第130話 野望の夜
のどかな昼下がり。
窓から差し込む清らかな光。耐熱ガラスのグラスや、指を飾るプラチナだのサファイアだのに吸われている。
そんな一室。
ここは皇国
『黄金牡羊座宮殿』。
その、
破片は片付けられたが、あちこちに開いた穴や破損したままの調度品、
壁に染みとなった血飛沫までそのままの、
皇帝の私室。
サイドボードのような小さな丸テーブルの上、影すら眩しいグラスに。
角砂糖がひとつ。
上から、ちょうど立方体の上面まで浸かるように、複雑なハーブの薬草リキュール。
最後に、ポタージュよりは少し穏やかな息を立てる湯気。
それを、隣の格調高いロッキングチェアから、宝石輝く手で持ち上げる男は、
皇帝、ショーン・サイモン・バーナード。
上等なシャツとスラックスながら、第二ボタンまで開けたリラックス状態。
甘さと苦さの混ざった複雑な香気を受け取るのに万全の構え。
湯気の熱が鼻腔を奥まで開き、神経と血管を起こす。丁寧に繊細に、香りを
「くく」
我知らず、喉奥で蒸気とぶつかるように笑いが漏れる。
危ないハーブが入っているわけでも、うまくできたとご満悦なのでもない。
いや、別の意味では。
『うまくできた』とご満悦なのだ。
「シルビアめ。バーナード皇家の恥晒しめが」
思えば、野望の萌芽はこの時だった。
それまではただ漠然と、
『皇帝になってみたいものだ』
と思う程度のものだった。
しかしそれは、皇子に生まれたからにはチャンスがあること。
そのうえで、長男が皇太子となっているために本当はないこと。
努力実力で操作できない生まれ順により決まることへのやっかみ。
何より、『どうせ自分はならないのだから』という諦めと、逆に責任のない気楽さ。
それらから来る、子どもが寝るまえ布団でするような、『夢想』の
が、運命が動いたのはこの時。
第四皇女シルビア・マチルダ・バーナード。
彼女がクロエ・マリア・エリーザベト・シーガーをいじめていた件が明るみに出た時。
相手が社交界の花なだけに、大問題となった時。
父たる皇帝は晩餐の卓で唸ったのだ。
その時皇太子は公務。第三皇子は『安全な従軍』。第五皇女は謝罪を兼ねた食事会を主催。第六皇子はそちらに参加。
その場には父の他に、母とショーンしかいなかった。
使用人は数えないものとする。
「あまり大仰な処罰をするでもないが、皇室に置いておくには外聞の悪いやつよ。どうしたものか」
「軍にやってしまえばよろしい」
父の呟きに、彼はなんとなくで答えた。
「それではオットーも懲罰で派遣されたように見えるではないか」
「もっと明からさまな、最前線に派遣するのです。危険な、命すら危ぶまれるような」
「ふむ」
その場では意見採用とはならなかったが。
雑語りとは言え、死の可能性をふんだんに滲ませても父王は否定しなかった。
聡いショーンは理解する。
シルビアは父上に見捨てられたな。
なんなら消えた時の都合のよさすら、天秤に掛けられた。
その時はただ、自業自得だが哀れなことだ、としか思わなかった。
が、後日、
「エポナ方面軍への従軍、惑星イベリア基地への出向を命じる」
しれっと自身の意見が採用されていた時。
ショーンに電流が走った。
いくら悪名汚名にまみれた女とはいえ、
第四皇女などという席次とはいえ、
母親が皇后ではないとはいえ。
皇位継承の時が来たら面倒になりそうな「異母きょうだい」。
オッズは低くとも競争相手となる『政敵』を。
私は、蹴落としたのか?
私が? 私の意見が?
死体蹴りに近いとはいえ、こんなあっさり?
彼は異様な興奮を感じた。
身体中の血液が逆流し、交感神経が逆立つような。
胸中は燃え上がっているのに、悪い汗ばかり吹き出るような。
ラリったギャンブラーのような。
「は、はは、は」
なんだか笑えてきた。
止めなければならない。
ここで流されたら、脳内麻薬に取り憑かれそうだ。
「はははははは!! なんだ! 簡単じゃないか!!」
が、彼はあえて止めなかった。
むしろ大声で叫んだ。
取り憑かれたらいいじゃないか。
犬のようにお行儀よくしていたら、ササミのおやつでももらえるのか?
だったら、取り憑かれたらいいではないか。
皇帝になりたいとかそういうことより、もっと手前。
ライバルを制し勝利する!
人類が有史以来持ち続けた欲求! こんなにおもしろいゲームはない!
呆然と夢想するだけの退屈な日々が続くくらいなら……!
「はあっ! はあっ! はあっ!」
が、ここに来て彼は理性的だった。
一瞬取り憑かれても我に返られる。根が朴訥な男なのだ。
「ありえない。愚かな。相手のレベルが違うだろう。自壊した砦に旗を立てた程度で、天下の牙城を落とせるつもりか?」
愚かなる悪徳令嬢と生まれながらの皇太子では、話が違うのだ。
「余計なことを考えるな。シルビアを追いやっておいて、二の舞がしたいのか」
ショーンはあえて、声に出して否定した。
そうしないと、脳内麻薬の波が引かないから。
「こんなのは所詮、ギャンブルのビギナーズラック。ここで足を洗わないやつが自己破産など起こすのだ。おまえも貴族の家すら馬に食わせた学友を知っているだろう!」
水差しの中身を、被るかのように飲み干す。
「オレはここで退ける男のはずだ。賢い男のはずだ」
しかし、『ダメだ』と意識している時点で、往々にして手遅れなものである。
数日後には、彼はある人物のもとを訪れていた。
「ごきげんよう、シーガー卿。本日は君に頼みがあってね。何、君にとっても悪い話ではない。憂さ晴らしは必要だろう?」
皇国宰相、ニコラウス・ティル・ゲオルク・シーガーを。
これは決して、我欲のためではない。
父上はあの汚名が存在することを気に病んでおられた。
実の娘だというのに、消え去るメリットを天秤で測るほどだった。
ただ一点、
だから、私が消して差し上げるのだ。
秘密裏に、暗殺を。
これはただの、皇国のための政治であり、親孝行なのだ。
決して、
『念のため、邪魔な
などではない。
そう自分に言い聞かせながら。
しかし、この計画が失敗に終わり、宰相が刑場の露と消えたのは周知のとおり。
問題はそのあと。
特に彼へ何か処罰がくだることはなかった。
関与がバレなかったのか、政治的に見逃されたのかは分からない。
が、その事実がいよいよもって、最後の彼のタガを外した。
「これはもう、運命が味方している! 我が皇帝への道に!!」
あるいは、一度踏みとどまったように見えてそうでなかった時点で、すでに。
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