第264話 どいつもこいつも

 そんな一人の女性の名誉問題はさておき。

 背の低い塀に備えられたフェンスゲートには鍵が付いていない。

 カタリナは敷地内に入ると、玄関へ延びる道の脇。

 双方から割と中途半端な位置に立てられたポストを開ける。


 ダイヤルは5025。

 この配列を見るたびに思い出すのが、


「ノンデリめ」

「何か言いましたか?」

「いいえ、何も」











『カタリナ。ポストの底を二重底にしてあってね。そこに合鍵が隠してある』

『は?』

『ダイヤルは5025。僕の家だし、好きに使っていいってさ』

『ちょっと』



 この家はもともと、バーンズワースが自分用に買ったものだった。

 なんでもカーチャが物を増やしすぎて元帥公邸に入らなくなり、


『物置きに家買ったんだよねぇ。まだ一度も行ってないないんだけど』


 と言っていたのを聞いて、自分も欲しくなったらしい。


 が、元帥なんて忙しいし、ほぼ帝都にいないし、そもそもマメな性格じゃないし。

 結局彼も買うだけ買って、にしていた。


 そんなある年の暮れ、イルミが


『出世すると、年末年始も帝都だからなぁ。実家に全然帰れないし、ホテルもいまいちプライベート空間とは思えなくてな』


 と、ぼやいているのを耳にした。

 基地の寮や艦内の個室はあるが、彼女が言っているのはそういうことではない。

 周りに住んでいるのが上司や部下ではない、仕事や肩書きから解き放たれた空間。

 そういう意味でのプライベートハウスの話である。


 そこでバーンズワースは、


『じゃあちょうど使ってない家があるからあげるよ』


 と、半ば押し付けるように譲ってしまったのである。



 それでも愛する男からをもらうことが、女にとってどれだけ幸せか。

 イルミは大喜びでそれを受け取り、自身の好みに改造し、整え、


 そして、最後のピースに、


『なぁ、ジュリアス。そうは言ってもあれはおまえの所有物だ。だから、な?』

『なにこれ』

『合鍵作ったんだ。おまえの家でもあるから、好きに出入りして、使ってくれたらいい』

『ふーん』


 その愛する男本人を加えることで、巣としての完成を試みた。

 乙女の切実な想いが満載の鍵である。


 それを、あろうことかこの男、



『カタリナ。ポストの底を二重底にしてあってね。そこに合鍵が隠してある』

『は?』



 考えるかぎり、最低の扱いをしたのである。











「さぁ、中に入ってください」


 カタリナは一旦思い出の蓋を閉じると、代わりに玄関の鍵を開ける。


 あの時は我が兄ながら、一人の女として締め殺してやろうかとも思ったが。

 でも今は、そのおかげでこうして助けられている。

 感謝してもしたりないほどの恵みである。

 が、


「ほら、クロエ。中でゆっくり休みましょう」

「うぅ、メイメイ。ねぇ、メイメイは本当に……。もしかしたらまだ、がんばってるんじゃない? だって私、はっきり見てない! 迎えに行ってあげた方が」

「クロエ。だとしたらもう、これ以上危ない逃避行に付き合わせちゃいけない。ほら、朝っぱらから疲れたでしょう? もうお昼だ。何も食べてない。ゆっくりしよう」


 ノーマンに支えられて家に入るクロエの寂しい叫び。



 兄さまも、アッカーマンさんも。

 優しいけれど、優しさを勝手に置いていく人が多すぎる。

 受け取る側の気持ちも知らないで……。



 やはりどうしても、感謝だけで満たせない気持ちがある。

 だからこそ、



「ノンデリどもめ」



 彼女はせめてそう呟き、それ以上は蓋をするように玄関を閉じた。






 それから一行はまず、備蓄されていた缶詰やレトルトで空腹を満たし、入浴。

 その後、置いてあったボードゲーム(おそらくイルミがバーンズワースと遊ぶ想定で買ったのだろう)で気を紛らわせたり、

 蔵書(おそらくバーンズワースが来てくれないので、イルミが独りで読んでいたのだろう)に没頭したり、

 ラジオやテレビ(おそらくバーンズワースが来てくれないと、人の声がなくて寂しすぎるから以下略)で情報収集したりしていたが。


 あんなことがあったのだ。当然疲労は色濃い。

 秋の夕暮れが訪れる頃には、各々深い眠りに落ちていった。






 そんな時間に寝付いたからだろうか。

 カタリナが目覚めたのは、日付がもうすぐ変わろうかという頃だった。

 気付けばリビングのソファの上。どうやら寝落ちしていたらしい。


 状況も状況であるし、従者のさがとしても。

 寝落ち=なんらかの不手際を起こしてはいないかと不安になる。

 真っ暗な部屋を軽く見回すと、


「あら」


 キッチンでゆらゆら火が灯っている。

 つけっぱなしで寝ていたとしたら、とんでもないことである。

 急いでそちらへ向かうと、


「あ、起こしてしまいましたか」


 そこには寝巻きで肩にブランケットを羽織ったノーマンがいた。

 どうやら彼が湯を沸かしていたらしい。


「いえいえ、勝手に起きたのです。それより陛下は」

「僕はもう陛下じゃないですよ。そういうのをやめて逃げ出したのだから」


 彼は穏やかに笑う。憑き物が落ちたように笑う。

 だからカタリナに対しても、丁寧な言葉遣いをするのだろう。

 元来気弱で周囲も年上ばかりの少年は、『殿下』の頃はこういう話し方だった。

 それが皇帝になった時、威厳ある口調を義務付けられ矯正したが。

 今は解き放たれて元の男の子に戻る過渡期のような。

 両者が混ざった話し方を見せる。


 だが、彼女にはそれが、死期の近い病人が見せる清浄な笑みにも見えた。

 そんな雑念を振り払うべく、カタリナは途切れた質問の先を口に出す。


「……ノーマンさまは、こんな時間にいかがされましたか?」

「僕もふっと目が覚めてしまって。この季節の地下は寒いし。そしたらパントリーでこんなものを見つけて」


 彼が調理台から取り上げたのは、ココアの粉だった。

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