第213話 なんのことはない。恋。

 カーチャが声を上げたのには、二つの理由がある。


 一つは角を曲がった瞬間、思った以上に距離が詰まっていたこと。

 もちろん追い付くべく必死にやっていたのはそうだが、想定以上。

 これは明らかに、


「連中、逃げるのをやめたか!」


 その場に留まっていたとしか思えない。



 それを裏付けるのが、もう一つの理由。

 あともう一歩もしないうちに射程内へ捉えられそうな距離だったのだ。

 無論この時代の艦砲射撃は間合いも広いが、その分艦の速度も速い。

 ゆえに、相手が曲がった角を自分たちも曲がるのに、そうラップタイムは離れない。

 だというのに、


「しかし、これがエポナの練度か」


 彼女の視界、モニターには、



 こちら向きの見事な球体陣が、今にも組み上がろうとしている。



「前に進むだけが能じゃないらしい!」


 鋒矢陣は名のとおり矢、それも鏃と多少の柄の形。

 突撃が全て、前面で敵と当たることしか考えていない。よって後方は、ただの長方形や縦列であることが多い。

 事実として、ここまでのエポナ艦隊もそうであった。


 それがこの刹那の猶予のあいだに。

 反転し、形を変え。迎撃の準備を完成させようとしているのだ。


 おそよ艦隊運用の常識、物理法則では考えられない。

 驚嘆に値する。


 が、


 それでカーチャがしまうだろうか。

 否。


 そんなあり得ないこと程度、跳ね除けるのが元帥である。


「艦隊、斉射! ありがたくも敵は、射程内に居座ってくれたぞ!」


 彼女は勢いよく左手を突き出す。

 そう、完成手前なだけで、完成はしていないのだ。

 たとえ中身の9割が孵化目前までできていても、蛹は脆い。



「今のうちに焼き払ってしまえ!」






 一方。


「シルヴァヌス艦隊、来ます!」


 エポナ艦隊、戦艦『圧倒的Sweep』艦橋内。

 敵が曲がり角を越えてきた瞬間、


「来たぞ、ジュリアス」


 艦長席の隣で腕を組み、背筋を伸ばして立つイルミ。

 彼女の脳裏に、少しまえの時間が蘇る。






「君の命がほしい」


 静かにそう告げられた時、イルミの心臓は凍った。

 それがなプロポーズでないことくらい、彼女にも分かるからだ。


 かといって、信頼する上官から。

 何より思慕を寄せる男からの言葉に、ショックだったわけではない。

 ただ、



 あぁ。

 物語に出てくる悪魔に魅入られた女性は、みんな最後はこうだったな。

 悪いやつに命を取られてしまうんだ。



 自身がどこかでずっと予感していた運命に。

 気付かないフリをしていたとおりの現実に、驚愕したのである。


「背中を見せればカーチャは追ってくる。そうすれば僕らも、起死回生の勝負を仕掛けることができる」


 そんな悲壮たるメルヒェンなど思いもよらないのだろう。

 当の悪魔は、言い含めるように今までの前提を繰り返す。


「だけど君の言うとおり、まず僕らは甚大な被害を受ける。下手したらここで、起死回生どころか息の根が止まる」

「……そうだな」


 であれば、彼女とていつまでも固まっているわけにはいかない。

 バーンズワースの言わんとしていることを理解するよう努めなければならない。

 もっとも、そんな必要もないほどにストレートな話なのだが。


「つまり、我々は耐えなければならないということだな。一撃でやられないよう、かつ反撃で勝てるだけの余力を残しながら。脆弱な鋒矢陣の背面で、あのセナ元帥相手に」

「そういうことだ」


 彼は静かに頷く。


「そのためには、1分1秒でも長く、強く。敵の攻撃を耐え凌ぐ必要がある。それを確実たらしめるために」

「私の命が必要なんだな」


 イルミはデスクに手をついて、バーンズワースに顔を寄せた。

 開いているのか分からない糸目の、そのわずかな虹彩を覗き込むように。

 自らその瞳に吸い込まれ、全てを預けるように。


「そうだ。『柄』の部分を盾にして時間を稼いでくれ。そのあいだに『鏃』の方が旋回して、君に突き刺さる敵の横腹を突く」

「なるほど、なんとも命がないポジションだ」

「そこで万に一つ命を繋ぐためには、君の指揮能力、命がいる」


 散々言い淀んでいた彼も、もう誤魔化す様子はない。

 優美なから覗く視線に射竦められて、



 そうだ。

 魅入られた女たちは、何もただ命を奪われるわけじゃない。


 どいつもこいつも、自分から望んで差し出したんじゃないか。


 だったら、私も楽しんで、悦ばないと損じゃないか。



 契約者たる魔女は体が熱くなった。


「いいだろう。それなら私は『圧倒的スウィープ』に移乗する。着いたら連絡するよ」

「よろしく頼む」

「頼むついでに、あとのことは私に任せてくれるんだな?」

「好きにやってくれ。『教科書どおり』でも、それ以外でも」

「ふん」


 最後までいつもの二人らしく、からかって送り出してくれるらしい。

 だからイルミも去り際、一回くらい蹴ってやることにした。


「ちゃんと返せよ、私の命」


 以前にも述べたが、普段作戦行動中に彼女がタメ口をきくことはほぼない。

 あるとすれば周囲や自身の緊張をほぐすため、だが。

 もう一つ、別のパターンがある。



 それは『ジュリアス』と『ミチ姉』の、人と人、個人として向き合う時。



 ふくらはぎへ軽い一撃。

 しかしバーンズワースは微動だにせず、呻きもしない。

 振り返らず、呟くように、



「君が、自分で取りに来るんだ。ここに」



 その言葉が含む、いくつもの複雑な感情に。

 彼女は思わず口元が綻んだ。



「まったく。年下の男の子はワガママが多くて困る。甘え上手め」



 征くイルミにバーンズワースは振り返らない。

 背中を向けているのではなく、背中合わせ。預けられるのはお互いだけ。


 これは、悪魔の契約などではない。

 一人の軍人が仲間のために。

 一人の女がうる男のために、力を尽くす物語。

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