第246話 一歩前進、も

 たしかに手には紙袋。


 本人はムフーっとしているが、皇帝としてはたしなめねばならない。


「皇后! あなたはそんなことで国家のすえを決める議会を荒らすのか。もっと節度ある人物だと思っていたが、余の読み違いか? まったく侍従は何を」


 と続けたノーマンの視界に、カタリナも静々と現れる。


「おお、もう」


 彼が目頭を抑えるうちに、クロエはズンズン玉座へ詰め寄ってくる。


「さぁ陛下! ごちゃごちゃ言っていないでお食べなさい!」


 突き出されたクロワッサンに、ノーマンは眉をしかめる。


「ごちゃごちゃって。そもそも僕……余は食欲がないとあれほど」


 そのまま少し目を逸らした瞬間、



「ごちゃごちゃ言わない!!」



「なっ!?」


 彼女の言葉に、恫喝するような勢いすら宿る。

 口元にまでクロワッサンを持ってくる動きが、胸ぐらをつかむのと錯覚するほど。


「お気持ちはお察しいたします! ですが!」

「う、うん」


 こうなるともう、ノーマンは圧倒されるしかない。


「陛下を悩ませる事態は、はっきり申し上げて御身おんみの錆です!」

「う……!」

「後悔するのはよいでしょう! 反省するのも大いによいでしょう! しかし!」


 玉座の上でけ反る皇帝。

 対するクロエは、その膝へ乗り上げる一歩手前。

 さすがにそれはマズいと思ったか、いつでも止められるよう近くでカタリナが控える。


「それで『食事ができない』などと! 多くの仕える者たちに心労を掛けるのは、あってはならないことです!」

「それは……」

「多くの皇国将士臣民が、私たちの判断で犠牲になりました。これからも増えます。皇国は未曾有の危機となるでしょう」


 彼女のしなやかな指が、そっとノーマンの膝に触れる。

 諭すように、それでいて勇気付けるように。



「その時のために、皇帝であるあなたが。『食べられない』『気分が上がらない』などと弱っている場合ではないのです」



 かと思えば。

 ここに来てクロエは、ドレスの裾を捲り、

 皇帝の膝とまではいかないが、玉座の座面へ右のヒールを突き立て、

 左腕で彼の顔横の背もたれをドンと抑え、



「食え! 食って戦え!!」



 いよいよ口元へクロワッサンを押し付けた。


「むっぐ!」


 対して、最初は嫌がるような顔を見せたノーマンだが。

 彼も元より空腹なのだ。そもそも、食べられるものなら食べたいのだ。

 ただ、『食べよう』とならない。


 そこに、ここまで近付けられて鼻腔をくすぐる小麦とバターの豊かな香り。


 何より、クロエが議会に乗り込んでまで伝えてくれた、真っ直ぐな精神。


 熱量に押し開かれるように、小さく口を開けると、



「……おいしい」



「陛下」

「おいしいよ、クロエっ……!」

「陛下っ!」


 ほんの少しの一口、ほんの少しの一歩。

 それでも、大きなこと。

 彼女はノーマンを抱き締める。


「エラいっ! エラいですっ! 陛下! あなたは立派です!」

「いや、でも、そんな」


 照れて目を逸らそうとする相手の顔を、クロエはガッチリ捕まえ目を合わせる。


「たしかにまだ、問題は山積みです。でも、急に何もかもできるようにならなくていい」

「クロエ」



「ゆっくり、少しずつ。食べられるものを増やしていきましょう。私と一緒に」



 瞬間、


「Congratulations!!」

「素晴らしい!!」

「愛の勝利ですな!!」


 元老院たちは大袈裟な喝采に沸き立ち、


「ヒューヒュー!」


 カタリナも指笛で盛り上げる。


 重苦しい皇国の今にこそ、こんなしょうもないことでも明るくなるような。

 そんな人の心の光が必要なのだろう。



 という、9時42分の円卓の間に。



「失礼します! 急ぎ申し上げるべきことがございます!!」



 政務官の一人が、息を切らして飛び込んできた。


「何事だ!」

わきまえよ!」

「空気読め!」


 呆気に取られる皇帝夫妻も、元老院からのヤジも気に留めず。

 彼は大声でその報せを告げた。




「さる9月18日16時48分! エポナ艦隊、ユースティティア星域ロービーグスにて壊滅! ジュリアス・バーンズワース元帥閣下は戦死なされました!!」




「えっ」


 と、間の抜けた呟きをしたのは誰だろうか。

 そんなことを確かめる暇もなく、


「今、なんと?」


 ゆらりと、声も佇まいも幽鬼のように返したのは、


 カタリナ・バーンズワースである。


 政務官も今気付いたらしい。

 あっ、とした表情のあと口籠るが、


「なんとおっしゃいましたか?」

「あ、いやぁ」

「ジュリアス兄さまが?」


 詰め寄ってくる彼女を抑えられない。

 やがて、観念したように


「戦死、なされました」


 目を逸らしつつ、ポツリと答えた。

 すると先ほどまで冷たい静かさを保っていたカタリナは



「いやっ!」



 甲高い悲鳴一つ。

 急に取り乱し両手で顔を覆うと、兄とお揃いの美しい銀髪を振り乱す。


「カタリナ!」


 常に理知的で気丈に支えてくれた、一番の臣であり友の見たこともない姿。

 クロエは反射的に駆け寄るが、


 彼女の方が一歩早かった。

 あと一歩でクロエが抱き締められるというところで、食い違いに駆け出すと


「おおっ!」


 ヒールとは思えないスピードで円卓に飛び込み、元老院が驚く刹那、



 卓上の大理石の灰皿に、勢いそのまま額を叩き付けた。



 白い肌、銀の髪の女性にも、内側にはこんな色彩がと思うような赤が飛び散り……


「あっ、えっ、やっ」

「クロエ! 見るな!」



「嫌ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!??」



 彼女は友とシンクロするように、その場へ崩れ落ちた。


 そんなカタリナの姿を見せまいと。

 先ほどは自分が抱き締めたノーマンが被さって視界を覆うも、


 そもそもクロエの記憶は一度、そこで途切れてしまっている。

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