイもそれをじっと聞いている。
姉の想いを受け止めようと、正面から構えている。
「私たちが生まれるずっとまえに始まって、多くの人が戦ってきた。ほんのつい最近でもバーンズワース閣下やセナ閣下、アンヌ=マリーが戦っていたわ。彼らが『戦う時代』を戦ってきたの」
まるでその歴史の全てが見えているかのような声の響き。
いや、ある意味では理解というかたちで、実際に触れているのだろう。
悟りにも近い。
「そうやって彼らが戦い抜いて、私やリータ、カーディナル提督にコズロフ閣下へ。『終わらせる時代』を繋いでくれたのよ」
あるいは関わってきた人々が、シルビアに囁いているのかもしれない。
「そして私は、みんなは、終わらせることができたわ」
彼女はここで一度、ハーブティーを口へ運ぶ。
線引きだ。
ただの一服ではなく、話が、世界がここで線を引かれたのだ。
ケイはそう感じた。
「きっと今は『終わらせる時代』が尽きて『顧みる時代』へ移ろうとしている時ね」
その心の線に対して垂直に、視線が彼女の魂へ注がれる。
「私はそれを、あなたに託したいの」
「……それは」
やっと口を開いたケイは、喉の奥が張り付いているのを感じた。
飲み頃になったハーブティーを流し、相手の瞳を見つめ返す。
「お姉ちゃんがやらなくていいの? 時代が変われば強制退場、でもないんでしょ?」
「そうね。でも」
シルビアは少し寂しげに笑う。
「私には資格がないわ」
「どうして」
「どうやら争いに好かれる人生のようだから」
「否定はできないけど、悪い冗談だよ」
ケイは顔を左へ向け、その笑みを視界から外す。
が、すぐに視線だけが戻ってくる。
「戦い抜いてきたお姉ちゃんだからこそ、できることがあるんじゃないの?」
「そうかもしれないわ。でもそれじゃダメなの」
逆にシルビアは一切首を振ることなく。
ただそこにある姿だけで、強い意思を訴えてくる。
「ジャンカルラは『顧みる時代』って言ったけど。私はそこにもう一つ大きな時代が含まれていると思うの」
「何?」
「それはね、『平和を保っていく時代』よ」
だからこそ目に力が籠った時、
その真剣さが切実になる。
「保っていく……」
「そうよ。でもそうするには、私は敵が多すぎる。これまでも、おそらくこれからも」
「でも」
「同盟の評議会だってそうだわ。彼らは戦争が嫌いなのではなく、儲からないからやめただけ。いつまた争いを始めるかなんて分かったものじゃないわ」
シルビアはテーブルに片肘を突いて乗り出す。
静かな山だったものが動きはじめる。
「でも、あなたなら。人から愛され、人をまとめる才能があるあなたなら。ケイ・アレッサンドラになら任せられるの」
「そんな、私には」
「できる。たとえあなたにはできなくても、あなたがあなたであれば。多くの人が集まり、支え、成し遂げさせてくれるわ」
彼女は何も答えなかった。
ただ、不安に満ちた瞳に姉を映している。
しかし、不安を感じるということは、
挑むからその感覚が生まれるということである。
シルビアが戦いの世界へ身を投じた時のように。
「それにね。私たちは100年も1,000年も生きられないわ。やがてこの世を去る。この世界から、戦争を知る人はいなくなっていく」
ケイはただ、小さく頷く。
「その時には、戦争を知らない人々が平和を守っていかなければならないの。だからこれからやることは、それを見越した
気付けば妹の瞳には、不安の裏に炎が燃えつつある。
自分のことであれば不安だが、誰かのことを思えば奮い立つ。
だから彼女は愛されるのだ。
シルビアが愛した英雄たちが、そうであったように。
「そのためには、戦争に明け暮れた私ではなく。無縁だったあなたたちが戦っていかなければいけないのよ」
だから安心して託せるのだ。
シルビアが愛した英雄たちが、そうしたように。
であれば、彼女自身は。
シルビアは背もたれに体を投げ出す。
「それで言うと、私はもう戦えないわ」
「お姉ちゃん」
「これからたくさんの人に助けられていくあなたと違って、私にはもうリータはいない」
脳裏にまた、
初めて士官学校エポナキャンパスの図書館で出会ったあの瞬間から
二人の日々の、長い長い走馬灯が駆け巡る。
「あの子は私の力で、私の
涙の代わりに溢れたのは、
「私たちは二人で一人だった。二人でいるから一人分、なんでもやってこれた」
力尽きるようなため息と、
「そんな自分の半分を失ったの」
穏やかで力のない笑みだった。
「だから私はもう戦えない」
ケイはまたも、何も言わなかった。
二人のあいだにあった運命が、いかに大きなものであったか。
それこそ平和や世界の全てよりも大事だったのであろうこと。
それでいて、その全容を自分には計り知れないことを、理解しているからだろう。
「もちろん、戦争を知っている人も関わった方がいいのは道理だわ。急に全部、育てもせず次世代へ投げ出すのもね。でもごめんなさい。やっぱり私にその気力はないわ」
妹の瞳に映る自分が、はっきり見えているわけではないが。
それでも空気の抜けた風船のようであるのが彼女には分かった。
全てを失った姿であり、全ての荷が降りた姿。
「でもそれはジャンカルラがやってくれるわ。あの人はすごいわよ? 私の太鼓判。きっと私とアンヌ=マリーの三人分を背負って、ますます燃えてくれるわ」
「それに関しては、背負わせる側が気楽に言うもんじゃないと思う」
ようやくケイの、少しいつもの調子を取り戻したような相槌が入る。
彼女は唇をラベンダーティーで湿らせると、もう一度シルビアを見据えた。
「それで、皇帝辞めたあと、お姉ちゃんはどうするの?」
「え」
「えじゃないよ。まさか何も考えずに言ってんじゃないよね」
「あー……」
「こいつ」
自分が話すことばかり考えて、それ以外がさっぱり頭になかった。
一転攻勢に晒された彼女は曖昧に笑うと、
「燃え尽きらしく、のんびり過ごすのよ」
曖昧な答えで濁した。
やはり燃え尽きても、ノリと勢いの生き方は変わらないらしい。
かくして翌日の10月24日。
皇帝シルビア・マチルダ・バーナードの治世1周年の日。
彼女は記念式典にて戦争終結の演説を行うとともに、併せて退位を表明。
次期皇帝にケイを擁立する旨を語った。
当然これは政財界から一般市民まで、多くの人々の耳目を驚かせた。
ケイとだけ話し合って決めていたのだ。
政府高官から
『勝手にそんな話困る』
や、国民から
『この1年うまくやっていたのだから、まだ続けてほしい』
という声も多くあがったが。
当の本人はどこ吹く風。
11月31日付けで帝位を退き、
「さようなら。私の、愛と夢と青春の日々」
皇籍からも外れ、一人『黄金牡羊座宮殿』を去っていった。
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