第193話 国家と個人と

 ジャンカルラが上層部に対して含み笑いをしていた頃。

 組織の頂点に真正面からぶつかっていた人物がいる。


「陛下! 今からでもなんとかならないのですか!」


 惑星カピトリヌス、『黄金牡羊座宮殿』。皇帝執務室。

 夕方、政務も落ち着いた頃という配慮を持ちつつも強気に迫る女性。


 皇后クロエ・マリア・エリーザベト・シーガーである。


 いかにノーマンが温厚と言えど、デスクを叩いて許されるのは彼女とケイくらいだろう。

 とは思われるが、


「今さらもう、どうにもならないよ」

「何故です! 陛下がただ一言『中止する』と! 『悪かった』とおっしゃるだけで!」

「一言じゃないじゃないか」


 強気な相手に頭を抱える少年。

 温厚以上に弱気さで、案外誰が恐喝しても許されるかもしれない。


「そんなデートの予定みたいな話じゃないんだ。もうバーンズワース元帥に辞令も出したし、追討軍の組織も始まっている。たくさんの物事が動いてるんだ。今さら僕の一存で止まる範囲は通り過ぎている」

「何をおっしゃるのです! 動いている臣たちのことを思うなら! これ以上誤謬ごびゅうに基づく道を進ませないことでしょう!」

「しかし」


 弱いように見えて、ここまで押しても煮え切らないノーマン。


 クロエのデスクについた両手が、グッと握られる。

 爪が手のひらに当たるのを感じる。


「陛下お一人の一存では、とおっしゃるなら! ケイ殿下がいらっしゃるではありませんか! 殿下は今でもシルビア閣下の弁護状を送っておられます! お二人の聖意であれば!」


 悔しい。

 ふと、そんな言葉が彼女の脳裏をよぎる。


「全ての臣民が、納得して矛を収めるでしょう!」


 違う。

 二人、ではない。臣民でもない。


 ケイが背中を押せば。ケイの存在があれば。

 ノーマンは行動できるはずなのだ。


 ただ今の事態だって、彼女の言葉や彼女の安否。

 そのために皇帝が踊らされているにすぎない。

 今だって優柔不断なノーマンに、二度も決断させたのは彼女の影なのだ。

 なんならその決断すら。元老院の支持もあるのに、彼女一人の叱責で揺らいだほど。

 よくも悪くも、ケイこそが彼を動かす原動力なのだ。

 だからこそ、


 悔しい……!


 皇后である自分が、その存在たり得ないのが。


 夫婦という存在でありながら。『私を守るためにも』と追討令を出しながら。

 なおもその絆が姉への崇敬に及ばないのが。


 今まで少女マンガの主人公のように、多くの人に愛されてきたのに。

 ここ一番、必要な心の矢印が自分に向かないのが。


 人生で一番、途方もなく悔しい。



 クロエには分かる。

 ノーマンは悩んでいる。

 自身の判断が、命令が、シルビアを討つことが、本当に正しいのか。

 自信を持てないでいる。


 元来の迷いやすい性格以上に。

 それこそこの行為が、どこか間違っている自覚があるから。


 未熟で未経験な愚かさはあれど、皇族としてレベルの高い教育を受けた皇子である。

 落ち着いてから振り返れば、自身の判断を咀嚼できる聡さはある。

 また、弱さゆえの素直さもある。


 だから、過ちであると伝えれば、それを正せるはずなのに。



「姉上の言葉は、バーナード元帥に強要されている可能性がある。事実、元帥は姉上を解放しなかった」

「陛下っ!」

「皇后。あなたは『過ちは正さねばならない』と言うが、まだ結果は分からない。それならば余は、国民を導くものとして。まずはこの道が『過ちではなかった』と言えるための努力をしなければならない」



 取り憑かれたようなかたくなさを見せるのであった。






「一種のエディプス・コンプレックスでしょうな」



『黄金牡羊座宮殿』客室。

 皇帝執務室を辞したその足で、クロエはカタリナを伴いバーンズワースを訪ねた。


 彼はちょうど、イルミとチェスに興じている最中だった。

 そこで不躾とは思いつつも、


『ノーマンがおかしい。人物として一貫性がないほどに、シルビア討伐にこだわっている』


 と愚痴を溢すと、元帥は盤面から目を逸らさず、冒頭の言葉を呟いたのだ。


「それは、あの、心理学の」

「男子における『父を排除して母と』という、フロイトの概念ですね」


 カタリナが補足すると、バーンズワースは頷きながらビショップを手に取る。


「そのとおり。チェックメイト」

「うぅむ。陛下にとっては母の部分が殿下であり、父の位置にバーナード閣下を据えている、と」


 イルミの呻きは、敗れたことに関してか倒錯的な心理に関してか。


「だから本人も無意識、理由が分からないから解消もできない。相手本人に近親姦の話をできようもないから、ケイ殿下の声も届かない」

「なんてこと……」


 クロエはあまりにも絶望的な表情をしていたのだろう。


「いや、ジョークですよ、ジョーク。真に受けないで」

「ジュリアス。おまえのジョークは人を選びすぎる」

「クロエさま。ケイ殿下が欲しいから内乱を起こすなど、それこそ最も陛下らしくありません」


 周囲が慌てて取り繕う。

 彼女はついさっきノーマンに対して『ケイの壁』を感じている。

 少し過剰に効いてしまったようだ。


「あ、えぇ、そうね。でもそれなら、いったいどうすれば」

「はっきり申し上げて、戦いは避けられません」

「えっ」


 かと思えば包み隠さず即答するバーンズワースに、クロエも固まってしまう。


「たしかに陛下は不安や脆さが強いお人柄ではある。だけどそれは誰にでもある側面です。特に内乱後の新体制である皇国では、誰もが不安定さを抱えている」


 彼の口調は穏やかだった。

 まるでノーマンの弱さを肯定してやるような。

 もしくは毎年の台風のように、『そういうもの』として受容するような。


「誰もがこの空気にピリオドを求めている。よって陛下も無意識に求めたのでしょう。革命による破壊と再生、一連の血生臭い通過儀礼イニシエーション。その終焉と言い張るにふさわしいイベントを。全ての不安定さを背負って沈んでくれるものを。自身の不安の種に」

「そんなエゴな話がありますか!」


 クロエの叫びを、彼は否定も肯定もしなかった。

 ただ他者の考えとして受容している。


「これは簒奪者ショーンからなる国の後遺症です。個人が止められる潮流ではないのでしょう」


 それは、台風で例えたことで鑑みるなら、諦めなのだろうか。


「それでは、申し訳ないが我々はディナーの予約がありまして。ミチ姉とのチェスは秒殺だから、早めの時間を予約してある」

「おまえまた余計な一言を!」


 意外にも、二人は椅子から立ち上がる。

 あるいは。


 軍人としてマントを羽織り、軍帽を被る動きに。



 ただご自身は軍人としてできることをするだけ、とおっしゃるの?

 争いを避けられないなら、できるかぎり小さく治めるのみ、と。



 クロエはそんなドライさを。

 そのうえで、個人に止められぬ潮流の中でも、個人のベストを尽くす理想を。

 胸の奥に感じていた。

 もちろん、勝手な想像かもしれないが。



 そのまま両名をロータリーまで見送った彼女は、


「カタリナ」

「はい、クロエさま」


 遠くなる車を見つめながら、ギュッと拳を握った。



「私も、個人にできることをするわ」



 もう悔しいとかケイがどうとか言っている場合ではない。






 それから数日としないうちに。

 皇国中の軍人に、秘密の手紙が届くことになる。

 差出人は、皇后クロエ・マリア・エリーザベト・シーガー。

 内容は、



『どうか此度こたびの内乱。何かと理由を付けては、追討軍・抵抗戦力のどちらにも参加なされませんよう』



『少しでも、流れる血を少なくするために』

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