第104話 畑に吹く『風』

 不思議なもので、口に出してから怖る怖るになるシルビア。

 少しだけ背を丸めて、アンヌ=マリーの様子を窺うと。


「その言葉、どちらで?」


 特別声が低くなったりはしないが、元来抑揚がない。


 よ、読めない! 怒ってる!? 怒ってない!?


「それは、ちょっと、小耳に挟んで。それで、カーディナル提督に聞いたら『本人に聞くといい』って」


 一応「ラングレーのヤローが言ってたぜ」とかは伏せておく。

 流れるようにジャンカルラへ責任転嫁もしておく。

 だって怖いんだもん。


 やっぱり聞かなきゃよかったと、相手の一挙一動を警戒するシルビア。

 すると、アンヌ=マリーの右手が動く。


「ひっ!?」


 殴られる!?


 咄嗟に頭を庇うシルビアだが、


「しーっ」


 その手は人差し指を立て、本人の口の前に。


「えっ」

「私は構いませんが、クルーのなかには気に入らない方もいらっしゃるようで」


 彼女は下のフロアへ振り向く。

 そこには副官がいることだろう。


「本艦はこれよりステラステラへ帰投します。私は艦長室にいますので、何かあった場合は呼んでください」

「はっ!」


 端的なやり取りを終えると、アンヌ=マリーは振り返って微笑んだ。


「人のいないところで、ゆっくり話しましょうか」






 艦長室は、一般兵士のそれに比べれば広い方とは思う。

 が、それでも軍艦という制約上、ビジネスホテルの一室くらいか。


 そこに、これは住人の趣味だろう。本棚が並び、中身もぎっちり。

 余計圧迫感を感じる。


「そちらに座ってください」


 勧められるまま、シルビアが一人掛けソファに腰を下ろすと。

 アンヌ=マリーは本棚で肩身が狭そうな、ガラス戸の棚へ。

 そこから取り出したのは、


「あら、それ」

「しーっ」


 ブルゴーニュタイプの赤ワイン。『2419 Pinot noir』とラベルにはある。


「作戦航海中ですが、内緒」


 彼女はワイン棚の引き出しからグラス二つと栓抜きも取り出し、テーブルに並べる。


「皇国の元帥閣下方は、昼間でも作戦中でも平気で蒸留酒飲んでるわよ」

「あらまぁ、羨ましい。ブルーチーズは平気ですか? 白カビにしておきますか?」


 今度は小型の冷蔵庫へ。中を漁りながら、背中で答えるアンヌ=マリー。


「あ、じゃあ白で」

「白カビは……、そうだ、いいブリーがありましたね」


 彼女はチーズとサラミ、ペッパーミルを。それから小さいナイフとカッティングボードを持って戻ってきた。


 19歳じゃなかったかしら?


 と思うシルビアだが、海外では『飲酒は18歳から』な国も多いことを思い出す。


「チーズとサラミをカットするので、ワインを開けていただけますか?」

「皇国の人間に尖ったものを与えて大丈夫かしら? ソムリエナイフで暗殺者を撃退する提督もいらっしゃるわよ?」

「無粋なことを。血を流すのはワインがなくなってからにしてください。混ざるといけない」



 それから、シルビアが慣れない抜栓に手こずっているあいだに。

 アンヌ=マリーはおつまみの準備を終え、ボードの端にカリカリと黒胡椒を挽いている。


「んぎぎ」

「焦らなくていいですよ」

「大丈、夫!」


 強がりと同時に、ポンと音を立て抜けるコルク。


「やったわ!」


グラスに注いで準備完了、割れないように軽くグラスを合わせると、


乾杯Alléluia

乾杯かんぱい


 ガーネットの液体を一口。

 渋みは控えめ、やや甘みがあって樽の香り。


「いかがですか?」

「飲みやすくて美味しいわ。ソムリエみたいなことは言えないけど」

「素直でしょう。畑もそうなのです。水はけがとても素直」

「いい畑ね」


 今ひとつ分かっていなさそうな相槌に、彼女はグラスを置いた。



「これが、『臆病風のアンヌ=マリー』の正体です」



「これが?」


 シルビアも思わずグラスを置く。


「分からないわ。ワインが怖いってこと? そんなのあだ名になる?」

「ワインは怖くないですよ?」

「意味が分からないわよ。そもそもあなた、臆病じゃないでしょ?」

「自分で言うのはどうでしょうね」

「臆病じゃないわ! 私はよく知ってるもの! なのにどうして? カーディナル提督から聞いたわ。強いのに、戦えば勝てるのに、自分から戦わない。だから『臆病風』って言われてるって」


 彼女は真っ直ぐアンヌ=マリーを見つめたが。

 当人はなんでもなさそうにグラスを取り、チーズとワインをマリアージュしている。

 それが


「言われてることは知ってるんでしょ? だったら払拭してやろうとか思わないの? 言われてるままでいいの? 悔しいとか腹立つとかないの?」


 逆に何故自分が、ここまで熱くなっているのだろう。

 シルビアが我に帰るほど、彼女の表情は淡々としていた。


「特にそういうのはない、ということもありますが」


 アンヌ=マリーはワインボトルを手に取り、ラベルを彼女へ向ける。


「このワイン、美味しいでしょう?」

「そうだけど、それが?」

「このワインが作られるには、いいブドウが必要で、いい畑が必要なのです」

「そうね」

「つまり人々には、畑が必要なのです」


 ボトルを置くと、初めて真剣に相手を見つめ返す。

 その表情に、シルビアも少し背筋が伸びる。



「ですが、戦いが起きれば。私が奪われた星を取り返そうと乗り込めば。戦火で畑は荒れてしまう」



 相変わらず静かな瞳である。

 だからこそ、そこに宿る意志は常にぶれないと知る。


「市民にとって『支配者は誰か』など、本当はどうでもいいのです。ただ自分の畑が無事であればいい。たとえ同盟市民でも、生活が守られるなら皇国の支配でも構わない。たとえ同盟が取り返しに来てくれたとて、畑が荒れるならその方が困る」


 まぁ、昨今のテロを考えれば、幻想なのかもしれませんが。

 そう付け足す彼女の白く細い指が、グラスの縁を優しくなぞる。

 愛おしそうに、慈しむように。


「ならば私は、市民が無事であれば。必ずしも土地を奪還しなくてもよいと考えています。元来宇宙は、星は、土地は、誰のものでもなかった。全て主のものであり、ただ主が我々へ『子らに明日のパンを』と与えてくださったものにすぎません」


 目を閉じ、厳かでいて飾らず軽やかに言葉を紡ぐアンヌ=マリー。

 シルビアはまた歌でも聞こえてきそうな気がしてきた。


「だから私は、それを血で取り返そうとは思いません。市民が幸せであれば、それはそのまま『そうあれかし』と。ただし、圧政に苦しむ土地があれば解放のために戦います。皇国軍が攻めてくれば畑を守るために戦います」


 ゆっくり目を開けた彼女は、乾杯するようにグラスを掲げると、


「それだけなのですよ」


 微笑みとウインクで締めくくった。


 ここまで言われたら、シルビアとても出ない。


「やっぱりあなた、聖女さまだわ」


 笑って。

 お互い気を取り直し、ワインとおつまみを楽しむしかなかった。

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