第114話 その白き喉に口付けを
「見られてしまいましたね」
「それは今さらでしょ」
アンヌ=マリーはクラッカーにジャムを塗り、ふふんと笑う。
「おっしゃるとおり、フランス語ですよ」
「何が書いてあるの?」
「歌詞です。『
「讃美歌?」
「です」
読めないし、フランス語タイトルでは分からないし、多分日本語でも知らないし。
そもそも聞いたことがあるものかも不明なので、知ったところでではあるが。
「あなたらしいわね」
「そうでしょう」
「でも、やっぱり意外だわ」
「そうですか? 私は敬虔なクリスチャンですよ?」
「そうだけど」
答えた彼女の声。目鼻立ち。性格。
いくら海外では日本ほどタトゥーに対する偏見がないとは言え。
「あなたが墨を入れたがるタイプとは思わなかったから」
「それはそうですね。事実興味はないし、目立つのを入れている人には驚きすらします」
それを聞いて、思わずシルビアは自分の首筋を撫でる。
相手の喉に触れる代わりに。
「……じゃあ」
「なんでしょう」
「それなのにどうして
「ふむ」
アンヌ=マリーも自身のタトゥーをなぞる。
髭の長い人が癖で撫でるような仕草。
「構いませんが、そんなにおもしろい話でもありませんよ?」
「そういうことで聞きたいんじゃないのよ」
「ならまぁ、よいでしょう」
彼女はグラスを空にすると、ワインの余韻を抜くように深いひと息をついた。
「私はこう見えても修道院育ちでして」
「そうでないと存在が経歴詐称だわ」
「失礼な。小さい頃の私は、ただ主の教えを守る日々に喜びを見出す子羊だったのですが。そのお務めのなかでも、取り分け好きなものがあったのです」
それがなんなのか、シルビアにも予想はついたが。
ここは語るのに任せることにした。
空のグラスにワインが注がれるあいだも、急かすことなくじっくりと待つ。
言うなれば彼女も、ただそんなことに喜びを見出しているのだった。
答えはスワリングとともに。
「毎朝の、讃美歌を歌う時間です。副院長さまのオルガンに合わせて」
指揮者の真似のように、小さく右の人差し指が振られる。
「これでも私は、院で一番のソプラノだったのですよ」
「きれいな声ですものね。滑舌とか発音も」
「ありがとう。なのでよく自由時間も、副院長さまと二人で大好きな
『
「徳の高い自由時間ね」
「院長さまも、『あなたが歌うことで主もお
アンヌ=マリーはそこで一区切り、静かにワインを口へ運ぶ。
続く声は、ややタンニンの渋みが染み込んだような響きだった。
「ですが、そのはずの歌が、悲劇を産んでしまいまして」
「歌が?」
パキッ、と板チョコが割られる。
「えぇ。まだ10つにもなっていなかったと思います。ある日私が自由時間に歌っていると、外から悲鳴が聞こえました」
「悲鳴?」
「副院長さまと様子を見に行くと。木が倒れていて近所のおじさんが下敷きに」
「まぁ!」
「しかもチェーンソーを扱ってらっしゃったようで。その、はい、左足に」
さすがのシルビアも喉がひくっとなって相槌が出なかった。
想像した彼女ですらこうなのだ。10つにならない少女の目に映った現実はいかほどか。
「切断とはならず木に潰されることもありませんでしたが。歩行障害は残ってしまったそうです」
「あぁ……」
アンヌ=マリーはようやく、割ったチョコレートを口に含む。
「庭木の剪定をしてくださっていた方なので、後日お見舞いに行ったのです。するとおじさんは、こうおっしゃいました」
チョコレートを飲み込んでも、甘い声にはならない。
そこまでビターでもないというのに。ワインには染まるというのに。
「『その声、お嬢ちゃんが歌ってた子だね。あんまり素敵な歌声だったから、おじさん聴き惚れてうっかりしちゃったよ』」
「もしかして」
「残念ながらその後も。自転車のわき見で事故が起きたり、鍋を火に掛けているのを忘れて火事になったり」
シルビアが何かフォローするまえに。
彼女は自嘲気味に笑った。無理に明るくするように笑った。
「だから、やめました。歌うの」
微笑みながら、ワインを飲む手が止まっているシルビアを手で促す。
『どうしたんですか? もっとどうぞ』と。
「しかし、それはそれで困ったことでして」
「そう、でしょう、ね」
「えぇ。一番好きなことを失いましたし、何より主へ信仰を届けることができない! 主からいただいた祈りの
アンヌ=マリーの細く白い指が、彼女の細く白い首筋へ。
その喉笛に乗る、黒い文字へ。
「なので、ここに讃美歌を刻みました。世の中に聞こえる形で歌えなくとも。私が息をする、言葉を発する一つ一つが、歌を奏でるように。主へ届くように」
「……」
返事ができないシルビアを気遣うように、彼女は少し大きい声を。
いや、今までが少し、いつもより小さかったか。
「話はこれでおしまいです。ね? おもしろい話ではなかったでしょう?」
ダメ押しに微笑まれては、何か返事しないわけにはいかない。
絞り出した言葉は、
「それで、カラオケは、タンバリンだったのね」
少々間抜けなものだったが、彼女はそれで満足なようだ。
「はい。そして、謝らなければならないのは。あの日、あなたが席を離れた隙に」
「……歌ってた?」
「……だって誰もいないし。マイクあるし」
「……ぷくっ」
「笑った? 今笑いました?」
「笑ってないひひひひ」
「主よ! 今そっちに一人送ります!」
「待って待って待って!」
チーズ用のナイフでアンヌ=マリーに襲われるシルビア。
酔ったじゃれ合い、半分わざと床へ押し倒されると。
薄着の彼女の喉元が目の前に。
思わず文章を指でなぞる。
「きゃっ!? 何を!?」
「優しいのね」
「何が!」
シルビアは驚いて離れようとする彼女の首へ手を回し、逃がさない。
が、その声にはイタズラっぽさより慈しみがある。
「あなたから歌を奪った神さまに、それでも届けようとするんだもの」
「あぁ」
くすぐったいのか、肌を赤くして震えていたアンヌ=マリーだが。
信仰の話となると、すぐに落ち着きを取り戻す。
彼女はどこか楽しそうに、歌のように言葉を紡ぐ。
「いつか私が主の元に召されたら。きっと『よくがんばった』と言って、ここに口付けをくださいますよ」
「ふーん」
聖女のありがたい説法に、うさんくさいものを見る目で応じたシルビアは、
「んっ」
「ぎゃっ!?」
首を伸ばし、その喉元へ唇で触れた。
「ななななっ! なっな何を!?」
「じゃあ神さまに会えるまでは、私がキスしてやろうってんのよ」
「はぁ!? いりませんが!?」
「うるさい」
「あなた酔ってますか!? 酔ってますね!!」
「酒飲んでんのよ! 酔わないわけないでしょ!」
「逆ギレ!?」
そうしてしばらく、ぎゃあぎゃあと戯れたシルビアは、
「……はっ」
朝目が覚めると、裸でベッドに寝ていた。
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