第250話 かくれんぼ

「陛下が、ですか」


 まだ7時まえのことである。

 侍従たちはこれから皇族を起こしに行こうかというところ。

 その詰所に彼女の方から訪れたので、カタリナは多少慌てている。

 彼女は咄嗟に持っていたコーヒーのマグカップを差し出した。

 が、クロエはとした口元を指差す。まだ歯を磨いていないらしい。

 彼女はコーヒーを受け取る代わりに、適当な椅子へ腰を下ろす。


「早めに目が覚めて、お腹空いたのかなって思って。それで厨房に行ったんだけど来てないって。この時間じゃ議会だって開いてないでしょ?」

「えぇ。たしかに、どちらへ行かれたのでしょうね。侍従たちを集めてお探しいたしましょう」

「お願い」

「はい。ではクロエさまは安心して、歯を磨いて朝食にいたしましょうね」


 この時点ではまだ、寝起きゆえかクロエがまったりしているのもあって。

 カタリナも妙な不安を煽らないように、落ち着いた対応をしていた。






 それから20分もしないくらいのことである。


 クロエが自室でカタリナに着替えを手伝ってもらっていると、


「ん?」

「どうかした?」

「いえ」


 窓の方から。

 コツンと軽い音が鳴るのを、カタリナの耳が捉えた。

 最初は家鳴りか気のせいかと思ったが、無視しているとまた


 コツン


 窓から音がする。


「今の聞こえた?」


 背中側の紐を締めてもらいつつ、クロエも首だけで振り返る。

 どうやら彼女にも聞こえているらしい。


「はい。鳥か何かがぶつかっているのでしょうか。少し見てみます」

「えぇ」


 カタリナが窓へ向かうと、ちょうどその時、


「あら!」


 キラリと光る小さい何かが、ガラスに当たって跳ね返る。


「カタリナ?」

「近付かないで! 危険かもしれません!」

「えっ!?」


 クロエを制しつつ、壁に身を隠して外を窺うと、


「うん? あれは」



 外の庭に、シャオメイがいた。


 彼女はメイド服の袖からボタンを千切り取り、こちらへ向かって投げ付けている。



「何をしているのですか!」


 カタリナが窓を開けて呼び掛けると、シャオメイは『しーっ』のジェスチャー。

 それから、落ちているのか拾ってきたのか、足元の枝にハンカチを結ぶと、


 脇へ退がるようにジェスチャーしたろうか。

 そのあと、



 槍投げのように枝を部屋へ投げ込んだ。



「なっ!」


 カタリナが叫んだ束の間、枝はカンカラ音を立てて床を滑る。


「えっ! 何っ!?」


『近付くな』と言われて、部屋の隅に避難していたクロエも驚く。


 意味不明な行動だし、皇后の部屋に物を投げ込むなど大問題だが。

 こんな方法で害しようと考える者がいるとも思えない。

 カタリナは素早く枝を拾いハンカチを広げると、そこには



I've fou陛下をnd the Emperorお見かけしました.”

Get to the早く納屋に barn, hurry行ってください.”

And with onlyあなたと, the Empress, the皇后陛下と grand chamberlain,侍従総長 and youだけで.”



「これは!」


 彼女の背筋がと震える。

 窓の外を見ると、シャオメイはもう走っていくところだった。



「どうしたの? 何か書いてあるの?」


 クロエの動揺しきった声に、カタリナは言い含めるように声を掛ける。


「クロエさま。最低限ではありますが、ドレスの必要なところは結んであります。なのでゆるいですが、滅多と脱げることはありません」

「え、えぇ」

「あなたは今すぐ、庭師の納屋へ向かってください。あのクーデターから逃げる時、チェーンソーを取ってきたところです」

「どうしてそんなところに?」


「そこに陛下がおられます」


 ずっと理解が追い付いていない彼女だったが。

 その言葉を聞いた瞬間、少し力の入った顔でゆっくり頷いた。


「シャオメイもいますから、大丈夫です。私は侍従総長を呼んでから参ります」

「……分かった」


 それ以上は何も聞かず、部屋を飛び出すクロエ。

 続いて廊下に出たカタリナは、残暑も去った秋ながら、額に汗が浮かぶのを感じた。


 シャオメイの急を要する態度。

 それでいて、侍従の内線を使わず絞った相手にだけ伝わるようにした連絡。

 庭師の納屋などという場所。


 嫌な予感しかしない。






 いくら庭は芝生や土の地面とはいえ、パンプスで走るのはキツい。

 スニーカー、とまで言わないが、せめて時にはブーツくらい履かせてほしい。

 実際ケイは愛用していた。社交界でも、彼女ならではの奇抜ファッションとして受け入れられていた。


「あぁ、奇抜ファッションだからダメなのか……」


 皇后クロエがドレスの裾を持ち上げ四苦八苦。息を切らして納屋へ向かっていると、


「あっ!」


 ちょうど目的地が見えてきたところ。

 手前のプラタナスの大樹の陰でしゃがみ込み、様子を窺うメイドの姿が。


「シャオメ」

「しーっ」


 人差し指で制され、クロエも彼女の隣にしゃがみ、小声で話し掛ける。


「カタリナが言っていたけど、陛下が?」

「はい。今入ってゆかれたところです」


 シャオメイは納屋を睨んだまま、小さく頷く。


「あんなところで何をするつもりなのかしら」


 小首を傾げるクロエの腰を、彼女はあらかじめ落ち着かせるようにさすり、


「分かりません。が、一つ言えることは」

「うん」


「落ちてきたら危ないものは、たくさんあるということです」


 静かに答えた。


「えっ!? じゃあ今すぐ止めに行かないと!!」


 不穏な言葉に、クロエも反射的に腰を浮かせる。

 しかし、それを予見していたのか、腰をさすっていた手が素早くドレスをつかむ。


「シャオメイ!?」

「焦ってはいけません。ドカドカ近付いて刺激すると、状況を悪化させる可能性があります。立て籠りを相手にする時の基本です」

「う、うん?」


 言われている内容よりは顔。

 初めて会った時の、あざといくらいの明るく柔和な表情とは似ても似つかない。

 あの梅梅娘娘と同じ人物なのかと思うほどの引き締まった表情。

 圧倒された彼女は、ただ素直に頷くしかなかった。



 忠告を受け、逸る気持ちを抑えて抜き足差し足。

 納屋の前まで来ると、


 中からゴトゴトと音がする。

 何か硬くて大きな物が落ちた様子も、苦しみ気配もない。


「よかった、大丈夫そう」


 クロエがほっと胸を撫で下ろす束の間、窓から中を窺っていたシャオメイは、


「皇后陛下、少し離れて」


 彼女に耳打ちし、納屋のドアの前に正対する。

 言われたとおりに距離をとったクロエが、何をするのかな? なんて顔をしていると、


 彼女はふーっと息を吐きながら、地面と平行にした両手を重ね、肚の前で下げ、



ッ!!」



 躊躇ないハイキックでドアを蹴破った。


「えぇーっ!?」


 さっきまで『刺激しないよう』などと言っていた人物のすることか。

 彼女の理解が追い付かないうちに、シャオメイは一気に納屋の中へ。

 ともすれば、このまま呆然と見送るだけになりそうだったクロエだが、



「なっ、なにっ!? わっ! やめっ! 何するんだっ! 放せっ!」



 ノーマンの声が聞こえてきて、ギリギリ解凍される。


「陛下! 陛下っ! お探ししましたよ!?」


 別に探させたことを怒ってはいないが、ちょっと心配した。

 そのことは素直にぶつけようと、中へ足を踏み入れた彼女の目に飛び込んできたのは


「えっ……?」


 木箱の隣で床に組み伏せられているノーマンと、

 その上に馬乗りのシャオメイと、



 天井のはりから、先が輪になった縄だった。

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