第192話 そしてここでも分岐点が
少し時を遡り、8月9日のことである。
『地球圏同盟』シルヴァヌス方面、惑星ウェルトゥムヌス。
17時28分。同盟軍基地格闘技訓練場にて。
タンクトップに乗馬ズボン姿で端のベンチに座っているのは、
提督ジャンカルラ・カーディナルである。
一通り汗を流した彼女は、シャワーも浴びずにドーナツを齧っている。
どうせこのあと射撃訓練で硝煙まみれになる。
諸々さっぱりするのは最後でいい。
それにしても、グロテスクなまでに青いドーナツである。
それをいかにもカロリー補給のためだけというように、気にせず口へ突っ込む。
夕飯も近い時間であるというのに。
しかし彼女がそれらを気にしない。
視線と空いた右手人差し指は、ベンチに置かれたタブレットに集中している。
と、その膜を破るように、
「提督」
下手すれば父親より聞いたかもしれない声が、彼女の頭上から降る。
実は彼女は世の娘にはめずらしく、母や姉より父の方が折り合いよかったのだが。
「やぁラングレーくん、どうしたんだい」
ジャンカルラが顔を上げると、そこにはやはり副官が立っている。
「ご報告があります。よろしいですか?」
声や表情に速報性は感じない。
ジャンカルラはタブレットをスリープにすると、ベンチから立ち上がる。
「ウェルカム。今ちょうど体術が終わったところさ。ただ、射撃があるからね」
彼女は副官を置いてロッカールームへ入ると、またすぐに出てきた。
肩にジャケットを羽織っている。
待たせないよう急いだのもあるだろう。
しかしそれ以上に、さすがに汗まみれのまま着替えたり前を閉じたりはしない。
「移動がてらに聞かせてもらおうか」
ジャンカルラのタブレットが沈黙すると、次はラングレーのものが起きる。
彼は画面をスワイプしながら、廊下を歩く提督のあとに続く。
が、目線は歩いて人にぶつからないことを重視している。
大体の内容が頭に入っているのだろう。
「『半笑い』がシルヴァヌスを離れ、ユースティティアに向かいました」
「やっぱりか」
対して、頭に入っていないはずのジャンカルラのリアクションは薄い。
完全に『そうなるだろうな』という態度である。
「やつならシルビアを助けに行くだろうさ。前回だってそうしたわけだし」
「提督も行かれましたね。シルビア・マチルダ・バーナード、存外に人望がある」
「ないよ。あったら今回みたいなピンチになるもんか。ただ、お人
「ではあなたもお人好しですか」
「僕じゃない、アンヌ=マリー。僕は尻に敷かれてただけさ」
HAHAHA! と一笑いし合って人物評は一区切り。
ラングレーの声が少し低くなる。
「ですが、往々にしてお人好しは隙が生まれるものです」
「うん。『半笑い』の不在で、シルヴァヌスは草刈り場となったわけだ。いつかのリーベルタースみたいにさ」
「御意」
「この僕を前にしてぇ? ナメくさった真似してくれるじゃないかよ」
「戦争などナメられてナンボです。外交は逆ですが」
戦争好きではないが、好戦的なのがジャンカルラである。
後ろを歩いている副官には見えないが、奥歯が獰猛に剥き出しなのが目に浮かぶ。
彼は宥めるように小さく咳払いを挟み、本題へ切り込む。
「それで、草刈りはなさいますか?」
「うーん」
提督の思案げな声とともに、二人は射撃訓練場のロッカールームへ到着する。
ここで着替える女性はまずいないので、ラングレーも中までついてくる。
「まぁ、やってもいいけどさ。せっかく敵がいないんじゃなぁ。ホリデイじゃないか」
「庭の草刈りは休日に行うものです」
「言えてるな」
あらかじめ予想できていたから緊急の話題ではないとはいえ。
軍事的には今後を大きく左右する、重大な分水嶺である。
それにしては、彼女の受け答えはややヘラヘラしているか。
何より、
「提督。重要なのは、草刈りだけではありません」
「庭の芝生にゃ水を撒けってかい?」
「芝生、であれば。青い芝生を、青い芝生の写真を志すなら。閣下は芝生を荒らす者を、駆除へ向かわれるのかお聞きしたい」
「ふむ」
どこで誰が聞いているとも限らない。ゆえに迂遠な言い方だが。
要は、前回の内乱、リーベルタースのように。
草刈り場を切り抜けた先。
またシルビアへ加勢しに行くのか。
そのことを彼は気にしている。
副官として提督の意向を理解しておきたいのだ。
「そうさなぁ」
ジャンカルラの返事に、ラングレーの眉が少し動く。
彼女の性格と過去の言動的に、「もちろん」と即答されると踏んでいたのだろう。
しかし提督はジャケットやら貴重品やらをロッカーにしまい、振り返らない。
そのまま背中で煮え切らない声を溢す。
「さっきも言ったけど、僕は別にお人好しじゃないんでね。『芝生の保全にご協力ください』って言ってた慈善活動家ももういないし」
こんなのはただのジョークで、真意でないことは彼にも、
いや、ずっと近くで仕えてきた彼にこそよく分かる。
ジャンカルラほどシルビアに惚れ込み、同じ理想を掲げている人物はいない。
ラングレーはそう信じている。
また、アンヌ=マリーについてもそう。
だから彼女が死んだくらいで
『もう僕にはあんなやつ、どうでもいい』
とはならない。
むしろ
『アンヌ=マリーの意志は僕が背負う』
と言い出すに決まっている。
何より、ついこのまえジャンカルラ自身が
『僕らも『四つの時代』を進めるべく、逆風の中を切り抜けていこう』
と発言したくらいだ。
それが妙に歯切れ悪い。
考えられるのは一つ。
それこそついこのまえの発言。
それも彼女ではなく、ラングレー自身の。
彼が先ほど迂遠な聞き方をしたので、ジャンカルラも本音を秘匿しているのだろう。
「上層部の意向であれば、まず遠征は確実に行うべきかと」
副官として、彼女の懸念事項を滲ませて意見具申すると、
「上層部か。ふふん。そうだな。そうだろうな」
提督は『正解』というように、わざわざ振り返って含み笑いを見せた。
「じゃあとりあえずそうしておいてさ。そっからじっくりチャンスを窺おうじゃないか」
一通り意思の疎通は終わったと、射撃フロアへ向かうジャンカルラだが。
『カーディナル提督、至急執務室までお戻りください。繰り返します。カーディナル提督、至急執務室まで』
「おっと」
軽いイントロのあと、基地内放送が広くも狭くもないロッカーに響く。
「まいったな、これ。シャワー入るタイミング逸したぞ。夕飯も」
「先ほどドーナツを召し上がっていて正解でしたな」
彼女はジャケット羽織ってりゃじゅうぶんと、着替えもせずロッカーを飛び出した。
かくして執務室に戻った二人を待っていたのは、客ではなかった。
タンクトップでもセーフである。
代わりに届いたのは、一通の長文な電報。
二人して顔を寄せ、
「あんまり寄るなよ。僕今汗臭いんだから」
「そんな無茶な」
内容を確認すると。
「これは」
「ガルシア提督か」
「大変なことになりましたな」
「うん」
青ざめるラングレーに軽く頷いたジャンカルラは、
「君の言ったとおり、僕の思ったとおりだ」
実に忌々しげに口角を上げた。
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