第215話 身を捨てるなら、浮かぶ瀬もあろうはず
「敵艦隊、間もなく30パーセントを喪失!」
「もうすぐですな、閣下」
『
一段下のフロアから、副官が振り返る。
しかし、
「まだまだだな。残り70パーセント、半分も削っちゃいない」
艦長席のカーチャは人差し指と中指で、キャンディをボウルから摘み上げる。
が、そのまま否定の意の証明かのように握り込んだ。
「まさか」
「と思うだろうがねぇ。シマヅ、ハツヅキ、最近だとフォン・マイバッハ准将とかいたろ」
「まさか!」
二度目の『まさか』は意味が違う。
副官の顔色が少し青くなったか。
今度は肯定するように、カーチャの拳の中からキャンディが出てくる。
「あるんだよ、時々。全滅上等の『捨て
フレーバーは、ブラッドオレンジ。
「やつらの目的は1分1秒でも長く時間を稼ぎ、1キロ1メートルでも遠く味方を逃すこと。『そろそろいい頃合い』なんてものは存在しないし、ボーダーもない」
彼女は弄んでいたキャンディをデスクに置く。
“コツ、という音がやけに冷たく耳に届いた”
とシロナの回顧録には残されている。
「だから、私らが諦めて引き返すか全滅でもしないかぎり。向こうは最後の一人が死ぬまで任務は完遂されない」
“続く言葉はもっと冷たかった”
とも。
損害を、犠牲を抑えるべくカーチャはこの戦場に立っているのだ。
真逆をいくエポナ艦隊の狂気に心底納得がいかないのだろう。
副官も空気に気圧されたらしい。
「であれば、こちらも1分1秒でも早く突破いたしませんとな」
一言残すと、逃げるように背を向けてしまった。
それがシロナにはなんとはなしに居心地悪い。
彼女は少し空気を
「でっ、ですね! 早くしないと、敵がどんどん攻め込んでっちゃうから!」
すると、デスクに置いたキャンディを人差し指で転がしていたカーチャは、
「攻め込ん……」
動きを止める。
「カーチャさま?」
「静かに」
「もぐっ」
彼女は覗き込んできたシロナの口へキャンディを突っ込む。
しかし包装が剥かれていない。
少女は一旦口から取り出すと、中身を取り出して再度口へ。
別にわざわざ食べる必要はないのだが。
一方カーチャは、糖分補給も忘れてブツブツ思考に没頭している。
「攻め込む、侵攻している? 撤退ではなく?」
左の親指を立て、両目のあいだを抑えるようにして。
「
シロナを黙らせたように、キャンディが口の中で音を立てるのも鬱陶しいのだろう。
それほどの集中力。
先ほど副官を縮こまらせた以上の気迫が滲む。
「鬼ごっこ中のあの状況で選ぶ策か? いや、進軍のためにはやむなしだったとして」
小声で早口、しかし句読点ごとの間合いは長く。
頭が高速で回転しつつ、熟考しているのが現れているような。
「これから進軍するのに、これだけの兵力を捨てていくか?」
「敵艦隊、損害30パーセントを越えました!」
観測手が叫ぶも、彼女は何もリアクションをしない。
シロナにキャンディを突っ込んだ時と違い、完全に自分の世界へ入ったのだろう。
「おかしいじゃないか。残った兵力で何ができる? エポナ艦隊健在でももう勝ち目の薄い兵力差だっていうのに。進軍したってなんの成果も得られやしないぞ」
右手の指先でデスクを叩き始めるが、その音も気にならないらしい。
むしろ手先の集中した神経に与えられる刺激を欲している。
「いや、それで言えば他の方面で敗れた時点で撤退すればいい。そういう意味じゃハナから無意味なことはしている。でも、でもあのバーンズワースが本当に、なんの意味もないことをするか? そんなことに自分や部下の命を賭けられるようなやつか?」
「敵艦隊、間もなく陣形の中心が露出します! おそらく旗艦もそこにあるものかと!」
「やつがわざわざ私らとの決戦を選んだからには、何かあるはずだ。何が狙いだ? そのためには何がいる? 何か、何が」
瞬間、カーチャの右手ははたと止まり、
デスクを思い切りバン! と叩いた。
「ひゃっ」
シロナが驚き肩を竦めると同時。
元帥はその反動で勢いよく立ち上がる。
「観測手! 敵艦隊はもう半分近く削れたんだな!」
「はっ、はいっ!」
観測手の声は少し上擦っている。
今まで報告しても返事がなかった相手から、いきなり大声が飛んできたのだ。無理もない。
カーチャもそこは気にしない。
「通信手! 全艦隊に通達!!」
「閣下! このままでは敵艦隊の砲撃が本艦にも届いてしまいます!」
『
悲痛な声で報告されるまでもなく。
モニターに映る前衛は薄く、敵艦隊は目と鼻の先まで接近してきている。
「閣下、艦を後退させましょう! 危険です!」
艦長も切羽詰まった声で進言するが、
「いや、不要だ」
イルミは静かに首を左右へ振った。
彼は艦長席から立ち上がる。
「決して保身で申し上げているのではありませんぞ! 少しでもこの抵抗を維持するには、あなたの指揮が必要だからだ! 元帥閣下もそう思われたからこそ、死地と知りながらあなたを派遣した!」
「そうでもない」
しかし彼女はなおも首を振る。
「陣形を決めた時点で、私の役目は終わったも同然だ。『あとは各員、最後まで抵抗せよ』これをただ遂行するのに、もはや私の声は必要ない」
「ならばこそ! 後方へ退避してもよいはずだ! 艦隊の柱石たるあなたが、好んで窮地に身を置くものか!」
「ここで本艦だけ退がってみろ。今はただ、士気が下がることのみが脅威だ。それのみが瓦解を加速させる。そんなことは許されないだろう」
「閣下……!」
そんな言い争いをしているあいだにも、
「敵艦隊斉射、来ます!」
数えるのも虚しい、何度目かの降り注ぐ光。
これもまた数えるのも虚しく、味方の艦が沈んでいくなか、
そのうちの一筋が、『
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます